28 / 40

第28話

 お夏の縁談はとんとん拍子に進み、相手が旅館を営む五面(いづら)温泉へも実際に足を運び、お夏は先方の両親にいたく気に入られたと喜んで帰って来た。 「よかった、よかったと言っていただいたの。こんな私でもお役に立てるところがあると思うと勇む気持ちだわ。今度の日曜日には、彼が挨拶に来ますって」  白帆は大掃除を先取りするつもりで、徹底して掃除に励み、障子紙まで貼り換えた。 「書斎はいいだろう。午後には日比君が原稿を取りに来るんだ」 舟而は万年筆を持ったまま、仁王立ちの白帆を見上げるが、白帆は書斎の外を指さした。 「原稿用紙と万年筆を持って、茶の間へおいでなさいませ!」 「茶の間っ?!」  舟而は仕方なくちゃぶ台の上で原稿書きをする。その間も白帆は廊下をバタバタと雑巾を押して往復している。 「あんまり磨くと、家が削れてなくなってしまうよ、白帆」 「私の掃除など、猫の爪とぎにも及びません!」 舟而がため息をつく隣で、白帆は敷居の隅を竹串の先でほじくっていた。  原稿を取りに来た日比も茶の間へ通された。 「白帆さん、ご精が出ますね」 客間の畳を庭に運び出し、引っぱたいている白帆の姿に、日比は茶の間から身を乗り出して声を掛けた。 「せっかくのご縁談が、家の中がよごれてるからなんて理由でご破算になっちまったら、おおごとです!」 手拭いをあねさん被りにし、両袖をたすき掛けして、忙しそうに立ち働く姿に 「お手伝いしましょうか」 などと点数稼ぎを言ったものだから、日比は原稿を持ち帰らねばならない時間いっぱいまで、畳を運ばされ、床に元通りに敷き詰めて高さを合わせるのにつき合わされた。 「日比君、白帆の掃除は邪魔こそすれ、手伝うなんて絶対に言っちゃだめだよ」 舟而は茶の間で信楽焼の湯呑茶碗に口をつけながら、静かに日比に忠告した。  夕方になっても白帆は家じゅうの畳表を糠袋で磨き、濡らした新聞紙でガラスを磨いた。 「家の中はきれいになっても、お前さんは真っ黒けじゃないか」  舟而は白帆を風呂に連れ出し、洗い粉をつけて丹念におかっぱの黒髪を洗ってやり、さらに石鹸を付けたへちまで全身を擦ってから、糠袋で丁寧に磨いてやった。  再婚相手の若旦那は、写真の中と同じ洋装をしてやって来た。  舟而と若旦那は互いに口上を述べて堅苦しい挨拶を交わし、白帆は、舟而とお夏に「何人のお客さんが来るのか」と笑われたほど、悩んで選べずに買い込んできた茶菓子を並べた。  若旦那は写真で受ける印象よりも小柄で、身体も細かったが、身のこなしは軽く、姿勢がよくて、話す声に深みがあった。  白帆は桜湯をそれぞれの前に並べながらにこにこした。 「温泉旅館の若旦那じゃなかったら、ウチの舞台に一緒に立っていただきたいよな方ですね。身体や視線の動かし方が磨かれてます」  白帆の言葉に再婚相手は肩を震わせ、目を丸くして見せてから笑った。 「お客様の目に磨かれるという意味では、温泉旅館も同じようなものかも知れません。毎日お客様と接していますから」 「なるほど、そういうものなんですね。お夏さんもお嫁に行かれたら、ますます磨かれて、目も眩むようになっちまいますね」 白帆は笑顔を輝かせて話し、お夏は袖で口元を隠した。  桜湯に口をつけ、世間話も一段落したとき、舟而が背筋を伸ばし、静かに口を開いた。 「お夏に、真心と思いやりを持って接していただけますか」  再婚相手も茶碗を茶托へ戻し、舟而と同じように背筋を伸ばした。 「はい。そのように致します」 「……お夏を、どうか、どうかお願い致しますっ!」 舟而は畳に額が擦れるほど深く、深く、頭を下げた。  お夏はこらえきれず、真っ白なハンケチを口に当てて嗚咽を漏らした。  若旦那は帰りの汽車の時間が迫っているからと早々に帰ってしまい、余った茶菓子は大切に茶箪笥にしまわれ、日持ちしないすあまや団子の類は白帆(しらほ)の口に収められた。 「素敵な方でよかったですねえ」  白帆は満面の笑みで、言問団子(ことといだんご)の白餡を口の端にくっつけている。 「お前さんは、甘い物を取り合わなくて済む、辛党の人間なら誰でも“素敵な方”なんじゃないだろうな」  白帆の口の端から白餡をつまみ取って口へ入れつつ、舟而(しゅうじ)は眉間にしわを寄せる。 「先生は甘党でらっしゃるけど、素敵な方です」 「え。僕が甘党?」 「みつ豆をよく召し上がるし、いつもキャラメルを持ち歩いていらっしゃるし、先生は立派な甘党ですよ」 「ああ、うん。……そ、そうかも知れないな」 舟而は白帆から目を逸らし、お夏は袖で口元を隠し肩を震わせた。

ともだちにシェアしよう!