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― 跳躍と出会い ② 

 高かった陽はいつの間にか傾いていた。  少し休むように言われ、執事のグレンに連れられて元いた部屋に戻ってきた。  イリアスが応接間を出るとき、初老の男を紹介してくれた。  屋敷内での要望は彼に伝えるように言われた。  薄汚れたスニーカーを脱ぎ捨て、ベッドに横たわる。  何も考えたくない。というより、考えることを頭が拒否していた。  尻ポケットに入れてあったスマホと財布を取り出し、小脇のテーブルに置く。  疲れが一気に噴き出した。  海人はすべてを忘れたくて、目を閉じた。  再び扉を叩く音が聞こえたとき、眠っていたことに気づいた。  返事をしながら起き上がると、グレンが入ってきた。 「お食事はどうなさいますか」  これだけはっきり聞き取れる言葉が、日本語じゃないなんて、いったいどういう仕組みなのだろう。  海人は頭の片隅で考えながら、食べます、と答えた。 「では、お仕度を」  海人はズボンのポケットにスマホを入れようと手に取りかけたが、やめた。 財布も何も持たずに立ち上がった。 「もう行けます」  脱いだ靴を今度は忘れずに履き、グレンについて行く。    薄暗くなった廊下を進み、一階に下りる。  先ほどの応接間とは逆である左側の廊下を行き、食事の間に通された。  十人程度が座れそうな長いテーブルに、食器は向かい合わせで二人分だけだった。  誕生席に椅子があったが、そこに食器は並んでいない。  黒い足元まであるスカートを履いたメイド服の女がせわしなく動いていた。   彼はまだ来ていない。  窓が見える位置の席に案内され、座って待った。    フォークやナイフが何本も並んでいて、洋食のフルコースのようである。  マナーなんぞ知らないが、フォークとナイフは外側から使うと何かの本で読んだことがあった。  窓を見ると、外は薄暗くなりかけていた。  灯りはテーブルの上に等間隔に置かれた燭台と、天井から吊るされたシャンデリアだけだ。 (電気がない……)  煌々とした電灯があたりまえの世界で生活していた海人にとって、蝋燭の灯りだけでは、心もとなかった。  ほどなくしてイリアスがやってきた。  慣れた様子で海人の向かい側の席に着く。普段からその位置なのだろう、まったく迷いがなかった。  海人の視線に気づいて、彼がこちらを見た。 「少しは休めたか」 「あ、はい。ちょっとだけ寝ました」  イリアスは気遣いの言葉をかけてくれたが、無表情のせいか、少し怖かった。  彼が席に着いたのを見計らって、皿が出される。 「食事はそちらの国とは違うだろうが、そんなに悪くはないと思う」  言うなり、早速食べ始めた。  ここは異世界。  疑問も何も持たず食べるつもりだったが、そう言われると腹を壊したりしないだろうかと不安になった。 海人は目の前に出された野菜を見つめ、フォークを握った。 「……いただきます」  恐る恐る口にしてみる。 「!」  柔らかいキャベツを煮たみたいで、コンソメのような味付けが美味しかった。  それが呼び水となり、海人の腹は急激に減った。  腹を壊すかもしれないという考えは吹っ飛び、すぐに食べ切ってしまう。  次の皿が出てくるのを待った。  グレンが飲み物も注いでくれた。  礼を言いながら、グラスを見つめた。  これは水なのだろうか? いや、お酒かもしれない。    海人がグラスを取り、慎重に匂いを嗅いでいると、 「お水ですよ」と、グレンに言われた。  安心して口をつけてみたが、少し飲みにくかった。  硬水というやつだろうか。  その後も料理は次々と出てきた。  肉、魚、どれもこれも美味しくて、海人は夢中になって食べた。  ひとしきり食べ終わると、最後にデザートが出された。甘く煮た果実のようだった。  併せて紅茶が淹れられる。昼に出されたお茶は結局、一口も飲まなかった。  紅茶が冷めるのを待っていると、頭が働きだした。  ほんの数時間前まで考えたくないと思っていたのに、食事をしたことで気力も沸いてきたようだ。  疑問が浮かんでくる。  