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【18】-1

 どうやって運転してきたのかわからないまま、上沢の家に着いていた。  繰り返した日常ならば、身体は勝手に動いてくれるらしい。  汀を連れていつもの公園に行き、帰って食事をさせて、風呂に入れ、ベッドに運んで寝かせる。  それらの全部をいつも通りに、普通に済ませて……。  帰宅した清正に、昨日までと同じキスをされる。  その時になって、ようやく、汀から聞いたことは何かの間違いだったのかもしれないと考えた。  汀の言葉は不明瞭だった。別の言葉を光が勝手に勘違いして解釈しただけなのかもしれない。  自分に言い聞かせるようにそう考えて、ようやく息をすることができた。 「あさって、おふくろがこっちに来るってさ。俺がここに住むなら、自分の荷物を片付けるとか言ってた。三月になると引っ越し業者が込み合うから、今のうちに荷物を運ぶことにしたらしい」 「ホントに、戻ってこないんだ……」 「売るつもりでいたくらいだしな」 「そっか……」  平日のほうが割引が利くらしく、早々に日程を決めたようだと清正は言った。 「よほど嬉しかったんだな。すぐに片付けるから、今度の土日にでも俺と汀の荷物をこっちに運べとか言ってた」 「へえ……」  洗い髪をタオルで拭きながらソファに座り、清正が光を手招きした。隣に座ると、顔を覗き込んで「おまえ、今日なんか変だぞ」と軽く眉を寄せた。  光がトラブルに巻き込まれる度に、清正が見せる顔。  できないことだらけの光をそのまま許して、全部自分に頼ればいいと光を依存させてきた顔だ。 「何かあっただろ。ゆっくりでいいから言ってみな」 「……何もない」  清正が眉をひそめる。  何もないわけがないと言いたいのだ。  けれど、たとえ清正が相手でも、今の光の気持ちはうまく説明できない。  清正に関することで聞き違いをしたかもしれなくて、そのことにもやもやしているのだなどと、当の清正に、どうやって相談していいのかわからなかった。  汀の言葉をそのまま伝え、どうなのかと聞けばすぐに答えが出る。  よりを戻したのかと、清正に確かめてみればわかることだ。朱里とまた夫婦になるのかと、汀と三人で、この家に住むのかと、聞いてみれば済むことだ。  けれど、確かめて「そうだ」と答えられたら、光はどうなってしまうのだろう。  四年前、清正から唐突に届いた短いメッセージ。「入籍した」という事実をたんたんと伝えたそれを、光はどうやって受けとめたのだろう。  祝う言葉の一つでも送ったのだろうか。  どんなに考えても、何も覚えていなかった。  そのメッセージが届いてから、清正が朱里と別れたと聞くまでの約一年間の記憶が、光にはない。あんなに可愛くて大切な汀が生まれた日のことを、光は何も覚えていなかった。  胸の奥にあったものに名前を付けず、ないものを失うはずがないと信じていた時でさえ、清正が誰かのものになったと知って、心は息を止めたのだ。  ないはずのものに名前を付け、それが恋だと知り、口づけや肌の温かさや、どうにもならない熱を知ってしまった今、もう一度同じ言葉を聞いて、光は生きていられるだろうか。 「清正……」  清正の唇が欲しくて、視線を向ける。清正に触れたくて指を伸ばす。その伸ばしかけた指を、中途半端な位置で止めた。

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