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第22話

 舟而(しゅうじ)は書斎の文机の前に座り、白帆(しらほ)の座布団を胸に抱えて、嘆息した。 「そうは言っても、僕はキャラメルをぶら下げるくらいしか、能がないからなぁ」  文机の抽斗を開けて、凧糸を十文字に絡げたキャラメルの箱に手を触れる。  気が付くと陽は傾いて、空は橙色に染まり、ねぐらへ帰っていく烏たちが鳴き交わす声が響いていた。 「ただいま帰りました」  白帆の静かな声が聞こえて、舟而は最後にキャラメルをもうひと撫でしてから、抽斗を文机に押し込んで、書斎を出た。 「まあ、帝劇まで行ってきたのね」  茶の間へ行くと、白帆が肩を落とし、おかっぱ頭を俯けて座っていて、お夏が番茶を淹れてやっているところだった。 「おかえり、白帆。……おや、シェイクスピアを観てきたのかい」  ちゃぶ台の上には『リヤ王』のプログラムが載っていた。舟而は早速白帆の隣に座って手を伸ばし、頁を繰る。配役を見ると、女性の役は女優が演じているようだった。 「女優劇でした」 俯いたおかっぱの内側で、掠れた声でそれだけ言うと、白帆はぽたりと涙をこぼした。 「私、やっぱり女になりたいです……」  舟而は口を開いて、言葉が出てこずに口を閉じた。  白帆は舟而の姿に、おかっぱの頭を左右へ振った。 「もう、先生に女にしてくださいなんて申しませんっ!」 「えっ」  舟而は白帆の背中へ伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。 「お夏さんも、きっと嫌な思いだったでしょう、ごめんなさい」 「えっ」 「最初はわからなかったけど、先生とお夏さんが夫婦のよな間柄だっていうのは、今はもうちゃんと承知しています。 ……でも、でも。せっかく日比さんがお相手しますって言ってくだすったのに、私はお願いする勇気が持てませんでした! 女になりたいのに、矛盾してます。どうしよう!」 白帆はこみ上げて、両手で顔を覆ってわっと泣いた。  お夏は白帆の膝に手を置いた。 「白帆ちゃん。あたしが舟ちゃんと夫婦ってどういうこと? 舟ちゃんと夫婦なんて、あたしは願い下げよ」 「ぼ、僕だって。僕だってお夏ちゃんと夫婦なんて願い下げだ!」 お夏と舟而は顔を見合わせて、うんうんと頷く。  白帆は泣き濡れた顔でゆっくり二人の顔を見比べた。 「でも、日比さんが、先生とお夏さんは主人と女中の付き合い方じゃない、心まで寄り添っていて、どう見ても夫婦でしょうって」  舟而は仁王像のように目を剥いた。 「日比の野郎っ、変なことを白帆に吹き込みやがって!」 気色ばむ舟而に、お夏の鋭い声が飛ぶ。 「何、お門違いなこと言ってんの! 舟ちゃんがしっかりしないから、白帆ちゃんが勘違いしちまうんでしょ!」  舟而は口を開けたが、言葉が出てこず、何度か池の鯉のようにぱくぱくと口を動かして、そのまま黙って口を閉じた。 「ふ、風呂に行ってくるっ! 白帆も来いっ!」 「ええっ、せ、先生っ?!」 舟而は肩をいからせて歩き、二軒隣の銭湯へ行った。白帆も下駄をつっかけて後を追う。  舟而は番台のおばあさんにも頷くような挨拶をしただけの不機嫌だった。 「こんばんは。白帆ちゃん、先生ったらどうしちまったの」 「ええ、ちょっと。お夏さんの言葉が効いたみたい」 「先生は、白帆ちゃんとお夏ちゃんには勝てないからねぇ」  白帆は眉をハの字にして曖昧に笑った。  洗い場でも舟而は何も言わず、親の仇でもとるかのように頭を掻きむしり、全身をへちまで皮膚が削れそうなほど擦る。 白帆の手から糠袋をひったくると、黙って白帆の真珠のような背中を隅から隅まで磨き、 湯船に浸かってもなお黙って口を突き出し、 近所の子供が舟而の前からいなくなるほど強い目で水面を睨んでいた。  身なりはさっぱりしたが、不機嫌は相変わらずで、舟而は肩をいからせながら歩き、白帆も下駄を履いた足で小走りにして、また舟而の後を追う。  家の前を通り過ぎ、煙草屋の角を曲がって、吾妻橋の手前で左に折れて、川沿いを歩くと、倉庫前にある荷揚げ用の小さな桟橋に、舟而はどすんと音が聞こえそうな勢いで腰を下ろした。  舟而に桟橋の板を強く手で叩かれて、白帆もそろそろと舟而の隣に腰を下ろす。  二人が下駄を揺らす足元では、桁に小さな波が打ち寄せてちゃぷちゃぷと音がする。  空から橙色はすべて消え去り、夜空を映した紺碧色の川面には、橋の丸い街灯の光がこぼれてゆらゆらと踊っていた。  舟而はキャラメルの箱を取り出して、白帆に差し出し、珍しく自分も一粒食べて、しばらくそれきり、キャラメルを噛みながら憤怒の表情で水面を睨みつけていた。  白帆も口の中でキャラメルを溶かしながら、黙って下駄を履いた足を川の上で揺らし、静かに川面を見ていた。  空の紺碧色は濃くなり、赤い提灯をつけた屋形船が通っていく。屋形船には卓があり、島田髷に結って白粉を塗った着物姿の女性の姿が見え、三味線の音と賑やかな笑い声が聞こえた。  不意に舟而は鼻から大きく息を吸って、何かを吹き飛ばすように強く口から息を吐いた。 「白帆」 「はい」 舟而は前を向いたまま、何度も深呼吸を繰り返した。 「白帆。僕は、原稿用紙に正直に書くのは得意なんだけど、正直な言葉を口にするのは、実はあんまり上手くない」 「ええ、何となく承知してます」 白帆が小さく笑うと、舟而も肩の力を抜いて笑った。 「だから、その……」  舟而はもう一度強い深呼吸を繰り返してから、桟橋の縁に置いていた白帆の手の上に、自分の手を重ねて握り、そっぽを向いた。  白帆は俯いて微笑み、重なった舟而の手に、さらにもう片方の自分の手を重ねた。 「先生、お慕いしております」 「う、うん」  白帆が伸びあがって唇を触れさせた舟而の頬は、火傷しそうなほどに熱かった。

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