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― 跳躍と出会い ④

 昼食はパンに肉厚のベーコンとチーズが豪快に挟まっているサンドイッチだった。  食べ終わると、海人とグレンは勉強部屋に戻った。    机に向かうと何も書かれていない洋紙が広げられる。  グレンはそこに線図を書いた。 「ルテアニア王国は、王都アルバスを中心に四つの領地があります。サウスリー、ノースリー、ニュースリー、マウスリーです」  地図のようである。王都を二重丸で描き、四方を四分割する。  サウスリーはここ、と分割した境界線を太くなぞった。王都から南に位置している。  私たちがいるリンデはここ、とそこからさらに南の国境沿いに黒丸を書いた。  しかし、そのうち都市名など忘れそうだった。 「これ、書き込んでもいいですか?」  メモを取りたくて、海人は自然に言った。すると、グレンは軽く目を見張り、どうぞ、とペンをくれた。  万年筆だった。ペン先をインクで濡らす。  海人はアルバス、サウスリー、と聞いたばかりの土地の名を書いた。  それを見ていたグレンがぽつりと言った。 「カイト様は読み書きができるのですね」 「え?」  思いがけない言葉に顔を上げたものだから、グレンが失礼しました、と恐縮した。 「あ、いえ、怒ったわけじゃないんですけど、どうしてですか?」  素朴な疑問にグレンは笑みを浮かべた。 「庶民は普通、読み書きはできません。できるのは貴族や裕福な商人くらいです。イリアス様からカイト様の世界には身分制度はないので、無礼なことをしても叱るなと言われておりまして。ですから、カイト様は庶民のような方なのだと思っておりました」  それは間違っていない。自分は間違いなく庶民だ。  身分制度がないことなどイリアスには言ってなかったが、ある程度、海人の世界の知識はあるらしい。  海人は言った。 「たしかに日本に身分制度はないし、おれも庶民だけど、字くらい誰でも書けますよ。それくらいの教育を受けるのは……日本じゃ当たり前だから」  グレンは、ほう、と感心したように大きくうなずいた。 「それは素晴らしい国ですね。わたくしは当家でお世話にならなければ、読み書きなど一生できなかったでしょう」  海人は借りたペンをグレンに返した。 「おれが読めるかどうかわからなかったから、字を書かなかったんですね」  グレンの優しい気遣いをうれしく思う海人だったが、ペンを返された当人はなぜか困った顔をした。 「ご自分で書かれた方がよろしいでしょう」 「?」  今の流れでどうしてそうなるのかわからない。海人が小首を傾げると、 「カイト様が文字を書かれることはわかりましたが、ルテアニア語ではありませんね。わたくしには読めません」 「え⁉」  グレンは返されたペンで、海人が書いたカタカナの下に、ルテアニア語の文字を書いた。 それはアルファベットとも違う、まったく読めない文字だった。  グレンの滑らかな文字をしばらく見つめ、愕然とした。 「これじゃあ、おれ、読み書きできないのと一緒じゃん……」  言葉が通じているから文字もわかるものだと思ったが、なんたることだ。  グレンも何と言っていいのかわからない顔をしている。  違う言語を話しながら言葉が通じるのなら、なぜ文字もわかるようにしてくれなかったのか。  海人は神のいたずらを呪いたくなった。  気を取り直したグレンが次に教えてくれたのは、身分制度のことだった。  階級社会の頂点は王族、次に貴族。貴族の中でも序列があり、それを爵位という。  公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵と五つあった。  ちなみにこの国の四つの領地を治めている貴族の爵位はそれぞれ違う。  海人のいるサウスリー領主の爵位は伯爵、家名をサラディールといった。 「イリアス様のお父上です。イリアス様は次代の領主になられる御方なんですよ」  誇らしげに言うグレンに、海人は頭を抱えたくなった。  ペン先を洋紙に押し付けてしまい、黒いインクが滲んだ。  思っていたよりすごい人だった。  その後も講義は続いた。  まったく未知の世界の話を海人は面白く、熱心に聞いていた。    時を忘れて集中していると、メイド服のマーシャが紅茶のセットを持ってきてくれた。 それを機に休憩に入る。    机の上に広げられた洋紙に書いたのは、漢字、ひらがな、カタカナ、である。  お茶の準備が始まったので、海人が背伸びをしていると、マーシャは珍しそうにその紙を見ていた。  おれの国の文字ですよ、と言うと、のぞき見したことを恥じたかのように、マーシャは失礼しました、とそそくさと出ていった。 (別に怒ったりしないのに)  海人はなんとなく寂しい気持ちになりながら、紅茶を口にした。  グレンはこの国のことを教えくれているが、やはり気になるのはイリアスのことだった。 「グレンさん、イリアスの仕事ってなんですか? やっぱり領主様のお手伝いとかですか」  今日は仕事に出かけたというが、何をやっているのだろうか。  海人が訊くと、グレンは飲みかけた紅茶のカップを置いた。 「旦那様の補佐をすることもありますが、お仕事は辺境警備をしている騎士様ですよ」  海人は目を見開いた。  騎士。だから庭で剣を振っていたのか。  開けた窓から風が入ってきて、海人の頬を撫でた。  それにしても意外な仕事だ。領主の息子ともなれば、執務仕事をしていそうである。  海人は続けて訊いた。 「領主の跡継ぎがそんな危ないことをしていて大丈夫なんですか?」  身分の高い人は安全な場所にいるという海人の偏見に、 「確かに騎士様のお仕事は危険なこともあります。