17 / 17
16
「――くそっ」
俺は自分のデスクに書類を叩きつけて舌打ちを繰り返した。
会社に復帰した二日後、地方企業の視察という名目で長期出張を言い渡された。やっと帰ってきたと思ったら、苦労の末やっと契約までこぎつけた大手企業が銀行から融資をストップされた。業績悪化を公表することなく無理やり繰り返していた自転車操業が限界を迎えた結果だった。そうなると破産するのは時間の問題だ。
幸い契約金の授受は成されておらず金銭的な問題は回避されたが、営業部としての実績にはもちろんカウントされない。
Sシステム並みにかなりの時間と労力を使った俺の努力が水の泡と消えた。
「――小原さん、出張から帰ってきてツイてないわね」
「Sシステムの事もあったし、心労半端ないじゃないか?」
「でも……あの人の心が折れるところ、見てみたい気もする」
「あ、見たい!」
「ため息つきながら落ち込んでるところ……。あ、この前ちょっとそういう雰囲気あったよな?」
「あった、あった!」
コピー機の前でケラケラと愉快に笑いながら、あからさまに俺の噂話をしている田口、小林、今井の三人は相変わらずだ。
彼らは俺を弄り倒すことを娯楽としているとしか思えない。
デスクに散らかったコピー用紙の一枚をグシャリと丸め、俺は大きく息を吸い込んだ。
「お前らなぁ……!いい加減にしろよ」
静かにではあるが自分なりに迫力のある声が出たと思う。
真新しいブランド物のスーツに、高級腕時計。ヘアセットも完璧だ。
「このオレ様の心が折れるだと?はっ、笑わせるんじゃねぇ……。倒産するようなつまんねぇ企業にいつまでも執着してる暇はないんだよっ!おい、田口!さっさと外回り行ってこい!」
「え?俺っすか?なぜ?」
「お前が一番暇そうなんだよっ。俺が帰る前にピックアップ企業のリスト寄こせ!」
「えぇ!小原さん、今日は何時帰宅ですか?」
「定時だよ!定時っ。こういう時はパ~ッと女でもひっかけて遊ぶに限る!」
長い睫毛をぱちぱちと揺らして小林が何度も瞬きを繰り返す。その隣に立つ今井もまた、自分には関係ないという顔で眼鏡のブリッジを押し上げた。
田口が逃げ出そうとする二人の腕を掴んで声を荒らげる。
「――おい、誰だよ!小原さんに恋人が出来たって言ったヤツ!更生したんじゃないのかよっ」
「さぁ……。噂だもん。ねぇ、今井くん?」
「あの人がそうそう更生するわけないだろ?常識的に分かるだろ、田口……」
「今井、お前って奴はぁ~っ」
一人、俺の八つ当たりの標的にされた田口を見捨てる同僚二人……。
こんなことで彼らの関係が気まずくなることはないだろう。
「俺、煙草吸ってくる……。田口、よろしくなっ」
「え!ちょっと待ってくださいよ、小原さん!」
「お前なんか待たねぇよ!さっさと行け!」
泣きそうな顔で脱力する田口を置き去り、俺は喫煙ルームへと向かった。
廊下に面して設置されたガラス張りの部屋に入ると、上着のポケットから煙草を取り出して唇に挟んだ。
火をつけながらガラス越しに見える廊下をぼんやりと見つめるが、期待している人物は現れる気配はない。
「はぁ……。ツラい」
ボソリと呟いて、今朝の事を思い出す。
自宅マンションでスーツに着替えながらなにげに目にした星占い。
海斗に出会った時と同じランキングは最下位だった。
ワイシャツの袖のボタンを留めながら「誰が信じるかっ」と吐き捨てた。
しかし、この占いが意外にも当たるという裏付けを身を以って経験していることから、一概に無下には出来ない。
出張から戻ってきた昨日、海斗に会うことは叶わなかった。
帰宅が深夜だったということもあるが、彼は部署の懇親会で飲みに出かけていたからだ。
出張中も、毎日SNSや電話でのやり取りは欠かさなかった。
海斗の事を思い浮かべては一人、ホテルの部屋で自慰を繰り返した。
それでも心も体も満たされることはなかった。
彼の体温を感じて、あの声を聞いて、舌を絡ませて繋がりたい。
だんだんと膨らんでいく欲望、満たされない欲求、会えない不安にイラつきは募っていった。そんな時にあの星占いを見て、会社に出社したらこの有り様だ。
(やっぱり海斗は……悪魔なのか?)