食事中、一切会話をしなかった彼をちらりと見て、海人は思い切って話しかけた。 「あの、イリアスさんは」  呼び捨ては(はばか)られたので、『さん』付けにしてみたが、 「イリアスでかまわない」  一蹴された。  海人は気を取り直して話しかけた。 「じゃあ、あの、イリアスは、なんでおれが異世界の人間だってわかったんですか?」  彼も執事のグレンも、そこにいるメイド服の女もどうみても自分と変わらない人間だ。  果たして一目でわかるものなのだろうか。  イリアスは飲んでいた紅茶のカップを置いた。 「カイトは突然、空中に現れ、私の上に落ちてきた」 「え⁉」 「それに見たことのない材質のものを持っていた」  見たことのない材質というのは、スマホのことかもしれない。  だがそれよりも、人の上に落ちてきたという証言の方に、青ざめた。 「すみません……おれ、まったく覚えてなくて」  自分が悪いわけではないし、むしろ異世界に跳ばされた被害者ではあるが、海人は申し訳ない気持ちになった。  下手をすれば、この人に怪我を負わせていたかもしれない。  その心中を敏感に察したように、イリアスは言った。 「怪我などしていないから気にするな」  そうは言われても、気にならないわけがない。    いきなり目の前に降ってきた人間を助けて、こうやって食事まで与えてくれているのだ。  どうお詫びしよう、と海人が両手の拳をギュッと握ったとき、 「ちなみに我々は別の世界から来た者のことを、跳躍者と呼んでいる」  さらっと言われ、海人は目を()いた。 「おれ以外にもいるんですか⁉」  海人の声が大きく響いた。  自分以外にも異世界から来た人間がいるのか。  イリアスは海人の目をまっすぐに見つめた。 「いる。私はカイトと同じような人を知っている」  燭台の炎が風もないのに揺れる。  海人は希望を見つけた気がした。  イリアスが言うには、その人は『アフロディーテ』と名乗ったらしい。  ずいぶんと挑戦的な名前である。なんせギリシャ神話の愛と美の女神だ。  本当にそう名乗ったのか、二度訊いた。    あっけにとられていると不思議がられたので、自分の世界の女神のことだと教えた。  それを聞いても、イリアスは表情を動かさなかった。    アフロディーテは十五年前から王宮にいるらしい。 「会うことはできませんか」  海人はお願いしてみたが、いい顔はされなかった。 「会ってどうする。先ほども言ったが、帰る方法はない」  それはそうだろう。  帰る方法があれば、十五年もこの世界にいるはずがない。  いきなり知らない世界に跳ばされて、言葉は通じるものの、帰る方法はない。  名前からして外国人だろうから同郷とは言い難いが、それでも同じ境遇の人がいるということ自体が、海人にとって心の支えに思えた。 「なんでもいいから、話をしてみたいんです」  訴えるように言うと、イリアスはテーブルに肘をつき、両手の指を顔の前で組んだ。 「アフロディーテに会うとなると、私の一存では決められない。父上の許可がいる」  その仕草は簡単なことではないと言わんばかりだった。  イリアスの感情が表に出ないので、何を考えているのかわからない。  だが海人は悪いようにされることはないと、この短時間で悟っていた。  お願いです、ともう一度頼む。  部屋には執事とメイドが壁際にいたが、二人はカタとも音を立てなかった。  イリアスは黙考したのち、答えた。 「……わかった。王宮に取り成してみよう」 「! ありがとうございます!」  海人は顔を輝かせたが、イリアスは無表情のまま、組んでいた指を口元に近づけた。 「ただし、父上は今、外遊中だ。戻るまでに三か月近くある。それまではここで大人しく生活してもらうが、いいか」  三か月。  長いなと思ったが、これ以上のことを望んでも無理だろう。  追い出されないだけましだ。海人はうなずいた。 「かまいません。よろしくお願いします」  椅子から立ち上がり、頭を下げる。  だがイリアスは指を組んだまま、何も言わなかった。

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