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第4話

 突然のくちづけに、ピクンッと手足が突っ張った。  ジタバタ暴れる体を、逞しい腕でがっしりとホールドされ、さらに唇を押しつけられたのは、水を零さないためだろう。もちろん、そうに違いないのだが……。 「んん……っ」  口の中に水が溢れ、反射的に喉が起伏する。ゴクリ……と飲み下す音が大袈裟なほど体に響き、カーッと全身が熱くなった。  いったん離れた唇が、再び水分をたっぷり含み、先ほどと同じようにして、半ば強引に押しつけられた。 「う……っ」  彼の唇も、そこから注ぎこまれる水も、ひんやりしている。生きていた喜びを水と一緒に味わいつつも、水分補給される前より鼓動が乱れて目眩がする。だって、口移しなんて……そもそも他人と唇を合わせる行為自体、生まれて初めてなのだから。  狼狽えつつも、すみません……と謝る慧に、彼はどこまでも優しかった。 「なぜ謝る? そなたは自分の身だけを案じていればよい」  そんなセリフで微笑まれても、どう返せばいいのやら。  傷ついているときだからこそ、よけいに人の優しさが染みるのかもしれないが、それを差し引いても、彼は慈愛のかたまりだ。  自分だったら、他人に口移しで水を飲ませるという大胆な行為は絶対にできない。口移しの直後に余裕で微笑みかけることも、ハードルが高すぎて真似できない。  決して多くはない経験と知識に基づき、一点だけ情報を追加するとしたら、この口調からして彼の身分は相当高い。……あれだ、そう、貴族だ。でも、どこの?  もっと飲むがよいと微笑まれ、またしても彼が水を口に含もうとしたが、それはさすがに辞退した。なぜ拒む? と言わんばかりに眉を寄せられ、こちらのほうが困惑する。  黒く長いまつげで縁どられた彼の双眸は、優しさの中にも厳しさと強さが見え隠れして、色気パワーが凄まじい。まるで雄のフェロモンを凝縮させたような瞳だ。 弱冠二十歳の慧では経験値が低すぎて、真正面から受け止めるには度胸がいる。こう言っては失礼だが、彼の視線は猥褻物に等しいと思う。本人には聞かせられないが。  目を逸らしたら顎をつかまれ、心臓が口から飛び出しそうになったとき。  どういう理由でそうなったのか、ちゅっと唇を啄まれた。  一回ではない。唇の先端を吸われた次の瞬間には、ペロリと唇の端を舐められ、慧は一瞬、気絶した。心臓が口から飛びだしたらしい。辛うじて元の位置に戻ったが。 「いっ、いま、なっ、なな、な……っ」 「水滴がついていた」  なぁんだ、そうでしたか~と、納得して終わる行為ではない。驚きすぎて無駄に瞬きを繰り返す慧に、彼が優しく目を細める。 「たとえ一滴でも、水は貴重だ」  理由を告げる彼の手元……ガラスのボトルに視線を落とせば、ちゃぷん……と切ない音が聞こえそうなほど少量の水が、光を弾いて揺れている。  慧に与えたからだとすれば、大変な迷惑をかけてしまった。この暑さで飲み水が尽きれば命にかかわることくらい、慧でも容易に想像できる。 「すみ、ません……でした」  邪な妄想をしてしまった失礼も含め、掠れた声を絞りだして謝ると、彼が目を瞠った。そして困ったように首を傾げ、なぜか笑みを噛み殺している。慧自身は混乱の最中にいるというのに彼は余裕綽々で、ちょっと解せない。 「申し遅れた。私の名はハイダル。そなたを蹴ったのはナージー。私のラクダだ」  荻窪駅の駅員ですという無難な挨拶を、この期に及んでまだ頭の片隅でイメージしていたため、ラクダが一体何者か、すぐには理解できなかった。 「らく、だ……?」  訊き返すと、白っぽくて大きな動物の顔……丸みを帯びた大きな鼻先が、にゅっと頭上に現れてギョッとした。ブルルル……と鼻を鳴らし、慧を見つめているのは……。 「本物の、動物の……ラクダ?」  半信半疑でラクダに訊くと、そうでございますとばかりに、ラクダが二回頷いた。慧の言葉がわかるのか、それとも単なる偶然か。  どちらにしても、映像や着ぐるみではない。ほんのり獣臭がするから、間違いなく本物のラクダだと思う。  慧を覗きこむ瞳は二重瞼で大きく、長いまつげが密集している。砂埃から眼球をガードするためだと、イラストを描くときに学習した。もうひとつ特徴を挙げるなら、鼻の穴も自在に閉じる。こちらも砂埃を吸いこまないためだ。  それにしても実物のラクダは、写真で見るよりはるかに可愛い顔をしている。顔全体を覆う体毛も細かくて愛らしく、まるで巨大なハムスター……とミニマムサイズに喩える時点で、自分の正気に自信がない。やはり頭を強打したか。  興味津々でラクダを眺めていたら、あまりにも緩めすぎた気持ちをムチ打つかのように、唐突に激痛が蘇った。 「い……っ」  体の左側を庇うようにして抱えこむと、彼……ハイダルが慧の左腿に手を当て、眉を寄せた。 