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 その後、生まれたてのサソリはワセリンを身体に塗りたくられ丁寧にガーゼによって覆われた。二時間程度時間をおいてからワセリンと血をぬるま湯で洗い流して患部に殺菌が入らないように――とまたクソ丁寧な説明を聞かされ、この後のケアについてを詳しく書かれた紙を渡された。  その紙を受け取るのと引き換えに俺はSHIKIにお代を渡す。結構高い買い物をしたが後悔なんて一切無い。それどころか、自分の身体の一部を愛することが出来るという初めての経験すら貰った気がした。  長く居座る理由もなく、何よりSHIKIが丁寧に頭を下げてくる物だから俺は「ありがとうございました」を告げて店から出て行った。静かな廊下を、時折振り返りながら歩いて行く。廊下を抜けた瞬間、大音量のEDMが耳を劈いてやっとふわふわしていた脚に芯が入ったような気がした。バーカウンターの方へ歩きながら自分の顔が緩みきっていることに気が付く。この顔をSHIKIに見られたのかと思うと恥ずかしいがやはり込み上げてきた嬉しさは治めようがなかった。 「だから言っただろう。あれは正真正銘本物のSHIKIだって」  カウンターに着くなり俺にどや顔で言い放つオーナーに少し苛立ちはしたが、頷くしかなかった。にやけ面のままウーロンハイを注文する。 「おいおい、入れた後は止めとけってその紙に書いてあるだろう?」  苦笑と共にウーロン茶が出され、俺もオーナーと同じように笑った。  しばらくクラブの音楽に合わせ身体をゆらしながらウーロン茶を飲んでいると、廊下の奥からSHIKIがゆっくりと身体を丸めながら現われた。スカジャンを着て、壁に背を預け棒立ちをして、俺がクラブに来たときと全く同じ挙動をしている彼は、依然誰も寄せ付けない雰囲気と共に無機物のように佇む。異質な彼に誰も興味を示す事は無く、寧ろそれが俺にとっては好都合だった。  店の外で、店主と客としてではなく一知り合いとしてSHIKIと話しをしてみたくなったのだ。SHIKI自身には興味など無かったはずなのに、俺はまだ憧れの人に墨を入れられたことに対して興奮を抑え切れていないようだ。気分が大きくなると人は突拍子のないことをしたがる。俺が先程なんとかSHIKIと会話を出来ていたのはSHIKIにとって俺が客であったからで、今から話しに行ったところで碌に会話など出来るはずがなく、最悪目さえ合わせてもらえないかも知れないのに、如何しても彫師ではなく一個人としてのSHIKIと話がしてみたくなった。  ウーロン茶をグッと飲み干し、席を立ち上ろうとした。瞬間、SHIKIの方へ一人の影が近づく。何かスポーツでもやっているのだろうか。やたら体格が良い男性だ。Tシャツのサイズを間違えているのかと心配になるくらい胸筋が張っている。SHIKIよりは小柄だが、それでも俺よりは身長があるし、そばを通っただけでびびって萎縮してしまいそうな発達具合だ。  しかし顔立ちは実に爽やかで、好青年といった印象である。体つきを見てびびった人も顔に目をやると一瞬で「あ、この人いい人だ」と勝手な好印象を抱いてしまうだろう。一言で言うと「モテるタイプ」だ。  そんな体育会系爽やか男子はSHIKIの隣へ寄り添うように近づくと、いきなり俯きがちなその顔を指先で撫で始めた。胸騒ぎがして彼等の方へ近づきかけたがSHIKIの方もなんの抵抗感もなく男の首元に顔を埋め、口元は少し笑っているようだった。  場所が場所だからか、人がやけに近くても身体を触り合っていても大した違和感や不快感はない。二人も場の雰囲気に溶け込むように顔を寄せ合って何やら話し始めた。  爆音のミュージックが全く頭に入ってこなくなる。呆然と見つめている俺に全然気付かない様子で、SHIKIは男に手を腰へと回されながら店がある廊下の方へと消えていった。  夢でも見ていたのだろうか。酷く甘い香に巻かれた気分に浸り俺はオーナーの方へと向き返った。 「今の……」 「あぁ、ハヤトか。SHIKIの恋人だよ」  SHIKIに恋人がいたのか。スカジャンを羽織ってしまえば唯の地味男くんな彼とは真逆なタイプの正統派イケメンだったな。格好も容姿も仕草も全てが「慣れている」様子だった。あれは、老若男女誑かしていても可笑しくはない。  どんな男なのだろうか、彼は。俺にとっては至極関係の無い事をやけに神妙に考えてしまう。  恐らく彼のファンとしてSHIKIが一人の人間と親しい仲で、その上恋仲であることに嫉妬しているのだろう。だがそれ以上に興味があったのだ。  SHIKIの恋人にはどんなタトゥーが入っているのだろうか、と。  ハヤトというキャンバスにはどんな絵が描かれているのかが死ぬほど気になった。  彼の体にはきっと、俺の「SHIKI作品集フォルダ」にもない作品が――。 「あ、」  ふと、俺は自分のズボンのポケットに余裕があることに気が付いた。いつもそこにギチギチになって入っているはずのスマートフォンがない。