86 / 119

【17】-4

 今朝、清正は一人で汀を送り届けた。  その時に保育所の職員と何か話しをしたのだろうか。  キラリと、記憶の底で何かが光った。  白く細い指にはめられた透明な石の輝き。  それから徐々に、いろいろなことが頭に浮かんできた。  朱里と汀の面会が増えたこと、迎えに行った時、清正と朱里がどこかの店に入って話をするようになったこと、清正が今の仕事に戻ったこと。  それから……。  上沢の家で暮らすと決めたこと。  それらのことが、汀の言葉と重なり合うようにして輪郭を結び始める。  よりを戻す……。  清正と、朱里が。  保育所での出来事をあれこれ話し続ける汀に、上の空で相槌を打ち、小さな身体を抱き上げてチャイルドシートに乗せた。  機械的にいつもの動作を続けながら、頭の中はフリーズしたまま同じ場所でぐるぐる回っていた。  よりを戻す、よりを戻す、よりを戻す……。  そんなはずはない。  光は自分に言い聞かせていた。  清正は光に「好きだ」と言った。毎日キスをして、抱きしめて、時々身体中に唇や指で触れる。  たった一度だけれど、抱き合ったまま一緒に熱いものを迸らせた。  吐き出した瞬間の、清正の顔を光は見たのだ。  目を閉じて、満ち足りた顔で小さく吐息を吐いていた。額に汗を浮かべて。あんな無防備で淫靡な顔を、清正は光に見せたのだ。  あの顔は光だけのものだ……。  必死でそんなことを考えていた光の背筋に、ふいに冷たいものがひやりと走り抜けた。 (違う……)  光だけではない。  あの淫らで美しい顔を見たのは、きっと、光一人ではないのだ。  何年も女性の影がなかったから忘れていたけれど、清正はかつて次々に付き合う相手を変えていた。  汀という子どもを残しているくらいだ。その付き合い方は、大人同士のものだったに違いない。  光の知らないところで、光の知らない誰かが、清正の無防備な顔を見ていたのだ。  ずっと、離れた場所から清正の彼女たちを見てきた。  清正に近付き、手に入れたと思ってはしゃぎ、やがてあっけなく忘れられるたくさんの女性たちを。  よく考えると清正はひどい男だ。  けれど、清正がひどい男であることに、光はずっと安心していた。清正が誰のものにもならないことに、安心していた。  けれど。  実際には清正を手に入れた人が、一人だけいた。  清正に望まれて妻になり、汀を生んで、やがて自分から清正の元を去った人が……。  朱里の穏やかな笑顔が瞼に浮かび、汀の服に縫い取られた拙い文字がそこに重なる。  その文字を見た日のことがよみがえり、その日と同じようにわけもなく泣きたい気分になった。  敵うわけがない。  清正はどんなつもりで光に触れたのだろう。好きだと言った言葉に、どんな意味があったのだろう。  頭も心も混乱し続けていた。  清正に近付いては離れていった人たちと、光はどこが違うのだろう。  朱里以外の人間は皆、同じなのかもしれない。光も、彼女たちも、変わらない存在なのだ。  みんな清正の前からいなくなった。  光もいつか、清正や汀の人生からいなくなる。  そう思うと、これから何をどうすればいいのか、全部が、何もわからなくなった。

ともだちにシェアしよう!