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倦怠期って 10

「未来のことなんて、俺にも星にも分かんねぇーよ。同棲してるからって、アイツが幸せとは限らねぇーし……弘樹、そこのボード見て来い」 泣きそうな弘樹が、潤んだ目元を俺に隠れて拭うのには丁度いい距離。俺が指差した方向、冷蔵庫の側にある黒板ボードに近づいた弘樹は、昨日の星が書いた俺への言葉を声に出して読み始める。 「雪夜さんへ……お仕事お疲れ様でした。雪夜さんが帰ってくるまで起きてるつもりでいるけど、もしも寝ちゃってたらごめんなさい……雪夜さん、大好きです」 弘樹の声で、俺の名を呼ばれるのは気色悪く感じて仕方がないのだが。そうも言っていられない俺は、自分の感情を誤魔化すために煙草に火を点けていく。 「……なんつーか、セイらしいッスね。このボードは幸せに溢れてる感じがしますけど、白石さんはそうとは思わないんですか?」 星の愛らしい字で書かれた文字を見つめ、問い掛けてきた弘樹にはボードが示す空白の時間までは分からなかったようで。俺は仕方なく、弘樹でも分かるように言葉を付け加えてやろうと思った。 「お互い仕事があって、職種も勤務時間も違う。実家にいれば感じなくて済む独りの寂しさを、アイツはこの部屋で毎日感じてる。それを思うとな、申し訳なくなんだよ」 星と2人で時間を共有できるほど、今の俺には余裕がないし暇もない。ひとつ屋根の下で暮らしているからといって、毎日が幸せに溢れているなんてことはないわけで。 「それでも、星は俺のために尽くしてくれる。そのボードは、アイツの苦労の証しだ。今の生活を保つために、先が見えない未来でも2人でいられるように……星は今でも、小さな幸せと大きな努力を積み重ねてる」 絶対的な保証なんてものは、何処にも存在しない。この幸せがいつまで続くのかも、俺たちには分からない。けれど、そんな不安があるからこそ、俺も星も今を大切にしたいと思うんだろうから。 「お前が言うように、未来に保証はねぇーよ。こうやってお前と話してる今だって、先を考えたら不安だらけだ。けどな、俺にはアイツを幸せにしてやる責任があんの」 弘樹が西野を選んでも、仮に誰かは分からぬ女を選んだとしても。 遅かれ早かれ、いつかは他人と生きてくことに向き合う時期がくる。その時、1人の人間を支えて支えられ、守り守られるだけの男になれるのかどうか。 それは弘樹自身の考え方次第で、大きく変わるのではないかと。俺だって、まだ模索中で手探りの状態なんだと……遠回しに伝えた俺は、ゆっくりと煙草の煙りを吐き出して。 「まぁ、俺がお前の歳の頃は俺にも覚悟なんてもんなかったけど。アイツの存在がいつの間にか俺を変えて、今ではかけがえのない人になってんだよ」 最初は、俺にも分からなかったこと。 人に興味がなかった俺に、誰かを愛する気持ちを教えてくれたのは星だから。 男だからとか、女だからとか。 そういった概念さえ覆して、俺の隣で笑ってくれる星を大切にしたい。 弘樹が誰かに対してそう思えるようになる日がきても、不安も悩みも消えることはないのだと。そう弘樹に告げた俺からは、小さな溜め息が洩れていた。

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