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第19話

「お見苦しいところをお見せしました」  稽古場を出た白帆(しらほ)は深いため息をついた。 「わたくしには、何がよくなかったのかわかりませんでした。女の子たちも『きれいね』、『すてきよね』と言っていましたよ」  白帆ははにかんで笑ったが、おかっぱの頭を左右に振った。 「全然ダメです。私だけの感じ方らしいですが、頭から白蜜が垂れるよに踊れないと」 「白蜜ですか」 「『甘い物好き、ここに極まれり』と先生には笑われました」  白帆は肩を竦めて笑う。 「ええ、何と申しますか……、ご立派です」 日比は小さく(こうべ)を垂れた。 「でも、今はそれができなくって。声もダメで、女踊りもダメで、八方塞がりです」 白帆は肩を落として、うなだれた。  伝法院(でんぽういん)の庭で、傾斜のなだらかな滝を見た。  稽古場で女の子が言っていた通り、滝の水は右に左に折れて流れ、腰を落として舞う白帆の姿に似ていた。 「白帆さんの舞姿は、あの滝のようだと女の子は言っていました」 「水のように自由に舞うことができたら、どんなにかいいでしょうね」  白帆は胸に詰めていた空気をほうっと吐き出した。 「白帆さんならできますよ。とても美しかったですよ」  白帆は木漏れ日を映して光る滝を見ながら、再び小さく首を左右に振って、おかっぱ頭の黒髪を揺らした。 「心も身体も硬くてダメです。……私、女になりたいんですけど。先生の頭の隅に置かれっぱなし、そのまま忘れられちまったみたいです」 「女になりたいって、どういうことですか?」 日比は白帆の背に手を当てながら、ぽつぽつと紡がれる白帆の話に丁寧に耳を傾けた。 「なるほど、そういうことだったんですね。お話しくださってありがとうございます」 銀縁眼鏡の目を細めて白帆の髪を撫で、それから思案顔になって言葉を続けた。 「白帆さんには酷かも知れませんが、先生が白帆さんを女にするのは無理だとわたくしは思います。……だって、先生にはお夏さんという方がいらっしゃいますから」  白帆は目を丸くしてから笑った。 「日比さん、それは違いますよ。先生とお夏さんは同郷で、姉弟(きょうだい)みたよなものなのですって」  今度は日比が銀縁眼鏡の奥の目を丸くして、明るく話す白帆の顔を見た。 「白帆さん、そんな説明を信じていらっしゃるんですか?」 「え、違うんですか」  白帆の瞳が小さく震えた。 「どう見たって、あの二人は夫婦じゃないですか」 日比はきっぱりと言い切った。 「ふっ、夫婦……」 白帆は自分の心に急に塩を振りかけられたように(しお)れていくのを感じた。  日比は白帆の肩を抱き、自分の身体へ寄りかからせた。 「先生は『結婚するつもりはなくて、特定の相手を定めるつもりもない』と、そうおっしゃっているんでしょう。それはお夏さんがいるからじゃないですか」 「あ……」 「お二人がどういう理由で入籍されないのかは、わたくしにはわかりませんけれど、わたくしが原稿を取りに伺うときに垣間見るだけでも、お二人は心まで寄り添っていて、主人と女中などという隔たりのある関係じゃないことは、一目でわかりますよ」  お夏の両親がよくない店のたたみ方をして、舟而(しゅうじ)とお夏の故郷では今でも名前を聞くと嫌がる人がいる、だから盆暮れも村へは帰らない。  舟而から聞いた話を白帆は思い出した。 「先生は、結婚できないんだ……。お夏さんとの結婚は故郷の人に反対されるから」  白帆の呆然とした呟きを、日比は拾い上げた。 「あのお二人は結婚しようとしたら反対に遭うんですか? なるほど、だから祝言を挙げないで、奥さんのことを女中なんて肩書きになさるんですね」 「そっか、そういうこと……」 白帆は風呂敷包みをぎゅうっと抱き、日比は白帆のその指が白っぽくなるのを目の端に捉えた。 「もしご夫婦の間にいて息が詰まるようでしたら、わたくしがいつでも連れ出して差し上げます」 日比は銀縁眼鏡の奥の目を細めた。 「ありがとうございます」 「またすぐお迎えに上がります。今度は何を観に行きたいか、考えておいてください」  白帆が見送った雷門の電停で、日比は白帆の二の腕を掴んで引き寄せると耳打ちした。 「好きです。わたくしが愛するから、泣かないでください」 白帆は黙って頷いた。

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