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第3話

        ◆◆◆     「ぐふっ!」  叩きつけられた反動で、激痛が走った。 「ぐうぅっ」  頭の先から爪先まで、人生で一度も味わったことのない痛みに襲われ、慧は呻いた。 「…………っ!」  息ができない。頭がガンガンする。喉の筋肉が締まっているのは、痛みで歯を食いしばりすぎているからだ。でも食いしばらなければ失神しそうなほど、体が痛くてたまらない。  関節が外れたか、それともどこか骨折したか。おまけに目の前がチカチカする。目から火花が散るというのは、こういうことか。……と、学習している場合じゃない。   痛みに悶絶しながらも必死で息を吸うが、肺が膨らむと同時に筋肉や骨が悲鳴をあげ、次の呼吸を阻まれる。  だが、こうしてはいられない。一刻も早く逃げなければ、特急かいじに撥ねられる! 「く……っ」  痛くて立てない。転がるしかない。でも、どっちへ?   ダメだ、目から火花が散って、上下も左右もわからない。耳を澄ませるが、砂嵐のような音しかしない。髪や衣服が強風に煽られ、目も開けられない。  もはや視覚も聴覚も頼れないが、判断の遅れが生死を分ける。一か八かで動くしかない。  慧は両腕を突っ張らせ、跳ね起きた────はずだった。 「うわっ!」  突っ張らせたはずの両腕が、いとも容易く地に埋もれる。次の瞬間にはもう、顔から地面に突っ伏していた。 「うぇ……っ」  口の中に入ったのは、細かくて砂のようなもの。それもフライパンで煎ったかのように熱い。  慌てて吐きだし、目を瞬いて顔を起こせば、視界を覆うのはサンドベージュ一色。  見渡すかぎりの、砂、砂、砂。砂の世界が広がっている。それも無限に。  無限……は、言いすぎか。強風で煽られる砂の向こうに、空らしき青が見える。言い改めるなら、砂漠と青空だ。……ということは、色の分かれ目は地平線だろうか。あと、やたら巨大な太陽も。  線路に落ちたのだから、砂浜や砂丘のド真ん中に俯せているわけがない。頭でも打って、もしや視力がイカレたか?  砂嵐が、やや収まった。この隙に逃げなければという焦りと、もうとっくに轢かれていてもおかしくない奇妙なタイムラグと、そもそも駅はどこへ行った? という疑問や不安が縦横無尽に交錯する。  せめてホームの場所だけでも……と懸命に両手を動かして周囲を探るが、コンクリートどころか、線路さえも発見できない。つかめるのは熱い砂だけ。  ふいにいま、人の声がした。駅員か、それともホームの乗客か?  だが頭痛と耳鳴りが酷くて、電車が近づく音すら聞き分けられない……と思ったら。 「グゥワアァー」  ────聞こえた。いきなり聴覚が戻った。  ひとつ、はっきりしたことがある。  特急かいじは、グゥワアァーとは鳴かない。 「……────か」  砂嵐もどきの耳鳴りが消えるのと入れ替わりに、音声が耳に届いた。 「立てるか?」  男性の声だ。太く、よく響く、力強い声。  その声を頼りに背後を振り仰ぎ、朧気なシルエットに目を凝らした刹那、心臓がヒュッと縮んだ。  ライオンの鬣が見えた気がしたから。  目を細めて確認すれば、なんのことはない。頭部を覆った布が風に靡いていたのだ。  太陽を背にした人物が近づいてきたかと思うと、慧の横に片膝をつき、優しい手つきで仰向けにしてくれた。彼が陰になり、頭部の布で砂埃と熱風を遮ってくれるおかげで、少し呼吸が楽になる。  ということは、助かったのか? 轢かれずに済んだのか?   撥ねる直前で特急かいじが停車したのだとすれば、運転士のファインプレーだ。だが、あの速度で入ってきた特急を、どうやって停めたのかは大きな謎。  背に腕を回され、上半身を抱き起こされて、慧は改めて彼を見た。  頭部を包む布で陰になっていても、彫りの深さがよくわかる。くっきりとした二重の瞳は、慧の視力がイカレていなければ、虹彩がエメラルドグリーンと金のグラデーション、瞳孔は黒という珍しさだ。眉もはっきりと濃く、美しく、日本らしからぬ高い鼻は、雄々しくて逞しい。 「邪鬼かと疑い、様子を窺っていたのだが、人間か」 「じゃ……き?」 「この灼熱の砂漠に於いて全身を黒で覆っているのは、闇の魔物の邪鬼だけだ」  話の内容が理解できない。線路に落ちたとき、頭を強打したのかもしれない。 「……パーカーは、グレー……、です」 「そうか。では、邪鬼ではないな」  深い声を発する豊かな唇が、ふっと笑った。優しい表情に鼓動が跳ねたが、愛想笑いを返す余裕はない。  それにしてもこの駅員、イケメンすぎる。おまけに日本人離れしすぎている……と思った自分を否定した。日本人離れどころか、そもそも彼は日本人じゃない。  彼が身につけているものにしても、駅員の制服ではない。これは……あれだ、中東の民族衣装だ。頭がフラフラしていても、それくらいわかる。なにせ、世界中の民族衣装を紹介するイラスト集の課題を、秋に提出したばかりだから。  彼の頭部を覆っているのは、金の布。この布の名称はクフィーヤ、もしくはシュマッグ。……大丈夫、ちゃんと見えるし覚えている。視覚も脳も異常なしだ。  シュマッグを押さえる太い黒紐はイガール。ロング丈の詰め襟のような服はトーブ。どれもサウジアラビアの民族衣装だ。  だが、サウジアラビアのトーブは白色が基本だと認識していた。もちろん多色の国もあるそうだが、漆黒のトーブの袖や襟に豪奢な金糸が織りこまれているパターンは初めて見た。それも……荻窪駅で。  視覚情報が増えるに従い、困ったことに不安も増す。本当にここは荻窪駅か? と。  不安が顔に表れていたらしい。「大丈夫か?」と、男性が心配顔を近づけてきた。正視に耐え難いイケメンの、息が触れるほどの急接近に目が泳ぐ。 「大丈夫ではなさそうだな」  なにも答えないうちに結論づけられ、でも当たっているから素直に頷いた。さっきから息をするたび熱風を吸いこみ、いまにも肺を火傷するのではないかという恐怖に晒されている。  怪我による発熱にしては妙な感じだ。そもそも風が、温風をとおり越して熱風というのがおかしい。地熱も異様に高すぎる。  そういう意味では、スヌードにフェイクレザーのジャケットという防寒対策万全の服装が大丈夫じゃありません、と説明すればよかったかもしれない。あと、体が重くて自力では起きあがれそうにない。  そういえば大量の画材道具を背負ったままだった……と思いだしたら、男性が慧の肩からデイパックを外してくれた。滝のように流れる汗にも気づいてくれたようで、スヌードとジャケットも脱がせてくれる気配りと甲斐甲斐しさには感動する。 「飲むがよい」  深い声で囁かれ、ワインボトルに似たガラスの瓶のコルク栓を抜き、そっと口元に差しだされた。  受け取ろうとして手を添えるが、指が震えて、うまく力が入らない。  すると彼が、そのボトルの水を口に含み、そして…………。  厚みのある豊かな唇を、慧の唇に密着させた。 「…………っ!」

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