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第29話

「散歩に行ってくる。白帆(しらほ)、早くしなさい」 「はあい、只今! ……すみません、お夏さん。行って参ります」 「はいはい、どうぞごゆっくり!」  お夏は荷造りの手を止めて女中部屋からひょいと顔を出し、目を三日月形に細めた。  白帆は繁柾の下駄につま先をつっかけ、玄関で待ちかねていた舟而(しゅうじ)と家を出た。  煙草屋の角を曲がり、吾妻橋へ差し掛かってから、ようやく舟而は口を開いた。 「どうしようかね。女の物は何一つ見当がつかなくて参るよ」 「考えたんですけど、白無地の反物なんていかがでしょう。お嫁ぎ先の様子がわかりませんから、あちらへ行って落ち着いてから、染めや仕立てに出していただくってことで。例えば好きな色に染めて一つ紋を入れて仕立てれば、合わせる帯の格によって、どこへ着ていくにも便利なように思うんです」 「なるほど。では白帆丈ご贔屓の呉服屋へ行こう」  白帆は浅草駒形にある呉服店へ行った。割り合いに広い店で、棚一杯に反物があり、(えら)みが効く。  二人は下駄を脱いで、畳敷きの売り場へ上がった。 「白帆丈、少しお久しぶりですね。お歳暮ですか」 「こんちは。お歳暮もおっつけお願いしますけど、その前に白無地の反物が欲しいんです。相談に乗っていただけますか」  白帆が明るく事情を話すのを静かに聞き、店員は棚から反物を出す。 「お話を伺いますと、やはり垂れ物、一越縮緬(いちこしちりめん)が、じかにお役立ていただけそうですね。温泉旅館の若女将になられるのでしたら、綸子(りんず)もよろしいかと思います」 「綸子! お夏さんなら粋にも上品にも着こなしてくれそう」 光沢の多い綸子は、染め方や描き方、仕立て方によって上品にも下品にも、ときには爬虫類のようにもなる。  しかし、お夏の箪笥の中を一通り見せてもらった白帆には、お夏なら上手く生かしてくれると信じられた。 「丁度、四丈物(しじょうもの)のいい綸子がいくつかあります。桐生にいい機屋(はたや)がありまして、店主が直に言って織らせました。いかがでしょう」  店員は、反物を掴んでは腕の幅いっぱい引き出す仕草を二回も繰り返して、景気よく畳の上に綸子を広げた。  艶やかな紗綾(さや)紋のほか、波、雲、流水の文様があった。 「どの文様も慶弔どちらにも通じますね」 「全く僕だけの思いなんだけど、波と流水は避けてやりたい」  舟而が小さな声で言った。白帆も同意して、紗綾紋と雲紋を見比べる。 「お夏さんは夏の雲みたいに元気で、頼もしくて、ふんわり優しいから、私は雲がいいかな」  店員は頷いて、広げた反物を巻き戻した。 「あまりにも引き止めるものがない白さですから、手前共からのお祝い心に紅絹(もみ)を挟んでお包み致しましょう」  反物の巻き終わりに紅絹が添えられて鮮やかな紅白になり、さらに御祝ののしも掛けてもらって、二人は満足して店を出た。  お夏の嫁入り仕度はとてもあっさりしていた。 「箪笥も鏡台も姿見も、全部あちらで用意してくださってるの。着物もあちらのお母さまが若い頃に着たものがたくさんあるから、あとは気に入った着物だけ持ってきてくださいって言われてんのよ。だから持って行かない着物は新橋の女将さんに使ってもらうことにしたわ」 お夏は三日月形の目を細めた。 「舟ちゃんと白帆ちゃん、これもらってくれない」  舟而と白帆が何を言うよりも先に、紬の反物を二本、差し出されてしまった。 「あ……、ありがとう。落ち着いた色で長く使えそうだ」 「わあ、矢鱈縞(やたらじま)! 大切に使わせていただきます」  受け取ってから、舟而と白帆は目交(めま)ぜして頷き合った。 「ええと。新しい着物はもういらないかも知れなくて、さらに反物をもらってしまったから、出しにくいんだけど」  舟而が反物の包みを差し出すと、お夏は明るく笑った。 「私たち、気が合うのね! 以心伝心だわ」 「そう思ってくれるならよかったよ」 「ありがとう。立派な綸子ね」 お夏は反物を広げ、両手の上に渡した純白へ静かに目を落としていた。 それから顔を上げて三日月形に目を細め、舟而と白帆に等分に笑いかける。 「でも勿体ながらずに、遠慮しないで着させてもらうわね」  その夜、お夏の部屋はいつまでも明かりが灯っていた。 「あら、白帆ちゃん、まだ起きてたの」 「ええ、喉が渇いちまって……」 投網模様の寝間着に伊達締を結んだお夏と、偶然土間で鉢合わせる。  ちらりと見えた部屋の中は、電灯が低くおろされて、畳の上には白い反物が広がり、針箱が開いて、くけ台が出されていた。 「お夏さん、眠れないんですか」 白帆の問いには答えず、お夏は白帆の手を取って、両手で包み優しく撫でた。 「白帆ちゃん。お世話になりました、ありがとうね」 「そんな。私の方がお礼を言わなけりゃ。こちらこそたんとお世話になりました。ありがとうござんした。お里帰りしてくださるの、待ってます」 お夏は俯いたまま小さく首を傾げた。 「白帆ちゃんがしっかりしているから、舟ちゃんを任せて安心して行けるわ。 あたしが家を出て、舟ちゃんと白帆ちゃんの二人になっても、変わらずに仲良くしてね。 舟ちゃんも白帆ちゃんも、あたしの大切な可愛い弟。 ずっとずっと。お願いよ」 涙が一粒、白帆の手に落ちた。 「お夏さん……」 「いざとなると湿っぽくなっちまって、だめねぇ。でも明日は泣かないわよ」 「はい。私も笑顔でお見送りします」 「お互い、幸せになりましょうね」 二人は小指を絡めて約束をした。

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