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第1話

 JR荻窪(おぎくぼ)駅、下り線のホーム中程で、浅戸(あさど)慧(けい)は電車を待っていた。  はぁ……と口から漏れたのは、溜め息。  慧の前に立ち、スマホをいじっていた女子高生がチラッと肩越しに振り向いた……と思ったら、マフラーに顔を半分隠しながら一歩離れた。  なにか咎めているとでも誤解されたか。慧はとっさに左手で拳を作り、口元に押しつけ、息を吹きかけた。  きみに向かって溜め息をついたわけじゃなく、手が冷たいから暖めただけです……と弁明したい気持ちを抑え、態度で地味にアピールする。  すると今度は、露骨に眉を寄せられた。もしや、態度がわざとらしかった? あざといとか、思われた?  ぐるぐると思考を巡らせたあげく、またしても慧は、はぁ……と疲労の息を漏らしてしまった。まずい、と思ったときには、女子高生は隣の列へ移動したあとだった。  自分勝手に深読みしては取りつくろい方を誤り、墓穴を掘る性格が嘆かわしい。  堂々巡りの結果、慧はポケットに入れたままの右手も外へ出し、顔の前で両手をこすり合わせた。  実際今日は、暦の上では大寒だ。一年で最も寒いと言われるこの日は、たとえ午後三時半でも冷えこみが厳しい。曇り空だから、とくに。  ほらね、こんなふうに――と言わんばかりに、一陣の風がホームを抜けた。  買ったばかりのスケッチパッドや絵の具などをパンパンに詰めた、ずっしり重いデイパックの肩ベルトを引っぱって背中に密着させ、風の通り抜けを阻止する。ついでにニットのスヌードで顔半分を覆った慧は、今度こそ両手をポケットに隠した。  カット代の節約で伸びた前髪が、風に煽られて視界を遮る。フェイクレザーのジャケットの下に重ねているパーカーのフードを被ろうかとも思ったが、ポケットに戻したばかりの手を再び冷気に晒す気にはなれない。  手を出さなかった理由は、寒いから……だけではない。ポケットの中のスマホを意識したくないからだ。正確には、意識しすぎているからだ。  荻窪美術専門学校デザイン科二年の同期・レナからラインが届いて、丸二日が過ぎた。  返事をすべく手帳タイプのスマホを開いては、ラインのアプリをタップしようと試みるのだが、結局は閉じてポケットに隠してしまう。二日前から同じ動作を延々と繰り返している自分に呆れるし、疲れるし、少しヘコむ。  いまも右ポケットの中で、スマホをつかんだままだ。既読になっているから、読んだことはレナに伝わっている。にもかかわらず、いまだに返信できない自分が鬱陶しくて……溜め息を量産してしまう。 「長押しで、未読のまま読めばよかった……」  呟いてから、それは卑怯だろ、と自分で自分を叱咤する声がどこかから聞こえてきて、ますます自分がイヤになる。 『あたし、これでも勇気を振り絞って告白したの。それなのに無視っていうか、教室でも避けられてるみたいで』 『そういうの一番キツいよ。無理なら無理、キライならキライって、はっきり言ってほしい』 『あたしは春になったら就職だし。いままでみたいに会えなくなるから、いましかないと思った。無視するほど迷惑だった?』 『こっちだって、どういう顔すればいいのか、わかんなくなるじゃん』 『お願い、ケイくん。返事して』  連続して届いた内容が、重い。普段レナと交わしていた『いまどこ』『なんか食べにいこ』などの短文とは熱量が違いすぎて、こっちこそ、どういう向き合い方をすればいいのか途方に暮れる。  レナのことは嫌いじゃない。それどころか可愛いと思っている。専門学校に入学した当初から。  慧が在籍する「デザイン科・イラストレーション専攻」の学生は、たった十人。授業初日で全員が友達になったほど、コンパクトなコースだ。  中でもバイト先が同じ武蔵境(むさしさかい)駅で、これまた同じ大型スーパー内だったレナは、入学初日から一緒にランチした仲だ。ちなみにレナは東館のテナントでスイーツのレジ、慧は西館で雑貨のレジを担当している。  話してみれば、レナも慧と同じ母子家庭育ちで、高校時代から奨学金の世話になっており、バイトは欠かせないという境遇も同じ。