天使と悪魔、両方の顔をもつ恋人。
――会いたい。
煙草の煙を肺いっぱいに満たして吐き出した時、廊下を歩く靴音と共に女子社員の明るい声が響いた。
「――守屋君、昨日家の近くまで送ってくれたんだよね」
「マジ?すごく雰囲気いいよね、彼……。年下だけど頑張ってみようかな」
「え~、競争率高そう!他の部署の子も狙ってるって話だよ?無理、無理…っ」
「付き合ってる人いるって聞いたけど?」
「それはショックだな。でも……奪っちゃうってのは、どう?」
「うわ~っ!それ最低っ」
キャッキャと盛り上がりながら去っていく彼女たちの会話を聞くともなく聞いていた俺。
いや――ガッツリ聞いていた。
(海斗があのブス共に狙われている……だと?)
確かに愛らしい顔に爽やかな雰囲気、人当たりも良く仕事もそつなくこなす総務部の新人。
そんな彼を放っておくはずがない。
たとえ海斗が女性に興味がないと言っても、切羽詰まった彼女たちならば強引に押し倒して逆レイプに及ぶ可能性は大いにある。
「チッ……」
大きく舌打ちをして、またまた増えた苛立ちに煙草を灰皿に押し付けた。
海斗は俺の恋人だ。絶対に誰にも渡さない……。
契約の事といい、海斗の事といい、今朝の星占いは見事に的を得ていた。
ツイてない時は何をやっても無駄だ。そう――いつかの俺のように大切な処女 を失う事にもなりうる。
(落ちつけ……)
これ以上被害を被らないためにも、なるべく会社から出ることは避け、ゆったりとこの一日をクリアしていくしかない。
二十八歳にもなってテレビの星占いに翻弄されるなんて。しかもこの俺が……。
バカバカしいと思っていた数ヶ月前を思い出して、小さく吐息する。
あの日もロクな事がなかった。怒りに任せて酒を飲んで――そして出会った。
だけど――。
完全無欠のオレ様が仕事を失敗したのも、出会った海斗が天使に見えたのも、そしてバリタチの俺が処女を奪われたのも、全部、全部……災い転じて福となってる。
これこそがまさしく“逆転の発想”。
悪いことだ、不幸だと思うから被害妄想がより大きくなる。それならばいっそ、これが幸福の扉を開ける試練だと思えば少しは気が楽なる。
今日だって、きっと良いことがある!そう、あの夜のように……。
同僚に気付かれないように重苦しいプライドという鎧を脱ぎ捨てる。
煙草の煙を纏いながら喫煙ルームを出ると、俺は天井に両手を突き上げるようにして大きく伸びをした。
田口に宣言した通り、俺は業務終了のチャイムと同時に「おつかれ~」と営業フロアを出た。
スマートフォンを片手にエレベーターに乗り込み、海斗へ短いメッセージを送る。
“会いたい”
カッコつける必要はない。ただ自分の思いのままに打ち込んだ。
一階に到着するとポンッというチャイムと共に扉が開く。
定時退社する社員は決して少なくない。次々にロビーに下りてくる社員を横目に社員認証機を通り過ぎ、いつものように警備員に「お疲れ様っす」と短い挨拶を交わす。
通勤バッグを肩にかけ、エントランスを抜けると夜の訪れを告げる冷たい風に迎えられる。
硬い靴音に押されるようにロータリーを歩道に沿って歩き、メイン道路へと足を向ける。
手にしたスマートフォンには海斗からの反応はない。
(焦るな、焦るな……)
ふぅっと息を吸い込んだ時、鼻腔をくすぐる爽やかな香水の香りに足を止めた。
歩道と車道を隔てるガードパイプに腰掛けていたのはダークブラウンの柔らかな髪を風に揺らして微笑んでいる青年。
そのふわりとした笑顔に目を奪われる。
「――そこのイケメンのお兄さん!」
聞き覚えのあるフレーズに思わず笑みが浮かぶ。
明るいグレーのスーツに青色ベースのチェック柄のネクタイ――実に洗練されたコーディネートだ。
足を組んだ姿も、わずかに小首を傾げる愛らしさも、すべてが輝いていた。
「――海斗」
「おかえり……」
さらりと口にした一言だが、スマートフォンが表示する無機質な文字の羅列よりも何倍――いや何百倍も嬉しい。
