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第20話

 白帆(しらほ)が日比と別れて吾妻橋を渡っていると、荷運びの車にどやされた。 「ぼーっとしてんじゃねえよっ! どいた、どいた!」 慌ててよけて、地面に手と膝をつき、通りすがった人に助けられて、俯いたまま両手をたたき、膝を払った。 「あんた、だいじょぶかい? 気を付けて歩くんだよ」 「はい、ありがとうございます……」  帰宅しても気づくと時間が経っていて、お夏の高い声が土間に響く。 「白帆ちゃん、お鍋っ! 焦げ臭いわよ!」 そら豆のさや剥きをしていたお夏が駆け寄って来たときには、煮ていたごぼうは山火事に遭った丸太ン棒のようになって、鍋の底に焦げ付いていた。 「えっ、あっ、わっ! あっつっ!」 鍋の取っ手に直接触れてしまい、慌てて手を離し、触れられて均衡を失った鍋は白帆めがけてひっくり返ってきて、間一髪で飛びのいたものの、焦げたごぼうとひっくり返った鍋が土間に飛び散った。 「ごめんなさい……。ダメにしちゃった」 「ごぼうはいいけど、白帆ちゃんは大丈夫? 火傷したりしなかった?」  女性らしい柔らかな手で白帆の細い両手を包み込み、目を三日月形に細めて白帆の顔を覗き込んでくれる。 「お夏さん、優しい」 「まぁまぁ、どうしちゃったの、この子ったら」  白帆は気持ちのままに素直に泣いて、お夏に抱き締められた。白帆にはない柔らかな身体だった。 「私も、お夏さんみたよな人になりたい……。なりたい……」 「何言ってんの。あたしなんかより、もっといい人に憧れなさいよぉ」 言いつつ、お夏は白帆を抱き締めたまま、優しく優しく頭を撫で、背中をさすってくれた。 「私、どうしたらいいんだろ……。自分がどうしたいのかも、わかんなくなっちまいそうで」  お夏は土間と廊下の段差に白帆を座らせ、自分もその隣に座って、白帆の肩を抱きながら話した。 「白帆ちゃん、苦しいのね。……あんたは健気で、一生懸命で、あたしのほうが泣けてきちまうわ」 お夏は袖口で左右の目尻を拭う。その目尻にはまつ毛が影を差し、温もりのある色気が宿る。  小さく首を傾げる、視線を落とす、瞬きをする、白帆を見て眉間にしわを寄せて眉尻を下げる、すべてが女の仕草だった。 「あたしは舟ちゃんみたいに難しいことはしてあげられないけど。でも、そういうときもあるっていうのはわかるつもりよ。あたしも渦に巻かれたよな感じがしたこと、あるわ」 子守唄を歌うような優しい口調でお夏は言った。 「でもね、白帆ちゃん。お願いだから、捨て鉢にだけはならないでね、捨て鉢にならなけりゃ大丈夫よ」 「捨て鉢?」 お夏の腕の中で顔を上げると、お夏は白帆の顔を見下ろして頷いた。 「そ。胸の中がぐしゃぐしゃして、全部を投げ出しちまいたいよな心持ちになることもあると思うの。 でも、そういうときにどうなったっていいって、捨て鉢になってはダメ。 歩きにくい疲れる道を歩いてるときほど、足元には気を付けなけりゃいけないのと一緒よ。 捨て鉢になって上手くいく話なんて一つもないの。 その瞬間は楽になれても、その先がずっと辛くなっちまうからね。 いつまでも、いつまでも、捨て鉢になったときの自分を責めて、悔いて、生きて行かなけりゃならなくなるからね」 お夏は厳しい表情で、一つ一つの言葉を白帆の胸におっつけるように話した。 「……うん」  お夏はすぐ目を三日月形に細めて、背中を撫でてくれた。 「でも、白帆ちゃんは大丈夫。怖がることなんてないわ。こんなにいい子なんだもの、お天道様がちゃあんと見ててくれてる。今は苦しくても帳尻が合うときが来るから、だからどうか捨て鉢にならないでね。約束して頂戴」  小指を立てて差し出され、白帆は細い小指を絡めて頷いた。 「さ、お菜を作っちゃいましょ。白帆ちゃんはお顔を洗ってらっしゃい。ごぼうはもう一本あるから、早く火が通るように、ささがし(笹掻き)にしてきんぴらにしちゃいましょ」 「はい」 「白帆ちゃんは本当にいい子ね。大好きよ」  両手で頬を挟まれ、揉まれて、白帆は照れ笑いをした。 「ふふふ。お夏さんには敵わないです」  白帆は切れ長な目尻に一粒涙を浮かべながら微笑んだ。

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