偶然を羅列しただけでも親近感を覚える。  それなのに、つきあえない。理由は……言えない。 「……って、一番傷つける言葉だよな」  ぼそぼそと呟いて、何度目かの溜め息をついたとき。  大きなランドセルを背負った半ズボンの制服姿……おそらく小学一年生……が三人、慧の隣に列を作った。  一番前の、線路側に立った男の子が斜めがけしているサブバッグはファスナーが開いたままで、濃紺の体操着がはみだしている。無理やり隙間を作って押しこんだと思われる窮屈そうな上履きも、サブバッグから飛びだしそうだ。微笑ましくて目尻が下がる。  それにしても、小さな体で大荷物だ。慧のデイパックの比ではない。  ふと見れば、彼のサブバッグに新幹線のアップリケが貼りついている。それも、三枚も。  電車好きかと想像するまでもなく、さっきから彼は熱心に、友達相手に電車の知識を披露している。パンタグラフにはこういう役目があって、車両に書かれているキハ何系という表記には意味があって……などなど、これは相当の電車マニアだ。 『まもなく三番線を、列車が通過いたします。危ないですから黄色い線までお下がりください……』  そういえば自分も、保育園時代は電車に夢中だった。電車だけじゃなく、車もだ。他にも船や飛行機……ありとあらゆる乗り物に興味を持った。多くの男児が通る道だ。  スーパーのレジの手前に並んでいた書籍コーナーで、初めて母に買ってもらった、小さな正方形の乗り物絵本。あれがきっかけで絵本が好きになり、絵を描くようになったのだ。  物心ついたときには慧の両親は離婚しており、母とふたり暮らしだった。  看護師の母はとにかく仕事が忙しく、当時勤務していた病院では頻繁にシフトが変わるため、電車で遠出も難しかった。当時の乗り物といえば、母の自転車のチャイルドシートか三輪車だけ。飛行機や船など夢のまた夢。……ちなみにマイカーは、わが家には存在しない。  駅の近くをとおるときは、必ず電車に手を振った。気づいてくれた電車内の乗客が、たまに手を振り返してくれるのが嬉しくて、飛びあがって喜んだ。  上空を飛行機が飛んでいるときは、口を開けて仰ぎ見た。あの飛行機が向かう先は、お菓子の国? おもちゃの国? 絵本がたくさん並ぶ国? 想像すると止まらなかった。   電車の絵本のページを開けば、頭の中で線路が伸びて、いろんな電車が走りだす。遮断機が下り、警笛が鳴り、カンカンカンと警報機が点滅し、山や空へ、慧はどんどん運ばれてゆく。船の絵本を開けば海へ、飛行機の絵本なら青空へ、心で自由に旅をする。  外国だって何度も行った。中でもお気に入りは中東だ。母が言うには、アラビアン・ナイトの絵本を読んでからしばらくの間、玄関マットの上に立っては、「飛べ!」と命令していたらしい。  そう、魔法のじゅうたんだ。「世にも珍しい宝を持参した者が、姫と結婚できる」と言われた三人の王子が、あれこれ持ってくる話。じゅうたんに心を奪われすぎて、話の結末は忘れてしまったが、電車や飛行機より自由度が高いその架空の乗り物に、慧は一時期、夢中になった。  何度も繰り返し読んだ本は、真似て描いたり、話の続きを考えたり。そんなとき、母は必ず褒めてくれた。そして描きたいときにすぐ描けるよう、紙やクレヨン、色鉛筆などを手の届く場所に置いてくれたのは、いま考えても最高のサポートだ。  実際に車に乗れなくても、電車や船に乗らなくても、飛行機や絨毯で空を飛ばなくても、絵本を読んだり描いたりすれば、世界旅行の夢は叶った。  そして二十歳現在、慧は美術の専門学校でイラストレーションを学び、三月には卒業を控える身だが……卒業制作提出期限まで残り二十日。絵コンテに時間をかけすぎて、やっと今夜から下絵に入る。結構ギリギリだが、完成した絵本を想像すると気持ちは弾む。  そう。じつは慧の夢は絵本作家だ。三カ月前にも、絵本新人賞に作品を投稿し、最終選考の上位十五名に残っている。応募するのは、今回が三度目になる。

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