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苦界の蓮華 -苦-

 禿が声を上げたのは、地獄太夫の馴染み客が到着し太夫を呼んでいるという事を告げたのだ。絹の擦れる音が、妙にはっきりと耳に残り心にぽっかりと穴があくような虚無感に襲われる。 「花魁っ」  太夫が部屋を出る瞬間、焦って思わず名前を呼んで腰を浮かす。  花魁はしなやかに振り返る。 「言いなんすな」  地獄太夫は、人差し指を唇に当てて小さな声でそう言った。  その色気にごくりと唾と言葉を咄嗟に飲み込んでしまう。その仕草と言葉に、頭が沸騰しそうなほどの羞恥心に襲われる。  それは、まるで母親がわがままを言う(ぼん)に言い聞かせるようだと思ったからだ。そんなにも自分は必死な形相で太夫に手を伸ばしていただろうかと気づいてしまった。  一体何をつかめると思って手を伸ばしたのか?  太夫が行ってしまうことは分かっていたのに。引き止められるとでも思ったのか? 「…」  スタンッ  と、襖が静かにしまって、布の擦れる音は廊下を遠ざかっていった。  その瞬間、宗純の全身からもストンと力が抜けた。服が汗でへばりついた。立ち上がった勢いを落ち着かせて腰を下ろす。  見世にいた頃は、物珍しさにちょっかいを出して、話のネタにさえなれば良いと試しに買ってみた。得体の知れない魅力がないと、ここまで話題にはならないかと納得した。けれどそれだけではない。聡明な頭脳と回転の早い知性。これは全て仕組まれていた手練手管だったのだと、落ち着いた今なら理解出来る。  見世にいた時からそれは始まっていて、客が『買ってやった』といい気になるよう錯覚させて、実は良いように掌で転がされていた。坊主が経をもって死者を弔うあれば、花魁とは色気をもって生者を慰めなければならない。物言わぬ分、坊主の方がマシかもしれないと宗純は思う。  『しにくる人のおちざるはなし』と、太夫は言っていた。それは、牽制ではなく真実だ。  こうして、まんまと太夫の手管に嵌っていく男が一体この花街にはどれくらいいるというのだろう… 「地獄か極楽か…」  自らを嘲る。  宗純は酒を仰いだ。酒瓶は空だった。  ーーー終ーーーー

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