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『俺達、もう大人だよなぁ』  さっき、居酒屋で最後の1杯を飲み終えた後にサクがぽろりとこぼした言葉。  もう、22歳。  あと2か月もすれば、さっきまで一緒に飲んでた奴ら全員、社会人だ。  あの時は、17歳だった。  僕は浅陽のことがずっと好きで、いつも彼の姿を目で追っていた。  体育祭の合同練習で僕が貧血で倒れて保健室で寝ている時、なぜか隣のクラスの浅陽が様子を見に来てくれて、「顔色が悪い」と言いながら熱を測るように額に手を置いてくれた。その彼に向かって一生分の勇気をふるい「手を握ってくれ」とすがるように言った。漂白剤の匂いがする薄い掛け布団に半分顔を隠し、寝ぼけたフリをした僕の傍らにパイプいすを広げて座った浅陽は、何も言わずに僕の右手を取った。浅陽の手の下で自分の手が震えるのがわかった。 「手……。気持ち悪く、ないのか」  自分から握ってくれと言っておきながら、とも思ったけれど、確かめたかった。  浅陽は「お前が頼んだんだろ」と笑いながら「誰にでもするわけじゃないから」と、そっと僕の手を持ち上げ左手も重ねてくれた。  僕は、鼻の奥がツンと痛くなるあの感じを覚えながら、そこからじわっと涙が沁みだしてきそうになるのを必死で、本当に必死で抑えた。これ以上カッコ悪いところを見せたくなかったから。  それが17歳の秋で、あれからもうすぐ5年。  今でも覚えている。  高3になる前の春休み、僕はこのまま浅陽と一緒にいられるなら、大人になんかなりたくないと思っていた。目の前にいるのは自分と同じ男で、そいつが好きでしょうがなかった自分に明るい未来が待っているなんて思えなかった。それでもいいと頭では理解しているつもりで、でもそれはちょっと風が吹いたら翻ってしまう程度の理解でしかなくて、大人になるってことは自分の中にあるそのささやかな幸福への願望を否定され、もっと違う形の未来を突きつけられることなんだと思っていた。  だから、そんなものよりも目の前にいる浅陽と一緒にいられる今があればいいと思っていた。 「僕達、大人になったのかな」  何事もなかったように隣を歩く浅陽に投げかけると、一瞬の間があって、 「え?あぁ……、さっきサクが言ってたこと?」  うん、とうつむいた僕の頭の上でアハハと笑う声がした。 「あいつの口癖だよ。成人式の時も、『俺たちもうハタチになったんだな。大人だよな』って。その前だって、学食で昼メシ食いながら『19歳なんつったら10代最後だよ?もう俺達は大人だ……』ってやたら言っててさ。説得力のかけらもないどころか、最近じゃあ呑み会の締めのひと言みたいになってんの。智慎がこっちにいない間、ずっとそんな感じだった」  そう言ってまた、あははと笑った。  なんだ。そうなのか。でも…… 「けど、思えばその頃からサクは今の彼女と付き合ってたから、結婚を考え始めてたのかもね。俺はよくわかんないなぁ。30歳ぐらいにならなきゃ大人じゃない気もするし、30歳になったらなったで、まだ青いなぁとか思ってそう。そうやってのらりくらりしてたりして」  僕は浅陽の言葉に声を出さずに頷いていた。  たださ、と浅陽は言い、びっくりするような言葉をついだ。 「俺達は結婚しないの?」  靴の先で小石を蹴飛ばし、両手を頭の後ろで組んだ浅陽が、星のちらばった空を眺めるように少しだけ顔を上向けている。その姿勢のままもう一度言った。 「いろいろ考えたんだ。考えたし、調べてみた」  僕は「えっ?」と口にするのが精いっぱい。 「親とか親戚に話したってそう簡単に通じる話じゃないし、サク達だってそう。それに、俺達の住んでる国はまだ法的に結婚は認められないけどさ、周りを説得して回るのにも相当時間がかかるだろうし、そうやって1つ1つクリアしている間に、俺達に都合のいい制度ができちゃったりすることがないとも限らないなーって」  ……。 「それに俺たち、別に焦んなくてもいいんだし。お前もこっちに帰ってくるし」  だから、と言って浅陽は僕に向き直り、まっすぐに言葉を放った。 「俺たち、いずれ結婚しよう。智慎」  ……………………。  僕は、すぐに言葉が出てこなかった。別に混乱していたわけでも、感動したわけでもない。ただ、浅陽がそんなことを考えていたなんて思いもよらなくて、声すら出なかった。  その気になれば、明日にでも僕らの結婚が成立する国はある。けど、そのために海外に行こうなんて思わない。他人が認めない関係を続けたくないと思ったことはないし、誰が認めるとか認めないとか、そんなこと自体が僕達には無関係だと思っていた。だけど、それは僕自身の諦めと背中合わせの強がりでしかないこともわかっていたし、無関係だと自分に言い聞かせることで納得したような気持ちになっていることもわかっていた。  だから、僕には浅陽のためらいのない言葉が眩しかった。 「あ……」 「俺さ」  同じタイミングで口を開いてしまい、浅陽に先を譲ると、彼は一度足元に視線を落としてから僕の方を向き、 「俺、たぶんこの先お前以外の奴を好きになることはないから」  頭のてっぺんから足の先まで電気が走るような感覚――ってこういうことを言うんだろう。  地元を離れている4年間、親の顔も友達も思い出すことなんてなかったけど、浅陽のことはいつも考えていた。  狭いベッドで何度も「浅陽が好きだ」と言った。  いつからそんなことを言うようになったんだろ。恥ずかしげもなく。  違う。  最初に言ったのはあいつだ。「好きだよ、智慎」って。  思い出した。僕のアパートで、夏休みに入って最初の週末。  狭い部屋にエアコンが効き過ぎていて、でもその時の僕らにはちょうど良かった。  汗をかいた浅陽の背中に腕を回して、背骨のあたりを何度も指でたどった。  浅陽が、好きだよ。たぶん、ていうか絶対、これから先もずっと。  浅陽が帰った後、1人の部屋で何度も彼を想った。  浅陽がくれた言葉に、いつかのように涙がこみ上げてくるのを必死になって堪えていた。でも今回はダメだった。あの頃より年を取ったからだろうか。  公園の脇の、1つだけついていた街灯に照らされた僕の頬を幾筋もの涙が伝っていることに浅陽は気づいていた。ハンカチすら出さず、手の甲で頬をぬぐう僕を見て浅陽は何も言わずに唇の両端をふわっと緩め、やんわりと両手を広げてみせた。 「トモ、おいで」  アサヒが僕を呼ぶ。  あの頃と同じ呼び方で、あの頃よりも少しだけ大人になった声で。  あともう少しで、彼の住むマンションと僕の実家に向かう分かれ道に差しかかる。 高校時代、学校の帰りに「じゃあまた」「明日な」と言って別々に歩いて帰った道の手前で、僕は今、大好きな男の腕に包まれている。 「俺さ、あれがいちばんいやだった。入院した時とかに、もし智慎が駆けつけてくれても『ご家族の方ですか?』って聞かれて『いいえ』なんて言ったら面会できないでしょ?でもさ、命に関わるような事態になった時、誰に逢いたいかって考えたら親じゃなくて智慎に決まってるじゃん。悪いけど」 「それで、結婚?」 「それも、ある」  浅陽らしい言い方がおかしくて、僕は声を出さずに少しだけ笑った。  わかった。  それ以外の理由は、これから教えてもらうことにする。僕達には焦る理由なんてなくて、これからずっと一緒にいられるんだから。

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