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兎の落ちた恋の穴

 結婚式の二次会の後子どもは母親に預けて、姉に誘われるままに小さなバーに行った俺は、久しぶりに着たスーツの襟元を気にしていた。  普段着なれないことにはスーツはとても窮屈だ。俺は普段倉庫も併設する店舗に勤めているから、スーツなんて年に数回ほどしか着ない。  こんなきれいな所に来るのも、もしかしたら妻と結婚する前以来かもしれない――妻とは、今は亡き妻のことである。  有玄を産んですぐ、今から二年ほど前に亡くなってしまった。  それからうちは父子家庭で有玄を育てている。 「あんたも、そろそろ他に好きな人でもいないの?」  ビールに口を付ける俺に、姉はカシスウーロンを傾けながら聞いた。  先ほど出席した二次会で酒と同じ色のワンピースを着た姉は、俺が見ても悪くない。結構きれいだ。  カウンターの席に姉と二人で並んで座ると、俺たちは恋人同士に見えるだろうか……いや結構似た兄弟だから皆兄弟だと分かるか。  それにしても、最近そっちのほうは全くご無沙汰だ。  俺は照れ隠しにおどけて言う。 「作る暇もないよ。毎日有玄を保育園か母さんのところに送り迎えして、メシ作って風呂いれて寝かしつけるので精一杯」 「言うことも主夫っぽいわね」  姉の言うことにぐっと詰まりながらも、俺は言い訳を続ける。 「……恋愛とか好きな人を作るなんて、忘れてたっていう方が正しいかなぁ」 「でもあんたまだ三十路もいってないじゃない。恋愛しないっていう方がおかしいでしょ」 「……まあ年の数で言えば、そうだよね……」  今日の結婚式でもそうだけど、俺の同年代ではまだ独身、むしろこれから恋愛真っ盛りっていうやつのが多いんだ。でも俺は、若いうちに急に有玄が出来て、彼らと一線を引いてしまった。  ……まあ、有玄を作ったのは俺なんだけどさ。  逆に今は、もう恋愛の仕方もすっかり忘れちまった。仕方っていうか、恋愛そのものもすっかり忘れちまった。  それって何だっけ、美味しいんだっけ。    そんなことをぼんやりと考える俺に、姉は人生を諭すように言う。 「本当にそろそろ次の恋でも考えてもいいんじゃないの? あれでしょ、向こうのご家族もそうしろって言ってくれてるんでしょ。有玄のことも最初は自分たちが引き取るって……」 「……うん、言ってたよ」  有玄は俺が育てるけど。そう、決めたけど。  姉は続ける。 「あんたまだ若すぎるのよ。有玄を育てるにしたって、有玄にもお母さんがいた方がいいかなって思ったりもするでしょ?」 「そりゃね……」 「合理的に言って悪いけど、有玄が小さい今なら、新しいお母さんのことを意識せずに馴染むのも早いでしょ。本当のお母さんのように思ってくれるかも」 「いやー、それは都合よすぎだろ」 「そうかなあ」  なんて冷たい――いや、現実的すぎる女だ。  小さいころから一緒にいた姉ちゃんがそんなに現実的すぎるから、俺はなにか違うものを求めてバイになったのかもしれないぜ。  現実的なことは、決して悪いことじゃないんだけどさ……。    俺は、ビールをもう一口飲んで気を取り直して言う。   「姉ちゃん、世の中には合理的にいかないことだっていっぱいある。有玄が生まれたのだってそうだ。まったく計画どおりじゃなかった。  それでも俺は、有玄が出来てよかった。本当に良かった」 「ごめん」  姉はすぐに謝ったが、最後に「でも、新しい恋人のことは考えてみなよ」と言った。  もしかしたら母さんにもそう言えって言われたのかもしれない。子育てに没頭しすぎる俺を心配して。  姉ちゃんの言ったことも、そりゃ一理ある。有玄にもお母さんっていう存在が必要なのかなって思う時もあるよ。  スゲー可愛いんだぜ、有玄は……俺のこと見てキャッキャ笑ってさ……俺、有玄を育てるためだったら何でもする。  でも、いつか有玄だって大きくなったら、俺の手を離れていく。  俺があんまり有玄に依存しちゃったら、きっと彼にとっても重たいだろうよなあ。  ああ、こんな思考回路で恋愛なんかできるわけないじゃないか。恋を忘れた俺の思考はもう主夫を通り越してまるで老成したおじいちゃんのようだ。  何だっけ。俺の下半身は現役なんだっけ。  おじいちゃんだって下は勃つよなあ。男は大分先まで現役だからな……。  ***  自分が一体何を考え始めたのかわからなくなった頃、姉は「ちょっとトイレ」と言って席を立った。  俺がぼんやりとビールの続きを飲もうとした頃、隣に一人誰かが座った。  飾り気のない格好をした、若い枝のような子だった。 (大人になったばかり、って感じだな)  慣れてなさそうにぎこちなく椅子に腰かけて、店長らしき人としばらく会話をしている。  どうやら注文に困っているらしい。  俺はしばらくその様子をじっと見ていた。 「じゃ、じゃあそれをお願いします」  ようやく注文が終わったらしい。首筋の汗を手で拭っている。  滑らかな首だ。  酒を楽しめないことほどつまらないことはない。余計なお世話かもしれないけど、俺は彼の緊張をほぐそうと声を掛けてみることにした。  その時にふっと頭をよぎる。誰かと待ち合わせか何かなんだろうか。  まさか商売の子じゃないと思うけど。  思いながら同時に声を掛けた。 「ここ初めて?」  