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第7話
当直中の地域警察官の仮眠時間は大体四時間である。休日であったり、どれだけ疲れていても、その癖が抜けず、四時間ほどで一度目が覚めてしまうことがある。
悲しい性だ。そして例に漏れず、静も四時間ほどで目が覚めてしまった。
「……眩しい」
外は真っ暗で、静は手探りで自分のスマートフォンで見つけた。
暗闇で輝く画面には『20:13』という表示が出ている。
花村邸に着いたのが大体午後四時くらいで、眠りについたのが十分から十五分頃なので、ちょうど四時間ほどで目が覚めた。
部屋は程よく冷房が効いていた。冷房をつけて寝た記憶がなく、案内された時も冷房はついていなかった。
おそらく花村がもう一度やってきて、つけてくれたのだろう。
意識がはっきりしてくる。寝る直前まで考えていた花村に対する静の態度がだんだん蘇る。
「謝った方がいいのか……?」
花村は親切で、静の鞄を持とうとしてくれていた。それを疲れて、苛立っていた自分は手まで叩いて拒否をした。しかしよく考えれば、家に住まわせてもらったり、静が寝てしまった後に様子を見にきて、冷房をつけてくれたりした人に失礼な態度をとってしまったのではないだろうか。
足に何か当たり、足元を見る。
寝ている静が蹴り飛ばしたであろうタオルケットがわだかまっている。これも寝る前にはなかったものだ。
「ああ、くそ、腹減った……、居間ってどこだよ」
なんだかんだと文句を言いつつ、起き上がる。布団をたたみ、静は部屋を出た。
いい匂いを辿り、長い廊下を彷徨っていると、言われていた居間にたどり着いた。
他の部屋は全部畳で、襖なのに、そこだけ近代的な作りで、リビングといった風情だ。
「おはよう、静くん。よく眠れたかい? そこに座っていてくれ、温め直すから」
「……どうも」
空腹でぼうっとしていた静は、花村に促され、そのままダイニングテーブルの椅子に座った。
すぐ右にはキッチンがあり、エプロンをした花村が立っている。
さすがにスーツは着ていないが、白色のポロシャツに、紺のスラックスという貴族の普段着みたいな格好に思わずため息をついてしまう。
静の家着なんて、高校の頃のジャージとしわくちゃになったヨレヨレのTシャツだ。現に今もそんな格好をしていた。
「お腹が空いてるだろうと思ってね、カレーを作ったんだ。お口に合うと良いけれど……」
「……悪いですよ」
「いいんだ、僕の分のついでみたいなものだし。遠慮なく食べて欲しい」
ついで、というぐらいなので、花村は料理をよくするのかもしれない。顔よし、家柄よし、職業よし、性格は、静にとっては難ありだが、優しそうなので、まあ良い方だろう。それに自炊もできるなんて、隙のない人物だ。
「静くんは僕の命の恩人で、愛する人だからね。あんな危ないところに住んでいるなんて知った時には心配で、心配で、仕方なくて、すぐに本部に連絡したんだ。そしたら案の定、欠陥が見つかってね。でも良かったよ、今はここのどこの部屋でも空いているから好きに使って貰えばいい。大好きな君と一緒に住めるなんて、僕としては大歓迎だ」
食事を出しながら、花村は機嫌よくしゃべっている。
(お前が好きなのは、俺の顔だろうが……)
白い皿に盛り付けられたカレー、レタスとトマトのサラダがトレーに載せられて、出てきた。それらは静の前に置かれる。
どうぞ、と言い、花村は静の前に座った。そして、ティーカップで紅茶を啜っている。
もう言い返す気力もなかった。薄々感じていたが、やはり官舎について連絡したのはこの男だった。
(いらんことを言いやがって!)
