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第31話

「確かに中輪に一つ銀杏紋ですけど、銀杏座以外でも使われる紋ですし、偶然じゃないですかぁ。だってお手紙も、ほら!」  白帆(しらほ)は同封されていた手紙を読み上げる。 「お舅様、お姑様も我が子のように可愛がってくださり、女将の仕事も初めてのことばかりで面白く、毎日があっという間に過ぎていきます。主人は舟而先生との約束に違わず、日々思いやりと真心をもって接してくれており、穏やかな家庭を築きつつあります。……って書いてありますよ?」 「そんなもの書こうと思えばいかようにでも書ける。僕だって里の兄に宛てて、実は五年前に白帆という名の妻を娶り、三歳の男の子と一歳の女の子に恵まれて、毎日賑やかながらも楽しく暮らしております。と書いて、近所の子供と一緒に写真を一枚撮ればいいだけだ」 「そりゃ、そうですけど。なぜお夏さんは、そんなことをしなけりゃならないんです?」 舟而(しゅうじ)は答えず、黙って親指を前歯にあて、写真を見つめていた。  上野寛永寺(かんえいじ)近くに、丸太普請(まるたぶしん)の洗練された数寄屋造りの家がある。屋敷と呼んでも差し支えないほど大きな家で、玄関も銅板葺きの下屋を杉丸太の柱と梁がしっかり支えていた。 「はあああああ……」  白帆は銅板葺きの下屋の前で深く深くため息をつく。 「頼むよ、白帆」 「助太刀致しますから」  舟而と日比に両側からなだめすかされ、白帆はようやく玄関の引き戸に手を掛けた。 「帰りました……」  季節外れで弱った蚊の鳴くような声だったにも関わらず、広い廊下の幅いっぱいに何人もの男たちが押し合いへし合い、途中で団子になってつっかえたりしながら、まろび出て来た。 「おかえり、白帆。待っていたよ!」 「白帆ちゃん、また一段ときれいになって」 「お嬢様っ、おかえりなさいましっ!」 「お嬢様ぁぁぁぁぁ! お久し振りですぅぅぅ!」 舟而の家の客間くらいはありそうな広さに男たちがぎっしり、白帆! お嬢様! 次々に呼ばう声に、白帆は頑張って口角を上げて見せる。 「ご無沙汰致しておりました。こちら、私が大変お世話になっている、小説家の渡辺舟而先生と日日新報(にちにちしんぽう)文化部記者の日比さんです」  白帆が二人を紹介すると、男たちは一斉にしゃべりだした。 「まあまあ、白帆がお世話になっております。躍進座の親方から話は伺っております」 「きれいになったなあ、白帆!」 「よくいらっしゃいました」 「相変わらず可愛らしい! 目元は変わらないですね」 「立ち姿も美しくなって、匂い立つようです」 「日比さん、ご無沙汰しております。新聞拝見してます! お嬢がお世話になってるとは知りませんで失礼致しました」 「『芍薬幻談』読んでいます。毎日続きが気になって、こんなに読者を翻弄するなんて先生もお人が悪い」 「白帆はしっかりやっていますでしょうか。この子は昔から良くも悪くも一本気で、ときどきこちっとくるところがありましょう」 「お嬢様、そんなに長い時間玄関なんかに突っ立っていたら、お腹を冷やします!」 男たちは口々に言い掛けて、どの言葉が誰に向けられているものやら、声は混ざり、言葉は重なり、玄関のガラスがびりびり震えるほどの大音響に、舟而と日比も作り笑いを浮かべるのが精一杯だった。  一人の男性が、鶴の一声を上げた。 「玄関では何ですから、どうぞお上がりください」 するとまた男たちは口々に、お上がりください、どうぞどうぞと言って、同時に白帆へ無数の手が伸びる。 「じ、自分でできます」 白帆の抵抗空しく、白帆は抱え上げられ、下駄を脱がされ、そのまま神輿(みこし)のように担がれて、客間へ運ばれて行く。 「本当に自分の足で歩く暇もないんだな」 「大切にされてらっしゃるんですね……」  客間へ通されると、そこには鎮座させられた白帆と、二人の男性がいた。 「白帆の長兄にございます」 玄関で鶴の一声を上げた男性は、白帆の父親と言われても差し支えないような年齢で、風格がある。 「次兄にございます」 水を含んだようにしっとりとした仕草で、年齢は長兄に近そうだが、白帆と同じ真珠のような肌を持ち、どきりとするような美しさで微笑んだ。  その間にも、弟子たちが次から次へと甘い食べ物を運んできて、羊羹にカステラ、金平糖、落雁、芋ようかん、あんこ玉、有平糖、かりんとう、紅梅焼、最中、ボンボン糖など、座卓一杯に並べられていく。 「こんなに食べられないから」 甘い物に目がない白帆がたじろぐ量だが、二人の兄も、弟子たちもにこにこしている。 「持って帰ってあとでゆっくり食べればいいよ」 「小さい頃、白帆を駄菓子屋へ連れて行くと、めんこや弾き玉には目もくれないで、甘いものばかり欲しがっていたんだよ」 「金平糖をあまいとげとげと呼んでいてね。『ちい兄様、あまいとげとげ買って』と可愛らしい声でねだられて、よく買ってやったものだよ」 「露店でかるめらが膨らむのを見て大喜びして、手を叩いて『よっ、銀杏屋っ!』と声を掛けて可愛らしかったですよ。人を褒めるときは大向こうから屋号を呼ばうと、いつの間にか覚えていらしたんですね」 口々に思い出を語ってから、 「あの可愛かった白帆が、お嬢様が、こんなに立派になってねえ」 と感想が集約される。  日比は笑いをこらえきれず、白帆に膝を引っぱたかれた。

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