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第5話

        ◆◆◆    目覚めと同時に、身構えた。  見開いた目を薄目に戻し、眼球だけをゆっくり左右に動かして、あたりを慎重にリサーチする。  幼少から日常的に創作を楽しみ、妄想を膨らませることを得意とする浅戸慧でも、この展開は予想外で、想像力が追いつかない。  ここは、どこだ?  どこなのかというよりも、現実か? と問うべきだろう。だが、夢を見ていると思えば納得だ。それも、エキゾチックかつロマンティックな白昼夢を。  ちなみに白昼夢とは、起きながらにして視る日中の夢のことで、実際に映像として体験している感覚に陥ったりするのだとか。現実と非現実の境が曖昧な状態というわけで、いまの心境にぴったりだ。  第一の非現実は、天井の高さだ。高飛びの選手がジャンプしても絶対届かない高さにある真っ白な天井には、カットガラスをふんだんに使った豪華なシャンデリアがぶら下がっている。  そして、そのシャンデリアを囲むようにして張り巡らされているのは、これまた精緻な技術で錬金されたと思しき、曲線の美しい金具だ。  第二の非現実は、その金具から四方に広がる、豊かなレースのカーテン……ではなく天蓋か。陽に透けて光り、優しい風にそよいでいる。  その天蓋越しに、軽く三メートルを超えると思われる大きなアーチ状の窓が、右手側に三つ見える。そこから差しこむ陽の光を無数のカットガラスが弾き、天蓋や白亜の壁に投影している。  優しい光の粒が真っ白な部屋の中でふわふわと優雅に躍るさまは、光のワルツを見ているかのようだ。ちなみに左手側にはアーチ型のドアが、確認できるだけでも三カ所ある。  第三の非現実は、慧が寝ている巨大なベッドだ。そもそもサイズが非常識。両手を伸ばしても端には届かないだろう。大人四人が余裕で並んで寝られそうだ。  そのうえ寝具は軽く、涼しい。室温が高めだからか、ひんやりとしたタオルケット……よりもっと薄い一枚布は、最高の肌触りだ。頬に触れる枕カバーも、背や腰を包むシーツもサラサラしていながら、触れるたびに肌が潤い、肌理が整うかのような極上品だ。  かなり高級なシルクだろうとの察しはつくが、シルク自体、さほど触れたことがないから断定はできない。ただ、気持ちよすぎて永久にゴロゴロしていたくなる……と寝返りを打ちかけてハッとした。  夢にしては、リアルだ。なにがって……いろいろ。  もしや、ここは病院か? でも病院の寝具にしては高級すぎる……と湧いた疑問を静かに飲みこむ。問題は、そこじゃない。……そこも結構な問題だが。  とにかく、夢で片づけるにしては妙だ。頬を撫でる風も。窓から入りこむ爽やかな花の香りも。日を反射して瞬くガラスも。そしてなにより、この寝具の肌触りが。  慧は薄布の下で、自分の胸に触れた。その手をゆっくりと下へ移動させ、ヘソを確認し、心臓をバクバクさせながら腰に触れた直後、ザーッと血の気が引いた。  なんと、穿いていない。  ただし、左太腿に包帯らしきものは巻かれている。誰かに手当てされたようだが、意識を失っている間の変化に「他人の痕跡」を発見し、カーッと顔が熱くなる。  見知らぬ場所のおとぎ話のような巨大ベッドで、知らないうちに裸にされ、手当てされ、パンツも穿かずに爆睡していた無防備さが恐ろしい。  ここは本当に病院か? それともリゾートホテル? 手がかりを求め、陽の射す窓へ顔を向ければ。 「……ニャア」  ニャア、と鳴かれた。  発声地点に目を凝らせば、細く開いた天蓋の隙間の向こう側に、ラタンの大きな背もたれがついた、立派な肘掛けイス発見。  ベッドで横たわる慧を監視するかのような位置に置かれたそこでは、黄色いシュマッグと赤いトーブに身を包んだ四歳くらいの男の子がちょこんと座り、熟睡している。シュマッグから覗くのは、柔らかそうな癖毛の金髪とピンクの頬。図らずも、第四の非現実に遭遇だ。  その金髪の男の子の膝の上には、濃いグレーの虎模様の猫が、置物のように鎮座している。お座りをしたその姿は、男の子の座高よりやや高めで、猫にしてはビッグサイズだ。太っているとかではなく、そういうサイズの生き物のようだ。  その猫が、大きな目をさらに見開き、ジーッとこちらを観察している。ちなみに男の子は気持ちよさげに眠っているから、ニャアと鳴いたのは、この猫で間違いない。  見つめ返すと、猫のほうも顔を前へ突きだし、前脚を揃えて踏ん張り、ますます慧を注視する。  眉間から頭頂部にかけて、黒い毛が十文字に生えている。完全にキャラとして立っているその外見に感動する。