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第9話

 舟而は、まだ隣の布団で静かに寝ている白帆を起こさないようにそっと布団を出て、夜気で冷え切っている紺絣と小倉袴に着替え、紺足袋に下駄を履いて門の前に立った。  配達夫から待ちわびた朝刊を直接受け取ると、その場で文化欄に目を走らせた。 「やっぱり、やりやがった!」 下駄を脱ぎ捨てて玄関へ駆け上がり、廊下を踏み鳴らして書斎へ駆け込む。 「人が書いたものを、しかも結末を変えるっていうのはどういう了見だ! 僕がこれを読む前に続きを書いていたら、どうするつもりなんだ!」  まだ明けきらぬ北の空は紺色が残り、名残の星が光る。  静かな家の中で、掲載された『芍薬幻談』を三遍読み返し、鉛筆を握って、苛々と原稿用紙に向かった。 「失礼致します」 寝間着姿のまま、白帆が駆けつけてきた。 「すぐにお茶をお持ちします」 言いながら、自分が羽織っていた綿入れをそっと舟而の肩にかけ、台所へとって返す。  一連の流れが全く舟而の集中力を途切れさせず、空気を乱さず、気配を消して立ち回るのも、舞台の上で鍛えられた役者の身のこなしと思われる。 「ありがとう」 目が覚める濃く淹れた煎茶を一杯、机の奥に置く手に声を掛けた。 「頑張ってください」 頬にそっと白帆の唇が触れた。気づいて顔を上げたときには書斎には舟而しかいなかった。 「春風のような奴だな」 舟而は力んでいた肩を緩め、綿入れに移された白帆の体温を感じながら、飲み頃の煎茶に口をつけた。  窓の外はようやく明るみ、身体も温まって、怒りも和らいできた。 「新聞に載ってしまったものは仕方がない。新しい展開を書こう。主人公と共に先の見えない道を往くのもいいじゃないか」 百花園での謎めいた逢瀬は、書き手の舟而にとっても謎のまま、池のほとりに突然水仙の花がすっくと咲いた。 「ナルキッソスか。何が起こる?」 主人公と同じ気持ちで池の中をのぞき込んだ。 「白帆。昨日の焼きおにぎりが美味かった。作ってくれ」  朝食も、昼食も、白帆特製の焼きおにぎりを頬張りながら、舟而はひたすら原稿用紙に向かい続けた。  舟而は原稿用紙の裏に鉛筆で、左から右へ下書きし、裏返して表面に下書きを透かすようにしながら万年筆で右から左へ清書していく。  時には話の順序を入れ替えるために鋏で切り分けて並べ替え、原稿用紙を糊で貼り合わせたりもする。  書いたり消したり、切ったり貼ったりを繰り返し、自分の意思とは異なった結末から新しい展開へ広がってきて、軌道に乗せるまであと少しだ。  書斎を出た舟而はすとんと土間に下りて、コップに汲んだ水を口の端から零れるのも構わず一息に飲み干すと、手の甲でぐいっと口元を拭った。 「あと一時間! 日比の野郎め」 柱に掛かる振り子時計を睨みつけると、土間から廊下へひらりと飛び上がり、書斎へ向かって肩をいからせて歩いて行く。 「またやられたのお?」 お夏がその背中へのんびりした声を掛けるのに、舟而は振り向かず声を張った。 「畜生、大学出を鼻に掛けやがって!」 書斎の襖をぴしゃりと閉める。 「一時間後には大嵐よ。今のうちに甘い物を食べて、備えておきましょ」 お夏は三日月形に目を細め、白帆も促されて、金平糖を口の中で転がしながら、焙じ茶を飲んでいたら、五〇分も早く新聞社の日比が来た。 「ごめんください。日日新報の日比です」  お夏と白帆は顔を見合わせ、無理矢理に金平糖を噛み砕いて焙じ茶で流し込み、襷を外し、前掛けを落として玄関へ出る。  お夏に倣って、白帆も斜め後ろに控えて同じように膝をつき、三つ指をついて出迎えた。 「ごきげんよろしゅうございます。先生はまだ原稿用紙に向かっていらっしゃいます。午後四時までお待ちいただきたいとのことですが、よろしいでしょうか」 「構いません。もとよりそのつもりです。近くで別の用事がありまして、それが早く終わったものですから、早過ぎると思いながら伺ってしまいました。待たせていただいてよろしいですか」 「もちろんでございます。どうぞお上がりくださいまし」 帽子を預かって、日比を客間へ案内する。  上座はあくまでも舟而先生の席、日比は下座の座布団へ案内し、煎茶と煙草盆を差し出した。 「これ、舟屋の芋ようかんです。甘い物がお好きだと伺ったので、どうぞ」 「ありがとうございます。お夏さん、日比さんから頂戴しました」 「まあまあ、書生にまでお気遣いくださるなんて、なんて気の利く方でいらっしゃるんでしょう。先生にお気遣い頂いたことを申し上げてから、あとで有難く頂戴しますね」  べたつかない挨拶の仕方をして、目を三日月形に細める。粋なのに上品さが失われていない、白帆がもっとも憧れる姿だった。  振り子時計が四時を打った。  同時に書斎の襖が開いて、大きな足音を立てながら、原稿用紙の束と今日の朝刊を持った舟而が客間へ入って来た。 「やってくれたね」 舟而は剣呑な声を出し、立ったまま日比を見下ろす。 「先生のお名前を守るためです」 日比は目を伏せたまま、背筋が冷たくなるような声で静かに答えた。  お夏の目配せで、白帆はお夏と共に一礼して客間を出た。

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