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第10話

「いいこと、そっとお茶をお出ししたら、引っ掛からないですぐに逃げて来るのよ」 お夏に言い含められて頷き、白帆(しらほ)は盆を持って客間へ行く。  舟而(しゅうじ)の傍らで茶托に茶碗を載せている間も、ひりつくような空気は続いていて、日比が悪びれもせずに言葉を返していた。 「私のほうが日本文学においては専門です。師範学校出の英語教員だった先生などより、文学の機微については詳しい。先生を“渡辺舟而先生”にして差し上げているのは、私なんですよ」 不遜な物言いをして嗤い、片手で茶碗を持ち上げて歪んだ唇にあてた。舟而も日比から目をそらさないまま、ゆっくりと煎茶を飲み、口を湿してから口を開いた。 「僕の作文を活字にして日日新報に載せるよう、社内で指示しているのは君かも知れないが、ほかの出版社や戯曲の仕事まで君が手を回して、僕の文章を手直しし、売ってくれている訳ではあるまい。どれだけ君が日本文学に詳しくても、渡辺舟而の名前で世間に売れる小説や戯曲を書いているのは僕なんだ」 日比は押し黙った。さらに舟而は畳み掛ける。 「そんなに自分の作文に自信があるなら、僕の名前や文章などを下敷きに使わず、自分の名前で一から作文をして、日日新報の文化欄に連載すればいいじゃないか。違うかい?」 舟而は険しい表情で、座卓の上に茶封筒を置いた。 「ここに明日から三日分の原稿がある。どうするかは君次第だ。 日本文学に詳しくない、師範学校出の英語教員だった僕の作文なんか使いたくないと言うなら、置いて今すぐ帰りなさい。 そこの電話所から僕も君の上司に連絡をして事情を説明し、連載は即刻止めさせてもらう。 空いた欄は明日から日比君が書けばいいと、そう口添えもしてやるよ。チャンスだろう?」 「それは」 「僕だって、僕なりに身を削り、心を削って書いているんだ。 原稿用紙の一マス一マスを、登場人物たちの心情に添って、彼らが生きる世界の情景を描いて、人生の転換期を迎える人間の有り様を少しでも写し取ろうと努力しているんだ。 簡単に書き換えられたり、踏みにじられたりはしたくないんだよ!」 舟而が座卓を手のひらで叩き、茶碗が跳ねたので、白帆は原稿を守るために慌てて茶碗を押さえた。 「戯曲だってそうだ。 演出の都合、舞台装置の都合、役者の台詞回しの都合、小説と違って多くの人の多くの事情が絡むから、必要に応じて書き直すことはあるけれど、それだって僕に無断でやるなんてことはない。 舞台の上で台詞が飛んだり、出とちりしたり、装置が動かなかったり、何か予期しない出来事があって役者が必死に場をつなぐときくらいなものだ。 自己満足のためだけに改変する浅慮な男に、本当の文学を模索し苦しむ僕らの姿を理解しない男に、僕の原稿は渡せない!」 再び舟而は座卓を手のひらで強く叩き、白帆はもう茶碗を押さえ続けることにした。 「毎回、毎回、三日分や一週間分も書き溜めて締切の何日も前に原稿を渡す理由が、先手を打って話を書いて渡しておかなければ改変されるからだなんて、本当に馬鹿らしい。 それでも校正の範疇を超えた改変が散見される。 再三、やめて欲しいと申し入れて来たけれど、今日の朝刊で僕は堪忍袋の緒が切れたよ」 舟而は白帆が押さえたままだった手をそっと払って、茶碗を持ち上げ、ゆっくりと飲んだ。 「とにかく僕の言いたいことは言わせてもらった。 提示する案は三つ。一つ目は連載中止、二つ目は改変しないと念書を入れて連載を継続、三つ目は担当者を交替しての連載継続。 どれか一つを選んで頂こう」 廊下の振り子時計が一つ鳴った。三十分が経過して、原稿を新聞社に持ち帰らねばならない時間は過ぎている。  日比の奥歯がギリッと鳴った。 「念書を、書かせていただきます」 正座した膝の上で握った拳が白っぽくなっていた。  舟而に言いつけられて、白帆は書斎の机の引き出しから、用箋と朱肉を運んだ。  白帆は、日比が念書を書く姿は見ないように退出し、代わりに手拭いを濡らして持って行った。  拇印を押した手に黙って差し出し、朱肉が拭われた面が目に触れないよう内側に折りたたんで退散した。 「お疲れ様でございました。今日は先生も早朝から机に向かって原稿を書き通しで、神経が冴えすぎていらっしゃったんだと思います」 玄関で靴を履く日比に帽子を差し出し、白帆は丁寧に三つ指をついた。 「日が暮れて参りましたので、どうぞお気をつけて」 日比は一言も口をきかなかったが、白帆はさらに下駄を履いて門の外まで見送って、見えなくなるまで頭を下げた。

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