ですがイリアス様は大丈夫ですよ。とてもお強いですから」 と、にこにこしながら言った。  いや、強いとか強くないとかそういうことではなくて、と言いかけたが、自分が仕える人のことをとても誇らしげに語るので、海人も追及するのはやめた。  休憩が終わった後、またこの国についての話を聞いた。    いちばん驚いたのは魔獣についてだった。  この魔獣というのは、人を襲って食べる獰猛な動物だというのだ。  魔獣は普段、森や山など人が足を踏み入れにくい場所に生息しているが、活動が活発になったり、飢えたりすると、人里を襲ってくるのだそうだ。  森の熊みたいなものかな、と海人は軽く考えたが、野生動物との違いは魔法を使ってくることなのだとグレンは言った。 「これがまた、厄介でして……」  グレンが続けようとしたところを、海人は遮った。 「魔法⁉ いま、魔法って言いましたか⁉」  海人が急に声を大きくしたので、グレンは驚いたようだった。  海人は想像の世界にしか存在しない魔法がこの世界にあることを知り、身を乗り出した。  興味津々の海人に、しかしグレンは、 「魔法についてはイリアス様にお尋ねください」  その一言で済ました。  答えてやりたいが、グレンは魔法が使えない。原理などよくわからないのだという。  そして別の話題に移られてしまった。  窓から入る陽射しの位置が机から床にずれていった頃、ついに海人の頭が飽和した。  疲れを見て取ったグレンは、 「お話はこれくらいにして、庭を案内しましょう」 と、講義を終わらせてくれた。  グレンに連れ出された庭は、上品に選定された木が並び、花が植えられていた。  部屋の中から見えていた林は、なんと敷地内だった。  どれだけ広い庭なのかと呆れてしまう。    グレンと一緒に散歩していたが、使用人と思しき人に呼び止められ、二人が話しを始めた。    海人はひとりで周ることグレンに伝えると、門の外には出ないように注意を受けた。  返事をし、広大な敷地を気ままに歩く。  門へと続くと思われる整備された道を進む。  木立を抜けると屋敷と外を隔てる門にたどり着いた。  この先には街があるらしい。にぎやかで活気のある街だとグレンが言っていた。  中世を想起させる屋敷。そして魔法があり、魔獣がいる世界。  開門しているので、自由に門外に行くこともできるが、海人は言いつけを守った。    この世界にやって来て、まだ二日目の海人に危険を冒すような度胸はなかった。  領主の館は小高い丘の上にあるようだ。    しばらく門のそばでなだらかな下り坂を眺めていたら、揺れる人影が見えた。  馬に人が乗っている。目を凝らすと、金色の髪が陽光を反射して光って見えた。  イリアスだということに気づく。    グレンがイリアスは騎士だと言っていたが、赤と白を基調にした制服に帯剣している。マントを羽織り馬に乗った姿は、想像の世界の騎士そのものの姿だった。 (すごいかっこいい……)  イリアスも海人に気づいていたようで、門を通って敷地に入ると馬から降りた。  深紅のマントが翻る。    見惚れながら、海人はたどたどしく声をかけた。 「あの、おかえり、なさい」 「ひとりか」  イリアスは馬の首筋を撫でてから、手綱を取った。  馬が、ブル、と鼻を鳴らした。 「グレンさんが向こうにいます。仕事の話してたんで、散歩してました」  言いながら、海人は馬を凝視した。焦げ茶色の優しそうな眼をした馬。  まじまじと馬を見つめている海人にイリアスが言った。 「馬が珍しいのか」  手綱を引き、屋敷に向かって歩き出す。 「はい。こんなに近くで見たのは初めてです」  乗馬などしたことはないし、動物園で見たこともない。傍で見ると思っていたより大きかった。  馬を連れたイリアスに海人もつぃて歩いていると、グレンと先ほどの使用人の男がこちらに気づいた。二人は軽く礼をした。 「おかえりなさいませ」  イリアスは手綱を使用人に渡すと、彼は馬を連れて屋敷の外れに向かった。  どうやら馬の世話人だったらしい。尻尾を揺らしながら去っていく馬を見て、海人は後で厩舎に行ってみようと思った。  その横でイリアスがグレンに変わったことはなかったか訊いた。  特にないようなことをグレンは答えていたが、 「イリアス様、カイト様は街に行ってみたいそうですよ」  急に自分の名前が出たので驚いた。 しかもグレンから街の話を聞いていたときに、ぽろっと言ったことを偉い人に伝えられてしまい、海人は慌てた。 「いや、あの! ちょっと思っただけで、別にすごく行きたいってわけじゃ……」  しどろもどろの海人にグレンはにっこり笑う。  昨日、もうひとりの異世界人、ここでいう『跳躍者』に会いたいとお願いしたばかりだ。  イリアスは了承してくれたが、あまりいい顔はしていなかった。  これ以上何かをお願いして心証を悪くしたくない。 (グレンさん、恨むよ……)  海人は下唇を巻いた。  しかしイリアスは顔色ひとつ変えずにうなずいた。 「わかった。明日、案内しよう」  言って、イリアスはマントを揺らしながら屋敷に入っていった。    そんなあっさり了承されるとは思っていなかったので、海人は呆気にとられた。    よかったですね、とグレンが言った。  内心複雑ではあったが、街を見たかったのは本当だ。  もしかしたらグレンは自分が言い出しにくいことを見越して言ってくれたのかもしれない。  グレンもイリアスの後を追うように、屋敷に戻っていった。    こうして海人の異世界生活二日目は何事もなく終わったのだった。

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