黒毛混じりの長い尻尾が、ゆぅらゆぅらとS字を描いて揺れるのは警戒か、獲物に飛びかかる前兆か。  見合って、見合って、見つめ合って……猫が耳を動かした刹那、長い毛が陽を反射して浮かびあがった。この特徴のある長毛は、まさか、カラカル?  例の民族衣装の課題の際に得た知識だが、カラカルは、中東の乾燥地に棲む猫科の動物だ。日本猫と似た風貌に親しみが湧くが、比較すれば顔つきは凜々しく、牙も爪も鋭い。  一般的な猫と比較して耳が大きく、縦にも長い。最大の特徴は、その尖った先端から生えた房状の長毛だ。  ふいにカラカルが身構え、天蓋の隙間に狙いを定めて飛びかかった。  その柔軟で美しいジャンプに見惚れ、慧は目を閉じるのも忘れていた。  慧の顔の前に、カラカルがストッと着地する。文字どおり、まさに目の前。距離にして眼球から数センチ!  慧は目を剥いたままゴクリと息を呑んだ。肝が冷えるとは、このことだ。この鋭い爪が目に刺さっていたら、失明は免れなかった。  森の中で熊に遭遇したときのように……したことはないが、慧は息を止め、気づかれないようそっと目を閉じ、死んだふりをした。と、カラカルが顔を寄せ、フンフンと匂いを嗅いでいる。慧の生死を確かめているのだろうか。  と、ふいに頬がヒヤッとした。薄目を開けて確かめてみれば、なんと、前脚で頬をプッシュされている。  ぎゅーっと押しては離し、押しては離し。それを何度か繰り返したのち、右だけではなく左の前脚も、慧の額に押しつけてきた。  ついには慧に乗り上がるようにして、むにむにむに……と肉球で、顔面をマッサージしはじめる。 「…………っ」  ヤバい。やることが可愛すぎる! まさかの踏み踏みマッサージに噴きだしそうだ。  ただ、毛はくすぐったいが爪は痛い。仕草はコミカルで可愛らしいが、この鋭い爪がニュッと伸びたら流血沙汰……という恐怖と背中合わせのため、顔の筋肉は解れても、緊張の糸は解れそうにない。  慧は爪を警戒しつつも、無心に踏み踏みし続けるカラカルの、その美しい目を盗み見た。横から入りこむ陽の光で金に見えたり、紫だったり、青みがかったり。この世のものとは思えないほど美しい。  その輝きに魅入られて、知らないうちに両目を開いていた──らしい。  パチッと音がしたかと思うほど、カラカルとしっかり目が合った。  肉球マッサージがピタリと止まる。そして、慧を見つめたまま、そろり……と右前脚を浮かせ、下ろし、今度は左前脚を持ちあげて降り、ゆっくり、ゆっくり、後退する。  せっかくのスキンシップだったのに、去られてしまうのは忍びない。カラカルを極力驚かせないよう、「やあ」と声をかけてみたのだが。 「ギニャーッ!」  カラカルが総毛立ち、素早くバックジャンプした!  勢い余ってベッドから落ちる……ことはない。さすがは猫科だ。体をバネのように使ってベッドの端を蹴り、天蓋に耳を掠めながらも、眠る男の子の膝の上にストッと着地した。  カラカルが男の子を揺り起こす。さっき慧にしたのと同じように、左右の前脚で頬を踏み踏み……というより、これはアレだ、ネコパンチだ。  もしや、さっきの踏み踏みは、慧を起こそうとしていたのか? そしておそらく、予期せぬタイミングで声をかけたから、ビックリしたのかもしれない。 「いたいでしゅよ、ジャファルぅ~」  ピンク色の頬を膨らませ、「もぉ~」と男の子が唇を尖らせる。  まだネコパンチを続行するカラカル……ジャファルの攻撃を避けつつ、ジャファルを逆向きに返して両腕で抱えこみ、頭頂部に顎を載せ、あくびをひとつ。その直後、「あ」の形に口を開いたままピタッと動きを止めたのは、慧の視線に気づいたからだ。  男の子も驚いた顔をしているが、慧も相当驚いた。  なぜなら、男の子の目が赤かったから。  泣き腫らしたとか結膜炎とか、そういう類の赤ではない。日本人でいうところの黒目部分……瞳孔や、その周囲の虹彩がルビーのように赤く光っているのだ。  こんな瞳の色の人種が存在するとは、知らなかった。 「えっと、こんにちは。それとも、ハロー?」 「…………」 「どっちも通じない? あ、でもさっき、日本語をしゃべったよね?」  話しかけると、男の子はルビー色の瞳をぱちぱちと瞬き、ぴょんっと床に飛び降りた。同時にジャファルが男の子の腕からジャンプし、ベッドへ飛び移る。そうかと思えばまたひと蹴りして、一瞬で視界の外へ駆け抜けた。要するに、速すぎて見失った。 「おーじたまーっ!」  突然、男の子が大声を発した。

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