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苦海の金魚 -五-
地獄から呼び覚ましてはいけない恐怖を目の当たりにしている。
低く這うような声は黒黒しく、先ほどの嬌声と同じ口から発せられている音とは思えないほど重力を持っている。身体中の動きを奪った彼の眼光は鋭利で、自由を奪われる。
「同情してんじゃねぇ、俺を誰だと思って口聞いてやがんだ」
かつての彼の花魁はその昔、自らの人生を悲観し、とても奇異な名を名乗っていた。その名の影響で太夫の噂が広がったのも確かにそうだ。その禿だった彼もまた、太夫にあやかりたいと太夫自身に頼み特異な名をつけた。
『 髑髏女郎 』
それが、花魁としての彼の名前だ。
「一生誰も抱かねぇよ」
男は、目の前の女郎の凄みにゴクリと生唾を飲み込んだ。
彼のそれはまさにその名に相応しい。
元来、手練手管とは、相手を思うままに掌で転がすことのできる方法や技術をそう呼ぶ。時に人を騙し、嘯き操る。
右に歩いているように見せて、実は左に歩かせるように仕向けるのは当たり前だ。太夫ともなれば、その手練手管は凄まじく、纏う空気や、時空さえも歪めてしまう。
自分が、近くにいるのか遠くにいるのかさえ分からなくなってしまい、息を吸うのもままならなくなる。しまいには我を見失い手中で呆気なく転がされ、踊らされる。気づかずに身包みを剥がされ、気づいた頃には散財している。
権力という衣を纏っていれば脱がされ、財力は全て泡と消える。相手によっては、盲目になり底まで落ち、骨までしゃぶり尽される。
そうして、
衣ばかりでなく肉さえも削ぎ落とされ、骸になった姿で見境なく縋り付いて頭を垂れる。
捨てられた惨めな姿で泣きじゃくり、顔面を泥で汚して額を地面に擦り付け、女郎の艶やかな足を舐めるのだ。褌さえカタにとられ素っ裸にさせられた散切り頭の『晒 され頭 』を無惨に蹴り上げる。
その時、天を仰いで見た女郎の顔は、果たして本当に愛した人間の姿だろうか?
「…散々男に嬲られてきて、今更誰も抱けるわけねぇだろ」
その声は力強いがどこか冷水に似た自棄を孕んでいた。
部屋の空気を掌握し、相手を思うままに操ることができ、圧縮した空気に飲み込まれて息を詰まらせる。
彼が体の上に乗っているというのは、物理的にはそんなに重たくも苦しくもないのに、彼に支配されたこの空間では、まともに息さえもさせてくれない。まるで、水の中で首を締められているかのようだ。彼はそこで呼吸ができているのに、男は呼吸ができずに窒息しそうになる。
「…っはぁ…」
何とか息を吐いた。
動かそうとしたら、その手が微かに震えていた。
自らで自らの体が分からなくなる。とりあえず、息を吐いていることに安堵して、吐いた分の息をそのままの勢いで吸い込む。
それなのに、ちっとも肺腑の奥に空気が入っている感じがしない。
「俺が悪かった…」
両手をあげた男は彼にいう。
立て付けの悪い襖のような動きの鈍った関節に力を込めて腕を動かす。握った掌を開いて初めてじっとりとその両手に汗をかいていたことに気づかされる。両の掌を撫でる常闇の空気が心地よい。
「御免なさい」
素直に認めてしまった方がいい。
ロクでもないことを彼に言ったのは自分だということを。
彼が衣を纏っていたら幾分かは違っていたのかもしれない。
一矢纏わぬ姿の彼はいわば『髑髏』に等しい。
いや…
見えないだけで、恐怖を纏っていたのかも知れない。
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