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【12】-1

 キスは好き? と清正が聞く。  朝、汀を起こす前のリビングで。  夕方、汀を先に洗面所に向かわせた後の玄関で。  少しかがむように顔を近付けて、清正がキスをする。  軽く触れるだけの時もあれば、口の中を舐められて膝が崩れそうになることもあった。  挨拶のように慣らされたキスのほかには、「明日から頑張ろう」が実行されることはなかった。以前よりも少しスキンシップが増えたくらいだ。  一月最後の夜、異動後の残業に備えて、清正は惣菜の作り置きを始めた。夕食後の片付けもついでにやると言うので、代わりに光が汀を風呂に入れた。 「汀、ちっちでたか」 「ひかゆちゃん、おじゅぼんが……」 「風呂入るんだから、ちゃんと穿かなくてもいいんだそ。どうせ脱ぐんだし」  切り損なって伸びてしまった髪を後ろで一つに括りながら、トイレに向かって声をかけた。  いつの間にか後ろに立った清正に捕まって、あらわになった首筋にキスを落とされた。  息が止まる。 「おまえ、白いよなぁ……。痕とか付けたら目立ちそう」 「あ、痕……?」 「見えるとこには付けないよ。ほかの男が欲情したらやばいし」  何を言ってるんだと胡乱な目で睨みながら、腕を解く。  光をくるりと回転させて向かい合うと、清正の指がおもむろに光のシャツのボタンを外し始めた。 「なんで、ボタン外すんだ」 「どうせ脱ぐんだからいいだろう」 「じ、自分でやる」  いいからやらせろと言う清正と謎の攻防を繰り広げていると、ずり落ちた半ズボンを押さえながら汀がリビングに戻ってきた。  「ひかゆちゃん、おじゅぼん」 「い、今行くっ」  小さな勇者に救出されて、無事に脱衣所に逃げこんだ。背中で清正が笑っていた。  翌日はいつものように三人で家を出た。  途中の駅名を一つ一つ小さな声で読み上げながら、A駅までの三十分を揺られてゆく。「平瀬」という名の駅で、汀が嬉しそうに「ひ」と口にして光を見上げた。 「おしょとに、どややきがあゆの」  よくわからないことを呟いて扉の外を指差す。窓から差し込む日に透けて、汀の茶色い髪がきらきら光っていた。  異動で再び帰りが遅くなる清正に代わって、二月からのお迎えは光が引き受ける。  汀を保育所に送り届けると、ずっと締め切ったままだった清正のマンションに寄って、空気を入れ替えた。    仕事や汀の保育所のこともあるから、すぐには決められないのだろうけれど、上沢に住むならここも解約するのだろうか。  あまりモノのない1LDK。  部屋の中をゆっくりと眺め、清正と汀の三年間をなんだかなつかしいもののように思う。    今よりもずっと小さかった汀が、棚の上のフォトフレームの中で幸せそうに笑っていた。    自分のマンションにも行って、ポストを開けて郵便物を一つ一つチェックする。  電気やガスの滞納を知らせる通知は来ていなかった。  よし、と拳を握ったが、よく考えたら前回の支払いから一ヶ月も経っていなかった。引き落とし日はまだ先である。  それでも清正に言われた通り、銀行口座の残高は確認している。仕事の依頼も元に戻ってきた。  全体的に大丈夫なはずだと一人で頷いて、再び部屋に鍵をかけた。 

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