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第1章 跳躍と出会い ①

 目を閉じたまま眠りから覚めた藤原海人(ふじわらかいと)は、 (昼寝したんだっけ?)  と、おぼろげに思いながら、寝返りを打った。  枕に顔をうずめようとして、いつもと違う感触に気づいた。  枕が低くて、ふかふかすぎる。そこでやっと目を開けて、仰向けになってみた。  天井に木製の(はり)がある。明らかに自分の部屋ではない。 (どこだ、ここは?)  海人は体を起こした。ベッドに寝ていたようだ。  窓から陽射しが入っており、日中であることがわかった。  部屋を見回すと、一人用のひじ掛け椅子とテーブルがあり、赤く濃い色の壁に絵画が掛かっている。  八畳の狭い自室と違い、広い洋風の部屋だったが、どことなく古風な屋敷のように思えた。 (夢?)  何が起こったのか整理しようと思ったが、まったく意味がわからなかった。  パニックを起こしてもよさそうだが、海人は意外と冷静で、とりあえず窓の外を見ようと思った。    陽は高く、カーテンも閉じられていない。  窓の外を見てみると、他に建物などなく、一面に青空と緑の樹々が広がっていた。  高い位置から林が見えたので、どうやらここは二階か三階のようだ。  視線を下に向けてみると、庭があり、ひとりの男が剣を振っていた。  金色の髪が目に飛び込んできた。 (外国人だ)  白いシャツを腕まくりして、剣技のような動きをしている。  海人がじっと見下ろしていると、まるで視線に気づいたかのように、男は剣を振るのをやめ、窓を見上げた。  目が合った―  途端、海人は反射的に窓の下にしゃがみこんだ。 (どうしよう、見つかった!)  心臓が早鐘を打ち始める。  そもそも隠れているわけではなかったのに、見つかったなど矛盾もいいところだ。  つまり海人は夢か現実かよくわかっていなかったため、思考が停止していたのだ。  そこに知らない人間と目が合ったことで、急に現実感が帯びてきた。    口を押えて、どうしよう、と座り込んでいると、木製の扉を叩く音が響いた。 「!」  肩がびくっと震えた。  普段なら「はい」と返事をするところだが、海人は答えられなかった。  どうなるのかわからない恐怖で声が出なかった。    黙ったままでいると、部屋の扉がほどなくして開けられた。  庭にいた金髪の男がそこにいた。彼はすぐに海人を見つけたが、男は扉の近くに立ったまま、部屋の中には入って来なかった。  海人が窓枠の下で縮こまっていると、彼は静かに言った。 「怯えなくていい。危害を加えるつもりはない」  海人はその言葉に驚いた。 「日本語⁉」  思わず声が出る。西洋人のような白い肌に金髪と灰色の瞳をしている男。その口から日本語が出てくるとは思ってもみなかったのだ。  海人の反応を見て、彼は一瞬止まったが、何事もなかったかのように続けて言った。 「言葉は通じるな?」  確かめられ、海人はこくこくとうなずいた。 「動けるようなら、話がしたい。使いを寄越すから、その者に付いてきてほしい」  金髪で長身の彼はそれだけ言うと、部屋の扉を閉めた。  足音が遠ざかっていく。  あっけにとられ、海人はしばらく扉を見つめていたが、ゆっくり立ち上がった。    ベッドの枕元の横に小型の机があった。    その上にスマートフォンと財布が置かれていることに気づく。  海人がズボンの尻ポケットに入れていたものだ。  慌ててスマホを取り、画面をタップするが、真っ黒だ。  電源ボタンを押しても何も起こらない。    充電はしっかりしたはずだったのに、壊れたのだろうか。  無造作にスマホをズボンの尻ポケットに入れ、次に財布の中身を確認してみる。  千円札が三枚と小銭が少々。 (何も盗られてない……)  自分の記憶通りの金額が入ったままだ。  財布を二つ折りにして、それもまた反対のポケットにしまう。  ベッドに腰を下ろしながら、海人は考えた。  自分は助けられたのだろうか。    先ほどの彼は、話がしたいと言っていたが、すぐに部屋を出て行った。  それは海人に落ち着く時間を与えてくれたように思う。  部屋の中に入らなかったのも、海人にこれ以上怯えさせないために、近づかなかったのかもしれない。 (いいひと、ってことだよな?)  すると海人は先ほどの自分が急に恥ずかしくなった。    (ろく)に会話もできず、ひたすら小さくなっていたのだ。  海人は恥ずかしさに耐え切れなくてベッドに倒れ込んだ。  さっきの自分を消したいと頭を抱えた矢先、扉を叩く音が聞こえた。 「! はいっ」  反射的に起き上がる。今度は声が出た。 「失礼いたします」としゃがれた男の声が聞こえ、扉が開いた。  入って来たのは初老の男だった。黒い執事服を着ている。  この人が『使いの者』だろうか。  海人は立ち上がった。半白の髪をした男は柔和な顔をしており、怖くはなかった。 「お仕度はお済みですか?」  丁寧な言葉で話しかけられ、支度もなにもないのだが、と思いながら、大丈夫です、と返事をした。  すると、初老の男はベッドの傍まで歩み寄り、海人の近くで屈んだ。  なんだろう、と思ったら、足元にあった物を差し出してきた。  それは海人の履きつぶしたスニーカーだった。  男の足元を見ると、彼は靴を履いていた。 「! す、すみません!」  真っ赤になりながら慌ててスニーカーに足を突っ込む。  起きてからずっと裸足でいたのだ。    海人にとって、部屋の中では靴を脱いで過ごすことは当然のことだった。  だが無知を(さら)してしまったようで、居たたまれない。    初老の男は羞恥とともに慌てている海人に優しく微笑んだ。 「お気になさらず。では参りましょう」  背筋の伸びた初老の男について、海人は部屋の外に出た。  広い廊下が続いている。  幾何学模様の描かれた赤い絨毯に部屋がいくつかあった。  ところどころにある花瓶や陶器の調度品のある廊下は、アニメで観たことがある洋館そのものだった。  きょろきょろと見渡しながら、カーブを描く階段を降りると、玄関ホールと思しきところに出た。  両翼に通路があったが、階段を降りて右に行く。  そして一室の前で男が止まった。扉は開かれている。 「どうぞ、中に」  促されて入ると、ソファにテーブル、暖炉、そしてシャンデリアが目に入った。  壁には大きな風景画が飾ってあり、自分がいた部屋よりずっと華美な応接間だった。  その豪華な部屋のソファに見事におさまっているのは、あの金髪の彼だ。 (着替えてる……)  部屋に来たときのラフなシャツと違って、スマートな詰襟のオフホワイトの服を着ている。  服の刺繍も手が込んでいて、生地の質の良さを伺わせる。  それがまた文句なしの美貌によく似合っていた。  反対に自分は半袖のTシャツに着古したジーンズとスニーカーである。  場違いにも程があった。  圧倒的な差に怖気づいたが、彼は気にする様子もなく、座るように手で示した。  緻密なデザインが施されたソファは、いかにも高級そうだった。  海人は戸惑いながら、ソファに浅く腰かけた。    目の前の男は、あまりに端整な顔立ちすぎて(つまりかっこよすぎて)直視できない。  どこを見ていいのかわからず、うつむき膝を握ると、彼が話しかけてきた。 「具合は悪くないか?」    気遣いの言葉に海人は顔を上げた。  灰色の瞳とかち合う。 「あ……大丈夫です。あの、おれ……」  海人は緊張で胸がどきどきした。  聞きたいことは山ほどあるのに、言葉が出てこない。詰まってしまった海人に彼は小さくうなずいた。 「私の名はイリアス=ウィル=サラディール。あなたの名前を聞いてもいいか?」  滑らかな日本語にわずかに緊張が解けた。 「おれは、藤原海人っていいます」  答えると彼は少し黙って、そして続けて訊いてきた。 「なんと呼べば?」  姓と名がどちらかわからなかったのだろうか。  それであれば初対面の人間同士は家名で呼び合うのが普通である。だが、 「海人でいいです」  あえて名を選んだ。  小さな田舎町の学生で、社会経験のない海人は友人からも大人からも名前で呼ばれていた。  学校の先生からも親しみを持って呼び捨てされている。特段変なことはないと思って答えたが、彼は意外な反応を示した。 「カイトというのは、名ではないのか?」  名で呼んでもいいのか、という意思を確認するような言い方だった。  少し馴れ馴れしかっただろうか、と海人は思ったが、やっぱり苗字で、などと言えない。    海人は問題ないと答えた。