たぶん、SHIKIの店に忘れてきたのだろう。  俺は「SHIKIの店に忘れ物が、」といってカウンターから離れる。途中オーナーが何か言ったような気がしたが、立ち止まって振り返りでもしたら踊り狂う人々にぶつかってあっという間に床にへばりつくことになるだろう。何か伝えたいことがあるならば、スマートフォンを取りに行った後に聞けば良い。  SHIKIに案内された時のことを思い出して、廊下の奥へと進んでいく。「colore」と書かれたプレートの前に辿り着いた俺は勢いよくスライド式の扉を開け――ようとした。だが力を込めた腕に反して扉はピクリとも動かない。鍵がかかっている。  可笑しい。先程あの二人はこの廊下の方へと消えていったのだ。SHIKIの店に行ったのではなかったのか。このクラブに来るのは初めてだし、二人とは微塵も親しくないため二人が今どこにいるのかも解らない。この扉の奥にあるはずのスマートフォンをどうするか。  悩んでいたときにオーナーの顔が浮かんだ。このクラブのオーナーである彼なら、この部屋の鍵も持っているだろう。早速、バーカウンターの方へ戻ろうと俺はゆっくりと一歩を踏み出そうとする。  すると、廊下の奥の方から音が聞こえた。何かが軋むような音。視線を向けると廊下の突き当たり、左側に「colore」と同じようなスライド式の扉があった。  誰かいるのだろうか。もしかして、あの二人なのではないか。だとすればちょっと声をかけて店の扉を開けて貰おう。  俺はゆっくりと物音がした扉の方へと近づく。プレートも何もかかっていない部屋の扉をわずかに開けて覗いてみると、そこは物置か何かのようだった。雑多に積まれた段ボールに薄汚れた布を被せられた何か。  そして、部屋の中央奥側には――作業用なのだろうか。大きい木製の机が置いてあり、上には人が二人腰掛けていた。正しくいうならば、一人は机の上へ腰をかけ、もう一人はその上に馬乗りになっている。  二人が知らない人間であったならば俺は直ぐに扉を閉め「悪いものを見た」と悪態をつきながらオーナーの元へ走って行っていただろう。  だが俺はその場を離れられなかった。二人はまさに俺が今捜していた、SHIKIとハヤトだったのだ。あの似合っているとは言えないスカジャンも中に着ていたタンクトップもジーンズも脱ぎ捨て裸体を晒しているSHIKIの上に、まだ服を着たままのハヤトが跨がっていた。  店では一部しか見えなかったSHIKIのタトゥーは、その全貌を露わにし俺の網膜へと飛び込んでくる。脳裏に焼き付きそうなほど美しいそれはSHIKIの作品とはまた違った、けれどよく似ている感動を俺に注ぎ込んできた。  決して健康的とは言えない蒼白い肌に刻まれた黒一色の墨。艶めかしい動きと共に見えた背中には黒く柔らかな羽が生えていた。悪魔が持っているようなコウモリに似た羽ではなく、天使のようなふわふわとした羽だ。幼稚園のお遊戯会でした「醜いアヒルの子」に出てきた白鳥の羽を思い出す。  あれは黒い白鳥なのかも知れない。確か黒い白鳥が出てくる話があったような気がすると思い返していた俺は、ハヤトが自分の服に手をかけた瞬間、思わず固唾を呑んだ。  人の情事を覗いている後ろめたさも恥ずかしさもとっくのとうに消え失せていた。  俺は、全身を包む熱の温度を感じながらジッとハヤトの身体を見続ける。上着を脱ぎ、シャツに手をかけたハヤトを見つめる俺の頭は期待でいっぱいだった。  果たしてハヤトの身体に刻まれているのは鬼か蛇か。俺が掘ったのと同じサソリかも知れないし、SHIKIとお揃いの羽かも知れない。薔薇や百合が入っていてもこの男になら似合うだろうし、和彫だって十分に映えるはずだ。  顔立ちも体つきも俺に比べると遥かにいい。恋人として肉体へ抱く愛おしさも相乗されるのならば、きっとハヤトはSHIKIにとって最高のキャンバスのはずだ。  いったいどんな、どれほどの芸術が――。  シャツの下からハヤトの肉体が現われる。  ゆっくりと露わになった素肌。  俺の想像以上に筋肉がついたその身体には黒子一つ無かった。  真っ新な肌がそこにはあった。  腕や胸元ではなく、背中に彫ってあるのかと思ったが、水を浴びた犬のように震わせた身体を見るからに裏側にも何も彫られていないようだ。  ではどこにあるんだ。脚か。でも今し方ズボンは下ろされたが肉付きのいい脚にはやはり何も刻まれちゃいない。  ない。どこにもタトゥーなんて、なにも彫られていなかった。 「え、」  喉から絞められたような声が出る。瞬間鋭く二人分の視線が身体に刺さり、二人ともこちらを見てにたり、と笑った。  脱兎の如くとはまさに今の俺のためにある言葉だと痛感する。廊下からクラブまでの距離が妙に長く感じる。ガーゼの奥に彫られたサソリがじゅくじゅくと疼く。俺は頭の中でメリーゴーランドのように回り交互に現われる刺繍だらけのSHIKIと真っ新なハヤトの身体をどうにか掻き消そうと走り続けた。

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