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第30話

 若旦那が上野駅まで迎えに来て、舟而(しゅうじ)白帆(しらほ)はお夏を上野駅まで送って行った。 「どうぞお夏をお願い致します」 深く頭を下げる舟而の隣で、白帆も心を込めて頭を下げた。 「はい。真心と思いやりを持って、大切に致します」 若旦那も応えて頭を下げた。 「舟ちゃん、白帆ちゃん、これ昨日の夜、作ったの。一つずつどうぞ。 お達者でね。 いつまでも仲良くしてね。 白帆ちゃん、舟ちゃんのことをくれぐれもお願いね」  お夏が舟而と白帆の手に一つずつ渡したのは、昨日舟而がお夏に渡した雲紋様の白い綸子の小布でできた、お守り袋だった。  把手(ハンドル)つきの柳行李ひとつで汽車に乗ったお夏と、プラットホームに立つ舟而と白帆は、互いに見えなくなるまで手を振り続けた。 「夜遅くまで縫い物をしていたのは、これだったんですね。大切にしよう」  白帆は白い綸子のお守り袋を胸にあてた。  お夏を見送ったあと、上野で動物を見たり、ミルクホールでシベリヤを食べたりして遊び、夕暮れ過ぎに雷門の電停で市電を降りて吾妻橋を渡った。 「お夏さん、もうあちらで落ち着いた頃合いかしら。ねぇ先生、お地蔵さまにご挨拶して行きませんか」  すでに扉が閉まっている本堂前で手を合わせ、本堂裏の榎の下にある地蔵菩薩の祠へ行く。 「お夏さん、仕事を覚えるまでは気ぜわしいかも知れませんね」 「お夏は要領がいいから、すぐに飲み込んで、上手くやっていくのじゃないかな」  赤いよだれかけを着けた地蔵菩薩の前で、白帆はいつもと同じように右足を一歩引いて腰を落とし、屈んだ。 「あっ!」  白帆は前のめりに地面に手をつき、舟而は咄嗟に白帆の肩を掴んで支えた。 「相済みません。……ああ、嫌なこと。鼻緒が切れちまってる」  舟而に買ってもらった繁柾(しげまさ)の下駄にすげた、白い印伝の鼻緒が千切れていた。 「屈むときも座るときも、まず右足を引く癖がついてるから、右の鼻緒は切れやすいんですけど。どうにも縁起が悪くて嫌ですね」  役者は縁起を担ぐ習性があるから、白帆は本気で眉間にしわを寄せ、口をへの字に曲げて嫌悪する。 「お地蔵様の前で切れたんだから、厄落としだろう。よくよくお参りして、店にすげてもらいに行けばいい」  舟而は手拭いの端を裂き、よじって細くして五銭銅貨の穴に通す。その銅貨を手拭いが抜けないつっかえにして、両端を下駄の裏から表に通し、鼻緒を結ぶ応急の処置をしてやった。  二人で改めて地蔵菩薩に向けて手を合わせ、お夏の新しい暮らしの幸せを願った。 「ゆうびーん!」 玄関の引き戸が開いて、紙の束を投げる音がした。 「ご苦労様でーす!」 最近担当の配達夫は玄関の式台の真ん中に郵便物を置いて行く癖がある。  白帆は障子の桟にはたきを掛けていた手を止めて、式台に重なった郵便物を取り上げ、一つ一つ確認した。 「あらあ、間違えて住所を書いちゃったかしらん」 白帆は返送されてきたハガキに向かって唇を尖らせた。  白帆は招き猫柄のがま口を開けて、二つ折にした舟而の名刺を取り出し、名刺の裏にお夏に書いてもらった住所を、自分が書いたハガキと見比べる。 「合ってると思うんだけどな。先生、私の目が飛んじゃってるのかしら? 見て頂けます?」 舟而は原稿を書く手を止めて、名刺の裏のお夏の文字と、ハガキの表の白帆の文字を一字一句見比べる。 「合っているよ。お夏はそそっかしいから、番地でも書き間違えたんじゃないだろうかね」 「あちらは旅館なんだから、少しくらい番地が違ってても、おまけして届けてくれればいいのに」 隣に座った白帆の尖った口に、舟而は軽く唇を重ねる。 「まぁまぁ。お夏の方からも手紙を書いて寄越すだろうから、そのときに本当の住所も分かるだろうさ」 「ツン、ツン、テーン。ツン、ツン、テーン。ツン、テン、ツン、テン、ツン、テツツーン」  数日後、白帆が鼻緒をすげ直した下駄も軽やかに、口三味線を弾きながら上機嫌で踊りの稽古から帰ってくると、式台に大きな封筒が置いてあった。 「わーい! 先生っ、お夏さんからですっ! 厄落としをした甲斐がありましたっ!」  ばかっ調子に声を張り上げてから、玄関によく見る革靴があるのに気づいた。 「お邪魔しております」 客間から日比が顔を覗かせた。 「今日は栗鹿乃子をお持ちしましたよ」 「まあ、嬉しい! 今日は嬉しいことがたくさんです!」  白帆は封筒を胸に抱き、切れ長の目を細めて、おかっぱの黒髪を揺らした。  客間へ煎茶と一緒にお夏からの封筒を持って行くと、舟而はすぐに開封し、ボール紙の表紙を開け、薄葉紙をのけて、写真を見る。  白帆も舟而の肩に頬をおっつけて、写真を覗き込んだ。 「お夏さん、黒い着物をこんなに粋に着こなせるなんて、さすがですね。旦那さんも堂々としてて、写真映えがする。本当に役者みたい」  再婚同士だから祝言は挙げないと言っていたが、しゃっきりと立つ若旦那は黒の紋付袴、椅子に座ったお夏は(たば)熨斗(のし)文様の黒留袖の礼装で写っていた。お夏の表情には決意したという感じの心の強さが表れていた。 「日比君も見てやってくれるかい」 舟而が写真を差し出すと、日比は銀縁眼鏡の奥の目を細めた。 「喜んで拝見します。……あれ?」  両手で受け取った写真に銀縁眼鏡を少し近づけた。 「どうした?」 「こちらのお相手の方、役者みたい、ではなくて、銀杏座の役者さんではないでしょうか。竹之介さんにそっくりです」 「竹之介? 私、小さい頃によく遊んでもらいましたけど、竹之介はもっと布袋様のよな、恰幅のいい男ですよ。やぁだ、人違いじゃないですかぁ?」 白帆が顔の横でぱったんと手を倒す横で、舟而が写真を改めてのぞき込む。 「この男、羽織に銀杏紋が入ってないか」 「中輪に一つ銀杏紋、銀杏座の紋ですね」 舟而と日比は顔を見合わせた。

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