すると彼はまた黙り、 「では、私のこともイリアスと呼んでくれてかまわない」  と、無表情で言われた。 (自分はいいけどこの人は名前で呼んでいい雰囲気じゃない……)  海人は名前呼びでいいと言ったことを若干後悔した。  そんな海人の胸中を知ってか知らずか、金髪の彼、イリアスは膝の上で手を組んだ。 「さて、カイト。あなたはさきほどまで、こことは別の場所にいた。違うか?」 「!」  いきなり核心である。  まさに海人はそのことをどう話せばいいのかわからなかったのだ。  海人は身を乗り出した。 「あの! ここはどこなんですか? おれはなんでこんなとこに……!」  勢いよく言ったところで、ティーカップが差し出された。  いつの間にかお茶の準備をしていた初老の男が、落ち着いてくださいといわんばかりに、ティーカップをテーブルに置いた。   イリアスは質問に答える前に紅茶のようなものを一口飲んだ。  それを見て、海人も飲もうとしたが、舌をひっこめた。  熱くて飲めない。仕方なしにカップを置くと、彼は海人を見た。 「ここはルテアニア王国、サウスリー領のリンデという街だ。おそらく、あなたがいたところでは聞いたことのない街ではないか」  まっすぐ見つめてくる灰色の瞳に、海人は目を見開き、大きくうなずいた。 「おれはさっきまで地元の神社にいたんです。気が付いたらここにいて……」  そう、自分は神社にいた。  高校三年、大学受験の夏だ。  緑豊かで海沿いの町に生まれた海人は、都会の大学を目指して勉強していた。  だがどうにも集中できず、近くの神社に参拝に出かけたのだ。    海沿いを歩き、海水浴場のそばにその神社はあった。  海に向かって建てられた社は、普段は無人で社務所もないが、祭りは夏と秋に行われ、そのときと初詣には人が集まりにぎやかになる。    海水客を見守るように静かに鎮座する社殿に上がり、今日もまた合格祈願をするため鈴を鳴らした。  そしていつもと違うことに気がついた。    拝殿の奥にある木枠の扉が少し開いていた。賽銭箱があり、近づくことはできない。ただ珍しかったので、御神体でもあるのかと身を乗り出し、暗い先をのぞき込もうとした瞬間―    そこから記憶がない。目覚めたら、ここにいた。 「ルテアニアという国は知らなくてすみません。ヨーロッパのどこかですよね? どのあたりですか? あ、すごく日本語うまいですけど、日本にいたとかですか?」  海人は(せき)を切ったように、矢継ぎ早に質問した。  お茶を差し出し、ここまで案内してくれた初老の男も流暢な日本語を話していた。  外国人特有の(なまり)のない日本語だ。  だが、目の前の彼は涼しい顔をして言った。 「私たちは言葉が通じている。だがそれは、私があなたの国の言葉をしゃべっているわけではない」  海人は眉を潜めた。  いま、彼とは言葉は通じているのだから、日本語を話しているはずだ。  日本語として聞こえている。だから言っている意味がわからない。  海人が理解できていないことに構わず、彼は続けた。 「私はこの世界のすべての国を知っているが、ニホンという国は存在しない。そして、私が話している言葉はニホン語ではなく、ルテアニア語だ」  これが、日本語ではない? いや、どう聞いても日本語だ。  海人は頭をフル回転させたが、やはり理解できずに眉間に皺を寄せた。 すると、イリアスは射貫くように海人を見た。 「カイト。ここはあなたの住んでいた世界とはまったく別の世界。いわゆる異世界だ」  海人は弾かれたように顔を上げ、叫んだ。 「異世界⁉ 異世界って地球じゃないってこと⁉」  大声を上げた海人に、イリアスは淡々と答えた。 「チキュウというのが何をさしているのか、わからない」  海人は言葉を失った。  そのままソファに深く沈みこむ。あまりのことに何も考えられない。  呆然としていたが、その間、イリアスは口を開かなかった。  しばらくして海人はつぶやくように言った。 「どうやって帰れば……」  この人なら何か知っているのではないかと、淡い期待を持った。  だが、イリアスは抑揚のない声ではっきりと言った。 「私の知っている限り、帰る方法はない」  

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