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苦界の蓮華 -八-

「僧侶の方は、閨房(けいぼう)に入ると遠島(とうえん)になると聞きんしたが…?」  ゆらりと太夫の長い睫毛と瞳が至極ゆっくり動く。まるで、煙のようだ。  時折、横顔を灯りがぼーっと照らして、闇が思考を鈍らせる。  ふわりと太夫の着物に焚き付けた甘い香の匂いが鼻をかすめたその瞬間、宗純の中で何かがグラリと傾いた気がした。 「…???」  なんだこれ…?  頭の中で、その瞳を見てはいけないと早鐘が鳴る。どうしても目が離せない。  動く小さな唇は艶やかで、真っ白な歯が時折艶かしくちらつく。  温かな色の薄明かりに磁器のような肌へ影が落ちている。明かりが暗いのは、余計なものを映さないからちょうどいいと思っていたのに、余計なものがないからこそ目についてしまう。  酒が回っているのだろうか?  チラリと視線を写すと猪口には先ほど太夫がついだ酒がまだ残っていた。    決して大きな声ではない。むしろ自分にだけ囁いているのに、耳を通さず頭の中に直接届いているように響いている。太夫が話す度に、綺麗な歯並びの歯と柔らかそうな舌が動く。もちろん、大口で話しているわけでもない。顎を掴んだら、折れてしまうんじゃないかと思うくらい小さいのに、なぜだろう…大口を開けて何かを咥えている姿を想像して、宗純の体が勝手に強張る。  遠くにいたときは気にならなかった事が近くなって1つ1つが鮮明になって、さらに頭の中が勝手に暴走していく。 「俺は、破戒僧だ、しな…」  頭の中、身体、全てが遠く、そして近くに感じる。  自分では制御できない何かが暴走を始めて、別の何かに支配され始める恐怖を抱く。 「そう…」  太夫がふと視線を外し、宗純は自らが緊張しているのだと思った。  何にそんなに身を硬くする必要があるのか。相手は傾城の花魁とは言え、元を正せばただの人間。妖怪や幽霊の類を相手にしているわけではあるまいに。  掌で額を撫でるとぬるりと額に汗をかいていた。身体が息苦しさを感じて、急に呼吸を始める。その度に、鼻腔には薫香とは違う太夫の甘い香りを吸い込んでしまう。着物に焚きつけられた香りではない。太夫自身の人らしい甘い、花のような香りであった。特別な事は何もしていないのに、自らの感覚で身体を動かす事が出来ていない。  あと一寸でも見つめられていたら、恐らくは今ここで太夫を押し倒していたか、自らが窒息死してたと思う。僧侶としてある程度修行を積んだ自分が、ここまで翻弄される花魁がかつていただろうか。  ――――なんなんだ  この世には、男と女の2つしか存在しないのに、どちらとも嗅いだことのない香りがした。それは、焚きつけた香でもなければ、部屋に生けられている花の香りでもない。ましてや、死臭というわけでもない。  人の匂いだということだけはわかるのに、言葉で説明することはできない。もしかしたら、この世の香りではないどこか極楽から漂っているのかもしれない。  お釈迦様が歩いている池の淵の蓮の花は、白く玉のようで金色の蕊から、なんともいえない好い香りが絶え間なく辺りに溢れているというから…  最初は、噂に違わぬ器量の花魁くらいは思っていたが、地獄という名前を名乗るだけあって、底なしの凄みを目の当たりにする。誰も敵を作らず客を足らい、それすら『良い』と思わせて帰らせる。彼らは刹那の極楽の夢を見る。その極楽が忘れられずに通い詰め、やがて彼らはここが地獄であったことに気づく。その時にはもう手遅れ。それが地獄太夫が地獄太夫たる所以(ゆえん)なのではないだろうか。 「ふふっ」  太夫が笑う。  今の宗純を見て太夫はどう思うのか。自分は一体、太夫にどう写っているのだろうか。  溜飲するたびに、喉がひりついていく。  宗純は、太夫が近づく前に止めるべきだった。  いっときの極楽を見せる代わりに、ここが地獄であることを最後まで悟らせない。  美しい色香に誘われ、手を伸ばし太夫を床に沈めた先を極楽だと思い込み、繰り返し泥沼に沈んで()って這い上がれずに、そこが地獄だと気づいて伸ばした腕、つかもうと開いた指は蓮華の花弁か…  地獄太夫は、池に糸を垂らすのか―――― 「…花魁」  まるで、2人の呪縛を解くように新造が声を出す。 「じれっとうすなぁ」  地獄太夫がため息をつくように言葉を吐き、長い睫毛がゆっくり動き、ふっと緩んだあと切なげに眉を下げる。 「宗純様とまだ語りましたけれど、おゆかり様が来んした…おさらばえ」  突如の別れを告げられる。 「えっ…」  フッと頬を緩めた太夫が、ゆっくり立ち上がる。  

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