内心で悪態をつくが、当直明けで寝ずに引越し作業をした身体は休息を欲している。四時間睡眠では到底回復できていない。
言い返す気力もなく、静は手を合わせ、いただきます、と言ってからスプーンを取った。
カレーをご飯と共にひとすくいし、口に入れる。
甘口だ。辛いものや刺激物が苦手な静には好きな味付けだ。美味しい。
そう思った次の瞬間、ゴリ、と何か硬いものに歯が当たった。
眉を寄せ、その硬いものを噛み砕く。味の具合からしてにんじんだろうか。食べられないほどではないが、明らかに生煮えだ。
なんとかそれを食べ終えた後、用意されたサラダを見てみた。
レタスとトマトのシンプルなものだが、形がバラバラだ。不恰好なトマトが多い。レタスも同様である。
思わず目の前で優雅に紅茶を嗜んでいる花村とトレーに載せられた食事とを見比べてしまった。
花村は未だ得意そうな表情をしている。
「……にんじん、生だけど」
「えぇ!」
静の言葉に花村は素っ頓狂な声を出した。
「そんな……、自分で味見した時にはそんなことなかったのに」
花村が口元を押さえ、ぶつぶつ何か言い始める。
その指先には絆創膏がいくつも巻かれているのに、静は気がついた。まだ血が滲んでいるものもある。
「指、怪我して……」
「いや、これはなんでもないんだ!」
そう言って花村は指先を背中に隠そうとした。しかし手首のあたりがテーブルのティーカップに当たる。
「わ! 熱っ!」
「おい、大丈夫かよ!」
派手な音を立てて、ティーカップが倒れる。まだ湯気の立っている中身がテーブルの上にぶちまけられ、花村の服にもかかった。
静は立ち上がり、テーブルの上の布巾を手に取って駆け寄る。
「ったく、何やってんだよ……、白なのに。染み付いてとれねえぞ。指の怪我も大丈夫か? 火傷してないか?」
「ああ、うん……怪我や火傷は大丈夫だよ」
ぽんぽんと上から濡れた布巾で叩くも、取れそうにない。しかも手触りからして、明らかにブランド物のポロシャツだ。
白だからシミが一際目立ってしまう。クリーニングで頼めば取れるかもしれないが、どうだろうか。
諦めきれず、しつこく布巾を叩きつける。乾いたものよりも、濡れている方がいいかもしれない、と思い、腰を上げる。
その時、花村のしょげ切っている姿が目に入ってきた。
肩を落とし、俯いている。先ほどまで得意げに微笑み、弧を描いていた唇は固く引き結ばれていた。
じっと見ていると、力なく微笑まれた。
「君と一緒にいられるということで、舞い上がっていたよ。料理なんかほとんどしたことないけれど、美味しい手料理を食べさせることができれば、以前の挽回にもなるんじゃないかって思ってた。けど浅はかだったな……、結局、君に迷惑をかけただけだった」
花村はポロシャツの裾を掴み、シミを目の前に広げる。
「すまない……」
怒られた子犬のような目で見てくる花村に対して、静はイラつきを覚えた。
そして案外、この王子様然とした御曹司が万能ではないことを今更ながら知る。
人間、誰しも不得意なことはある。
それが花村にとっては料理や家事であっただけだ。
立ち上がった拍子にシンクが見えた。焦げ付いた鍋やフライパンが水にさらされている。どれも花村が試行錯誤した後だろう。
花村は静を純粋に歓迎し、喜ばせようとしていただけなのだ。
その感情を無碍に扱えるほど、冷徹な心は持っていない。
(いきなり告白して、手にキスしてくる変態だけど、可愛いところもあるんだよなあ……)
「あーもう!」
静はがしがしと乱暴に頭をかく。そして花村の前に立った。
「わかったよ、休みの日は俺が料理してやる! 自炊してたからそれなりに料理はできるからな!」
「でも……」
「でももクソもない! 基本がなってないんだよ、できるようになりたければ、俺と一緒にキッチンに立て。教えてやるから」
「君は……僕のことを嫌わずにいてくれるのかい?」
花村のことは嫌いではない。気に食わなかっただけだ。
そこの誤解も解いておきたい。
「嫌いとかじゃあない。いきなり人前で手にキスされて、好きだなんて言われても混乱するだけだ。それに俺は一目惚れだって言われるのが大嫌いなんだ。そこは嫌いだ、覚えておいてくれ」
詳しい理由を言うつもりは今のところない。
「とにかく……この前はいくら混乱していたとは言え、いきなり殴りかかって悪かった。すまん。それに俺のために部屋を用意してくれたり、冷房をつけてくれたり、タオルケットをかけてくれたり、料理を振る舞ってくれたりしてくれたことには感謝する。ありがとう」
けじめとメリハリはきっちりつける。静は花村に頭を下げた。
「とんでもない。僕の方こそ、助けてもらった君に恥をかかせてすまなかった。それに今日は料理もうまくできなかったし、紅茶もこぼして君に拭いてもらってしまったし……本当にすまない!」
花村も慌てて立ち上がり、静に頭を下げる。
その花村の様子に静は好感を持った。だからと言って、花村の恋愛的な好意には応えられないが。
「いいよ、とりあえずカレーを温め直そう。横で見ててくれ」
「わかった、僕に色々教えてくれないか?」
互いに変な誤解は解けた気がした。花村ももうしょげかえってはいない。表情も明るい。
何だかその笑顔を見て嬉しくなり、静は心が温かくなった。
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