「血が滲んでいる。かなり痛むか?」  分厚いワークパンツの生地が裂けるほどの衝撃だ。だが初対面の相手を前に「痛いです」と泣き言を零すのは情けないから、歯を食いしばって耐えた。額の汗がこめかみを伝い、ポタポタ落ちる。 「そなたとナージーの衝突を避けられなかった私の罪だ。すまない」  状況が把握できないから、謝られても返答に困る。それに衝突したのはラクダではなく、特急かいじだ。叩きつけられたのは灼熱の砂漠ではなく、真冬の線路のはず……なのだが。  現情報を集約するなら、ここは真冬の荻窪駅ではない。  慧の、決して多くはない約二十年の経験と知識で結論づければ、中東のどこかの国の砂漠の真ん中────と、断定していいと思う。  もしくは鳥取砂丘あたりで、アラビアン・ナイト風の映画でも撮影しているのか。  それならハイダルの日本語が流暢な理由にも納得がいく。日本在住歴の長いアラブ人というわけだ。たぶんそうだ。  ……と無理に結論づけようとしたが、だったら撮影機材はどこだ? 監督は? スタッフは? と湯水のように疑問噴出。ハイダルとナージー以外に誰の姿も見えないし、ヘリやドローンも飛んでいないから、映画のロケの可能性は低い。  そもそも鳥取砂丘は、鳥取にあるから鳥取砂丘なのだ。荻窪に砂場はあるかもしれないが、砂丘はない。 そういえば、立川駅からふたつ先の立飛(たちひ)駅にタチヒビーチという名称の砂浜が造られたという話だが、立飛まで飛ばされるはずがない。……これ以上考えると、本当に頭がおかしくなる。  どう考えても辻褄が合わず、再び混乱の渦に飲まれ、痛みの海にズブズブ沈む。また耳鳴りが舞い戻る。戻ってこなくていいのに。  頭が締めつけられるように痛い。体の痛みにも襲われ、そのうえ熱風で呼吸ができない。 「この砂漠は……そなたが生きた世界との中継地点だ。ここにいては、転生直前にそなたの身に起きた事象の影響が及び続け、永遠に苦しむことになる」  不思議なことを呟いて、ハイダルが慧の膝裏に肘をかけ、抱きあげた。  だが持ちあげられただけで背中や腰にも激痛が走り、激しい痙攣に見舞われた。全身から脂汗が噴きだす。痛みが徐々に激しくなり、骨がミシミシと音を立てる。 「ぐ……ぅっ」  耐えなさいとハイダルに叱責され、歯を食いしばった。頼れる人はハイダルだけ。とにかく彼に従うほかない。 「一刻も早く城へ向かおう」 「し、ろ……?」 「そうだ。私の城へ連れていく。ここから離れて領内に入れば、痛みは和らぐ」  体を硬直させる慧を、ハイダルは逞しい腕でしっかりとホールドしてくれた。見知らぬ人の腕なのに、とてつもない安心感だ。 「ナージーの背は少々揺れるが、領内へ移動するまでの辛抱だ。痛みで命が果てる前に急ごう。……そなた、名はなんという?」 「……ケイ」  ファーストネームを口にするだけで精一杯。痛みで命が果てる前に……とハイダルは言ったが、それは決して大袈裟ではない。  舞い戻ってきた痛みは、尋常じゃなかった。手足がバラバラになりそうだ。たったいま特急かいじに激突したかと思うほどに。  これからラクダに揺られて城まで……百歩譲って現在地が鳥取砂丘だとして、ここから鳥取城まで、どれくらい距離があるのだろう。  ラクダに乗ったことはないが、同じ側の足を同時に出す「側対歩」で歩く生き物だから、左右に大きく揺れるはずだ。瀕死の体でも耐えられる程度の振り幅であることを祈るしかない。  ナージーが身を低くする。ふたつあるコブの谷間へ乗せられる際、腿がナージーの胴に触れただけで、飛びあがらんばかりの激痛が走った。目から火花どころか、星がチカチカと瞬きはじめ、気絶と正気の境目で吐きそうになった。  グワァーと、ナージーが切なげな声をあげる。ごめんなさいと謝られたような気がして、ナージーのせいじゃないよ……と意識を振り絞ってコブを撫でた。……実際には、コブに寄りかかっただけかもしれないが。  とにかくもう、顔を起こせない。腕も上がらない。瞼が重い。砂漠に意識が吸い取られる。精気も……魂も。  うしろに跨がったハイダルが慧の体にシュマッグを巻きつけ、ハイダルの体と結びつけ、固定してくれた。おそらくシートベルト代わりだ。ありがたい。ナージーから落ちる自信しかなかったから。 「ケイ。私の声が聞こえるか?」  ハイダルが呼びかけている。だけど返事は……無理だ。  ナージーが駆けている。ものすごい速さだ。ラクダって、もっとおっとりした生き物かと思っていたが……全然違った。  振動で骨がバラバラになりそうだ。息を吸うのも重労働で、声帯を震わせる力も尽きた。 「ケイ、気をしっかり持ちなさい、ケイ……────」  ハイダルの声が、遠くなる。  どんどん、どんどん、遠ざかる。

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