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第6話

 天蓋に抱きつくようにして、とことこ歩いて引き開け、んしょ、んしょ、と言いながら背伸びし、ベッドの四方の柱にタッセルで留めた。そしてドアの外へ向かって、再び元気に呼びかける。 「たまちいが、おっき、ちまちたよーっ! おーじたまー。ハイダルおーじたまぁ~っ」  舌っ足らずのハイトーンに頬が緩むが、ちょっと待て、と、ここは冷静に思考した。 「いま、ハイダル王子……って、言った?」  首を捻って訊くと、男の子が振り向いた。言葉が通じるかどうかも含め、もう一度訊く。 「ってことは、ハイダルさんは、王子様?」 「そうでしゅ。おーじたまは、このくにの……」 「また間違えていますよ、ミシュアル」  ふいに、澄んだ声が割って入った。  今度は何者の登場だ……と鼓動を乱しながら、声が聞こえてきた手前のドアへ首を回すと、銀色の長髪を靡かせた美青年が、涼やかな笑みを浮かべて立っていた。  涼風が擬人化したかのような佇まいに、目が奪われる。ハリウッドの冒険ファンタジー映画に、こんな雰囲気の弓矢の名手がいたよな……と記憶を遡り、もしや自分は映画の中に入りこんだのか? と疑念を抱いた。そんな慧に微笑みかけ、いまさら彼がドアをノックする。 「失礼。順番を間違えました。声をかける前にノックするのが、人の世の礼儀ですね」  そう言って笑う口元にまで、清潔感と透明感が溢れている。 「ラーミーとお呼びください。王の命により、ケイさんのお怪我が治るまで、お世話をさせていただきます」 「……世話、ですか?」 「はい。不自由があれば、なんなりとおっしゃってください」 「あ……、はい。ありがとうござい、ます……」  足首まで隠れる浅葱色のトーブの足元では、さっき目で追い損ねたジャファルが、体をこすりつけて甘えている。ずいぶん懐いているようだ。彼はもしやジャファルの飼い主だろうか。ますますファンタジー映画の線が濃厚だ。  夢見心地の慧のうしろでは、赤い瞳の男の子……ミシュアルが拗ねている。 「だって、ラーミー」 「だってじゃありません。何度言ったらわかるのですか、ミシュアル。アムジャド王が逝去されて、もう半年も経つのですよ? アムジャド王亡きあと、いまやハイダル様がこの国の王です。ハイダル王、もしくは王様とお呼びなさい」 「いまラーミーも、ハイダルたまっていったでしゅ!」 「……私はいいのです」 「ラーミー、じゅるいでしゅ!」 「いいえ、ずるくありません。……ケイさんは怪我をされているのですよ。お静かに」 「しじゅかにしたら、ミルクプリンちゅくってくれましゅ?」 「……ずるくないですか? ミシュアル」  ふたりの会話に、慧は思わず噴きだしかけた。  見たところラーミーは慧より五、六歳ほど年上だ。ミシュアルとはどういう関係なのだろう。兄弟? ……にしては歳が離れている。親子? ……にしては似ていない。  滑るような足取りで、ラーミーがベッドへ近づいてきた。アーチの窓から差しこむ光で、その目の色が明るいブルーだと知った。浅葱色のトーブと同じだ。その白い額に光るVの字に垂れた髪飾りのトップは、紫色。アメジストだろうか。  窓からドアへ、そよ風が抜ける。天蓋が優しく波打つと同時に、ラーミーの銀髪も背で揺れる。外したシュマッグをイスに置き、ラーミーに駆けよって足元のジャファルを抱きあげるミシュアルもまた、綿毛のような金髪が眩しい。  眩しいのは、彼らの髪や瞳だけではない。その服装も華やかだ。たしか砂漠で会ったハイダルも、漆黒に金糸が織りこまれた豪華なトーブに身を包んでいた。これだけ多色な民族衣装が中東で愛用されているとは知らなかった。……と、勝手に中東と決めつける前に。 「和んでいる場合じゃなかった」  そもそも、ここは中東……中でもアラブに絞って正解なのか?   でもアラブの建物は、ここまで開放的ではないはずだ。太陽光を遮るためと、砂漠の砂の浸入を防ぐために、窓は高い位置に、極力小さめに作られているのが一般的なはずだから。 「アラブなようで、アラブじゃない……?」  もしかして、あれか? やっぱり自分は特急かいじに撥ねられて、その瞬間にタイムスリップしたのだろうか。時空の歪みに入りこんで異世界へ飛ばされたとか、そういうSF的な流れかもしれない。 「……まさかな」  納得できる回答になかなか辿りつけない慧をよそに、ラーミーがサイドテーブルにトレイを置いた。載っているのは、青空色のガラスの吸い飲み。  条件反射で喉がゴクリと起伏すると同時に、砂漠で口元に差しだされたガラスのボトルを思いだし、熱砂に吹かれながら抱き起こしてくれたハイダル王の雄々しさや……重なった唇の柔らかさまでがリアルに蘇り、挙動不審なほど目が泳いだ。  そういえば、あのあと自分はどういう順序を辿って、ここへ到着したのだろう。  ハイダルに抱きあげられ、ナージーという名のラクダの背に乗せられたところまでは覚えている。痛みと熱さで気を失い、そして、目覚めたらベッドの中で……。  あれ? と慧は額に手を当てた。胸や腕、腰にも手を当て、包帯の巻かれた太腿にも手を当てるが……。  そういえば全身の痛みや熱、頭痛や耳鳴りはどこへ行った? 汗でへばりついた砂はどうした? 拭いきれない冷や汗は? と、記憶をバタバタ取りだしたとき。 「────ハイダル王が、いらっしゃいました」  ふいにラーミーが言った。そして、その場で膝を少し曲げ、頭を垂れる。ラーミーに駆けよって横に並んだミシュアルも、可愛らしい仕草でドアに向かって会釈する。  人間たちを無視してダッシュしたのは、ジャファルだ。飛びつくジャファルを軽々と片手でキャッチし、「目覚めたか」と慧に微笑みかける美形が、ほんの一瞬、雄々しいライオンの姿と重なった。  慧は手の甲で目をこすり、もう一度しっかり目を見開き、いまそこに立っている男性が、砂漠で慧を助けてくれたハイダルに間違いないと確信した。 「ハイダル……王」  王だなんて、そんなおとぎ話みたいなこと……と笑い飛ばしたい気持ちはあっても、実際にハイダルを前にすれば、彼ほど「王」の称号がふさわしい人はいないと、全力で納得してしまう。  この威厳と存在感は、常人ではあり得ない。物語を紡ぐために、たくさんの人を観察してきたから……というわけではないが、人としての厚みや品格のようなものに対しては敏感だと自負している。  ベッドから下りて頭を下げるべきかと迷ったが、全裸では却って失礼だ。どうしよう……と迷った慧は、とにかく肌を隠さなければと、シーツを肩まで引っぱりあげて体を覆った。  緊張で心臓がバクバクする。ジャファルを抱いた立ち姿が、あまりにも……そう、あまりにもエキゾチックで、凜々しくて、頼もしくて、かっこよくて、非の打ちどころがなさすぎて、見れば見るほど現実とは思えない。  ハイダルがシュマッグを靡かせてやってきた。同時に、室内の空気の色が変化したのを、慧は敏感に察した。

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