俺が聞くと、男の子は驚いたように俺を見た。  くりくりとした目が愛らしいぜ……愛らしい?  何だこれ。何かに似てるなあ。   「あ、ハイ……そうです」  振り向いた彼は、俺の思った以上に子供っぽかった。  ぎりぎり大人にはなってるよね? 何だかいけない匂いがするぜ……俺だけか?  あーあ。姉ちゃんが変なこと言うからだぜ。声をかけるなんて俺本当は柄にもないのに。  俺はほんの数秒話すつもりで、隣の有季に声を掛けたのだった。  ***  なぜか俺と有季は、次の日二人で居酒屋に行くことになった。  何でなんだろう……今朝起きて思い返してみても、よく分からない。  有季は昨日、森に迷い込んだ子ウサギのようにどぎまぎしていた。  そのくせ俺に、「普通の居酒屋に行ってみたい」と何だか誘いまがいのことを言ってきたのだ。  まあ、居酒屋で一杯飲むくらいだったら何も問題はないだろうと俺は判断した。  小一時間くらい居酒屋で喋って飲めばいいと思う。  俺も仕事と家とで精一杯じゃ思ったよりも疲れてるかもしれないから、たまにはいつも会わない相手と関係のない話でもして、息を抜けばいい。  有季という彼の真意が測りかねるのだが、俺だってこう見えてれっきとした大人だ。悪い商売にも詐欺にもそう簡単に引っかかりはしない。  姉と母は俺が息抜きをすることに賛成らしい。二人は喜んで有玄を預かってくれた。  有季は専門学校生だそうだ。  調理師の資格はとって、それから出来たら管理栄養士にもなりたいらしい。  とりあえず本当に二十歳は過ぎているようだ。よかった。 「じゃあ、居酒屋の料理にも興味があったのかな」 「えっとまあ、そんなこともあります」 「ふーん」  相変わらず、真意が読めない。  有季はそんなに言葉が多い方じゃない。  ただ、黙って正面からじっと俺のことを上目遣いで見詰める表情を見ていると、初めて会った時にも感じた、どこか(あや)うげな雰囲気を感じたり感じなかったりもするんだけど。  まあ、そんなことはどうでもいい。普段話さないような子と雑談をするのも気分が晴れるものだ。  話しながら、俺はぼんやりと、もしかしたらこの子はヘテロセクシャルじゃないのかもしれないなあと頭の中で考えていた。  どうでもいいんだけどな。なんせ俺の中身はおじいちゃんだから。  ただ有季と話しながら、俺は自分の若い頃を少しずつ思い出していた。  若い時、俺は恋愛対象が女か男かでだいぶ道をさ迷った。  昨日の有季のようにいつもどぎまぎとして、森の中の子兎よろしく、あっちへぴょんぴょん、こっちへぴょんぴょん……。  だがある時突然迷いの森からの脱出に成功した。どっちも好きなんだと割り切ればいいと悟ったのだ。  そうしたら急に子どもが出来た。全く人生は分からないものだ。    この子だって、いつかきっとはっきりする日が来るだろう。昔の俺と少しだけ同じ匂いのするこの子に、俺は同情しているのか、それともノスタルジックに同調しているのか――。  ほろ酔いでいい気分に浸り、とにかく今日はいい日だったと、早くも総括に入りかけていた頃。    子兎は全力で大逆襲をしかけてきた。  居酒屋を出て鼻歌を口ずさみながら歩いている時に、電柱の陰でふいに俺にキスをしてきたのだ。 「…………」  ふんわりとした感触はまだあどけない。正直、有玄を少しばかり成長させたのとあまり変わらないくらいだ。  気持ちはよかったけれど、酔いのままに夢心地の、雲の上を歩いているような感覚からだんだんと冷めた。  俺の身長より10センチほど低い彼は、唇を離すと頬を赤らめて言う。 「僕……玄寿さんのこと本気です。」  俺は困った。まさか、昨日今日出会ったばかりでこんなにも真面目な告白を受けることになるとは思わなかった。  しかしついでに、せっかくなので聞いてみることにした。 「……えーと……聞いていい。昨日会ったばかりの君の『本気』って、いったい何」 「僕、玄寿さんのことが好きです。本気で好きです」  俺はそれを聞いて、ひゅっと落ちる感覚がした。  ――あー、何となく思い出した……。  恋とは、ある日突然落っこちるものだったっけ。  この子のように、計画でも合理的でも現実的でも何も関係なく、どうなるか分からずにでも相手のことが気になって気になって突っ走ることだっけ。  森の子兎なんて馬鹿にして悪かった。  何が恋愛って何それ美味しいの、だ。何が人生あるか分からない、だ。  森の兎はこの子じゃなかった。俺の方だ。  恋の仕方を忘れて、森の中をぐるぐる大爆走して迷走しているところを、偶然ひょっこりと出て来た可愛い目のオスの兎に答えを教えてもらったのだ。  初めて会った時に彼の目を愛らしいと思わず思ってしまったのに、理由なんて要らなかったのだ。  もうすぐ三十路の兎は、ある日恋の穴にひゅっと落っこちた。  森の中で迷って穴に落ちても、二匹なら寂しくないかもしれないよなあ。 「本気……」繰り返す俺に、「ハイ本気です」と答える彼。  俺はただこの時、『本気』と言い切ったこの子の『本気』に、俺なりの全力の『本気』をもって答えなくちゃいけないなぁと、愛らしい目に見詰められながら、心の中で襟元を正していたのである。 (兎の落ちた恋の穴 おしまい)

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