ゆっくりと立ち上って俺に近づくと、無邪気な笑顔でわずかに踵をあげる。
「キス……して」
何の前触れもなくそう言う彼に、俺は面食らったまま動きを止めた。
帰宅時間帯ともあり、歩道を歩く人の流れは途切れることはない。
こんな場所でキスを強請るなんて海斗らしくない。
「――お前、何か企んでるだろ?」
「別にぃ~」
「いきなりこんな場所でキスとか……あり得ない」
海斗はムッと唇を尖らせて目を細めた。
「――するの?しないの?どっちっ」
柔らかな天使の顔が、俺を誘う小悪魔に変わる。
俺は周囲を見回して、完全に人通りが途切れたことを確認すると一瞬だけ唇を重ねた。
「もっと!」
「バカッ。ムリだよ……」
「ムリじゃないっ!ムリって思うことが無理っ」
「なんだよ、それ……」
困惑し、落ち着きなく目を泳がせていると、いきなり海斗が俺の首に両腕を絡めて抱きついてきた。
よろめく体を何とか立て直し、すぐ近くにある綺麗な顔をまじまじと見つめた。
「な、何だよ……っうく!」
開きかけた俺の口を塞いだのは紛れもなく海斗の柔らかな唇だった。長く厚い舌が容赦なく滑り込み、口内を蹂躙する。
「んふっ……ぅう……」
(気持ちいい……)
どれだけこのキスを待っていた事か。
一瞬の躊躇い、そのあとで俺は彼の背中に手を回して強く抱きしめた。
キスがより深く、甘いものへと変わる。
俺たちの唇が離れるまで、何人ものサラリーマンが追い越していった。
皆、見て見ぬフリを決め込み、関わりたくないと言いたげに冷たい視線を投げかける。
男同士でキスして何が悪い?
俺たちは互いに愛し合い、結婚を約束した恋人だぞ?
長いキスに終止符を打ったのは海斗の方だった。
「――ごめん。恥ずかしかった?」
少し息を乱しながらそう呟いた彼に、俺は素直に首を振った。
「恋人同士、キスして何が悪い?」
「――だよね?うん……これで恭輔の今日の運勢は逆転する!」
「は?」
「今朝の星占い……。ラッキーパーソンは――恋人」
最下位だと分かった瞬間、テレビを消した俺……。そこまで見ていなかった。
「恥ずかしくても絶対幸せになる!ってか、俺がするからっ」
海斗の言葉に思わず笑みが零れる。
六つも年下の男に勇気づけられるなんて……俺もそろそろヤキが回ったか。
でも、彼の言葉は俺にとって絶対で、間違っていないことを証明してくれる。
「――また、お前にひっくり返された」
「え?何のこと?」
「リアル逆転の発想……」
俺を見上げたままポカンとする海斗の唇に触れるだけのキスをして、思い切り抱きしめる。
「指輪――買いに行こうか」
「ホント?それって……っ」
「社長がなんと言おうと俺はお前と結婚する。後継者云々っていう面倒な事抜きにして……お前と片時も離れることなく繋がっていたい」
「恭輔……」
「泣くなよ!ショップ店員に怪しまれるからなっ」
「う…うぅ、泣かない!泣かないよぉ~!でも――涙出てきちゃった」
「ったく、しょうがない奴だな……」
海斗の涙を舌先で掬って、そのまま耳朶を甘噛みする。
「んっ」と小さく息を詰めた彼がいつになく可愛くて、ついついエスカレートしてしまう。
ワイシャツの襟の隙間から舌を差し込んで唇を押し当てていると、海斗が潤んだ目で俺を睨んだ。
「恭輔の意地悪……」
「それって逆だろ?」
「災い転じて“欲”と成す……」
俺はニヤッと口角をあげて笑うと、海斗の誘うような唇に噛みついた。
何かを言いかけて止めた海斗に変わってそっと囁く。
「俺は“愛”の方かな……」
互いに額を押し付けて思い切り笑った。
夕日が傾き、二人の影が歩道に長く伸びていく。
これから向かう行き先への道しるべ……。
俺は海斗を愛し、そして愛される。
バリタチだってネコになる。天使のような悪魔が紡ぐ言葉は底なしに甘い愛の囁き。
蕩けてしまいそうな快楽と、チョコレートより甘い愛情で今夜もまた獣のように抱き合おう。
俺の人生を逆転してくれた最高の男と共に……。
ともだちにシェアしよう!