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第21話

 白帆(しらほ)舟而(しゅうじ)の元へ来て丸三か月が経つ。  今朝の舟而は蝉時雨で目が覚めて、汗ばんだ頬に黒髪を貼りつけて眠る白帆の寝顔を見つめて過ごした。 目覚ましが鳴って白帆が起きるときには布団をかぶってやり過ごし、 白帆のあとに起きたふりをして身支度をし、 白帆が買ってきてくれた油揚げの焼いたものに醤油をかけて朝食を食べ、 散歩をして弘法さんに手を合わせてから、書斎へ入った。  白帆は散歩に誘ったがついてこなかった。最近はずっとそんな感じだ。  そして最近は、弘法さんに何を願っているのか、舟而自身もよくわからない。 「白帆の声の掠れが長引いてほしいなんて、馬鹿げてる」  ――この家に来た日、僕はこの書斎で白帆と抱擁し、互いの頬に接吻し合った。  ――「女にしてください」と言う白帆を、僕が抱き締め、約束の接吻をしたんだ。  舟而は原稿用紙に向かいながら、ぎりぎりと腹の底にそう書きつけた。 「だから何だ。最初と話が違ってくることなんていくらでもある。でき切らない約束をした自分が悪い! ……浮かれた自分が悪い。僕は誰も定めちゃいけない。思い出せ!」  頭を振って、舟而は万年筆をインキ瓶へ突っ込んだ。 「失礼します」  無機質な小さな掠れ声が聞こえた。  掃除と洗濯を終えて書斎にやって来た白帆は、突然万年筆の手入れを始めた舟而の姿に目をくれることもなく窓際に寄って、膝の上に真夏の夜の夢を広げながら、庭へ顔を向けていた。  書斎の窓は北向きだから、日光を求める向日葵は白帆に顔を向ける。その向日葵に白帆は微笑みかけているような様子だった。  あの洋琴(ピアノ)大演奏會以来、日比は舟而の仕事の進捗とは関係なく、この家の玄関の戸を開けて、白帆に直接話し掛けて、外へ連れ出すようになっていた。 「わたくしも、白帆さんの見聞を広めるお手伝いをさせて頂きます。白帆さんにはご了解を頂きました」 静かに宣言した日比は、舟而の前では表情を変えないが、買い物の途中で一方的に二人を見たと言うお夏によれば、白帆に向けて向日葵のように笑っていたという。  今、白帆が見ている庭の向日葵には、日比の笑顔が重なっているのかも知れない。 「だから何だ。むしろ、よかったじゃないか」  自分は白帆の気持ちには応えないのだから。  舟而はインキを吸い上げた万年筆を原稿用紙へぐしゃぐしゃと走らせた。 「ごめんください、日比です」 社名を名乗らないときは、白帆を迎えに来たときだ。  白帆は本をしまうと、舟而から顔を背けたまま、「行って参ります」と呟いて書斎から出て行った。 「だから何だ。よかったじゃないか」 舟而は呟いた。原稿用紙には押し付けた万年筆の先から濃いブルーのインキが広がっていた。 「では、白帆さんをお預かりします」  はつらつとした日比の声が書斎まで聞こえてくる。  庭の向日葵は、書斎の屋根越しに太陽の光を一身に受けて、眩しいように輝いていた。  午前中から白帆が日比に連れ出された日の昼は、お夏と二人でちゃぶ台を囲む。 「白帆ちゃんのいないお膳って、つまんないわね」 お夏は茶碗で受けながら、沢庵をぽりぽりと噛む。 「何、僕と二人は不満なの」 舟而は二人の間にあるお(ひつ)から自分でご飯をおかわりして、急須から直接番茶を掛ける。 「二人きりのお膳しか知らなけりゃ、これで御の字よ。でもあたしたちは白帆ちゃんと一緒のお膳を知っちまったじゃない」 「白帆は声が落ち着けば、躍進座へ帰る。またお夏ちゃんと僕の二人の暮らしだよ」 舟而は一気に茶漬けを口の中へかっこんだ。  お夏は箸を止め、畳の上のどこでもないところを見て言った。 「来月、祥月命日(しょうつきめいにち)なの」 「覚えてるよ。日にちをずらして墓参りに行こう」  お夏が死んだ夫の親族に遠慮して、月命日や祥月命日には墓参せず、別日にそっと手を合わせていることを、舟而はとうに承知している。 「今度の祥月命日が済んだら、あたし、お見合いするわ」 「見合い?」 お夏はうんうんと頷いた。 「ようやく気持ちが片付いたの。今なら次のところへ行けるって、そう思うんだわ」  舟而と目が合ったお夏は、目を三日月形に細めた。舟而も表情を和らげて、目を弓形に細めて見せる。 「そう。お夏ちゃんがそう思うなら、いいと思うよ。今度こそ、お夏ちゃんを幸せにしてくれる男のところへ行ってほしいな」 舟而の声は明るかった。 「だから、舟ちゃんも。……ね、後生だから、幸せになって頂戴。そうでなきゃ、あたし、安心して次のところへ行けないわ」  舟而は顔を覗き込んでくるお夏の目を見つめ返し、ゆっくりと小さく頷いた。 「夏がそう決めるなら、僕もそうするよ」

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