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苦海の金魚 -六-

「…分かれば良い」 「はい」  彼の纏っている空気が軽くなる。すっと彼が体の上から退く。  客である男に対して、ここまでの所業が許されるのは、男が馴染みだからというだけではない。それほど彼がこの妓楼で地位を得ているということだ。つまり、彼の手練手管は優れているということであり、好き勝手が許される。  『客が花魁の機嫌を損ねた』というのが許される存在まで上り詰めているということ。彼を刺激して、怒らせたことを反省すべきは男の方だ。 「…あのさ」 「?」  彼は、男の隣に腰を下ろした。  纏う空気が違うだけで、まるで別人のように見える。先ほどまで、目の前にいた強大な化物はどこへ行ったのだろうか。  男は起き上がる。自分の体が徐々に自分のものとして機能している感覚がある。  先ほどの息苦しさも幾分かは楽になってきた。 「30歳で童貞のままだったら、魔法使いになるっていう噂さ…実は続きがあんだよ」 「えっ…?」  ここは性を扱う街。それを揶揄して花街と呼ぶ。  都市伝説には続きがある。 「50歳まで童貞だと妖怪になるらしい…」 「…」  もしかしたら…  あるいは…  彼がその年齢までこの妓楼で花魁を続けているとは思わないが、もしかしたら彼ならそうなってしまうんじゃないかと、見た目よりもずっと若く見える彼を見て思う。  目の前の彼は紛れもなく一介の花魁。この街をでたら何の効力もなくなる。  金魚のような存在。金魚は三代で鮒になるという。  この街では絢爛豪華な衣に身を包み、目配せ一つにも価値のある。しかし、それはこの街に限っての話だ。小さな金魚鉢に入れられているようだと思う。1歩外へ出れば、その艶やかな姿は一瞬にして鈍色に染まってしまう。あるいは鉢の外で乾涸びる。金魚は鉢の中にいるからこそ価値があり愛でられる。外界へ出てもただの食えない魚。肥やしにも干物にもならない。 「…なぁ、お前やっぱり太夫の話受けたらどうだ?」 「は?」  男の提案に、眉を顰める。  頓狂な提案ブチ切れるかと思いきや彼は大人しく話を聞いていた。  布団に腰かけた2人の影を月が後ろから照らしている。  重なった影が濃くなる。 「お前は、あの人にはなれねぇっていうかもしれないけど…なる必要はなくて、お前はお前にしか見せれない極楽を見せれれば良いんじゃねぇのか?」  ――――それは地獄か極楽か。  彼の花魁がよく言っていた言葉だった。 「…」  この苦海を泳ぐ大魚を鮒と見間違えるわけじゃあるまいし。   濁流であろうと清流であろうと彼ならきっと見事に泳いでみせるような気がする。 「1つ条件がある」 「なに?」  ニヤリと微笑んだ彼は鈍い光を宿す。 「俺の襲名を祝って大門打ちしろ」 「えっ…?」  大門打ちとは… 2つ意味がある。  1つ目はこの遊郭内で事件があった時、大門を閉め人の出入りができないようにすること。  2つ目はこの遊郭内の全遊女を買い占め、大門を閉じさせて他の客を入れずに遊ぶということ。そのために動く大金は、ただの金持ちでは、決して叶わないことであることは想像に難くない。彼は、明らかに後者をこの男に要求している。 「…できねぇならヤラねぇ」  彼の黒目がちな瞳が爛々と輝き、挑発的に心を逆なでする。 ――――月が綺麗ですね  口先だけの骸が彼の足元に転がっているような気がした。  その(いただき)にある上座に鎮座しているとして、彼の背後には月が浮かんでいるはずだ。頬杖をついた髑髏女郎の小手先で蹂躙されて骸になるか。 ――――死んでも良いわ  彼と共に心中する覚悟はあるか。 「ははっ!」  最近、花街では彼にまつわる都都逸が囁かれているらしい。  浄土に泳ぐ 金魚と見まごう美しさ 触れようと鉢を覗き込めば泡沫の つるりと滑って 落っこちて 骸になって厭離穢土  最初は受け入れられなかったが、今ならよくわかる。  彼は妖怪か、それとも別の何かなのだろうか。  鈍い微笑みの怪しい光に思わず笑みが溢れる。嬉々とした笑みの後、太い手が伸びてくる。 「うわっ!」 「いいねぇ…っ!おもしれぇっ!」  男は、彼を押し倒した。   こうしてまんまと手管にはまっていく男が、一体この花街にはどれくらいいるというのだろう…  彼らは深海のような奈落に沈んでいく。  死なば諸共。  ーーー終ーーーー

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