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 小学六年生の芝山(しばやま)沙月(さつき)は、学校帰りに立ち寄った神社の境内へと上がる石段に腰掛けたまま、西に傾き始めた太陽をぼんやりと眺めていた。参道に沿って並ぶ生い茂った杉の木が、日中でも日差しを遮っているせいで、尻を下ろした石段はひやりと冷たい。  小さい頃から見て来た景色が毎日少しずつ変わっていく様は、まるで間違い探しでもしているようだ。以前は広大な田畑が広がっていたが、住宅分譲地として造成されている。その場所を見下ろす高台にこの稲荷神社がある。御狐様(おきつねさま)を祀ったこの神社は、古くから町の鎮守として親しまれ、時代と共に変わっていく町の姿を見守っている。そして、沙月が日常を忘れ、唯一気を休めることが出来る場所となっていた。  沙月の家――芝山家は、この辺りでは名の知れた名家であり、古くから集落を統治していた貴族の末裔だ。そういった歴史ある旧家には必ずと言っていいほど『ならわし』や『仕来たり』などというものがついて回る。沙月の家も類に違わず、先祖代々続いている『ならわし』があった。  まだ十二歳の彼には、その内容を完全に理解することは出来なかったが、沙月の兄に対する、両親の並々ならぬ厳しさと愛情を見ていれば、自分の家が普通でないことは一目瞭然だった。  沙月の五歳上の兄、(いずみ)は小さい頃から頭の回転がはやく、要領も良かった。芝山家の長男として生まれた彼は、両親をはじめ親戚からも可愛がられ、学校での成績は常にトップで運動神経も良く、その容姿は誰もが羨むほど愛らしかった。幼いながらも完成された顔立ちは、端正と美しさを併せ持ち、こげ茶色の髪はふわりと柔らかい。しかし、意志の強そうな黒い瞳は時に、冷たく人を見下す事があった。  武道も嗜み、料理も割烹料亭の料理人が舌を巻くほどの腕前を持っている。すべてにおいて完璧を目指す厳格な父親の教育は、妥協を許さなかった。  その一方で、弟である沙月はまったくと言っていいほど相手にはされなかった。普段から父親との会話はなく、思い出せる会話と言えば、泉の罪を被って怒られた時ぐらいだろうか。母親はそんな沙月を庇ってはくれたが、家長として権力を振りかざす父親の前では何も言うことが出来ず、ただ唇を噛んで黙ったまま、泣き続ける沙月を見つめていただけだった。  家にいる使用人も、父親と泉には媚びへつらい、隙あらばその懐に潜り込もうと躍起になっていた。  名家と言われ続けて来た芝山家の後継者は泉だ。彼のもとにしがみ付いていれば食い扶持には困らない。ただし、彼の機嫌を損ねるようなことがなければ――の話だ。  そこに生を受け、育ってきたはずの芝山家には、沙月の居場所はどこにもなかった。学校でいくら勉強を頑張っても、仲の良い友達が出来たとしても、そのことを聞いてくれる者は誰もいなかった。 (家には帰りたくない……)  そう思い始めたのがいつのことだったのかも思い出せないほど、毎日のようにこの場所に来ては暗くなるまでぼんやりとして過ごす。そして、学校から出された宿題をここで終わらせていくことが常だった。  たとえ暗くなってから帰宅しても、誰も咎める者はいない。まして心配する者もいない。家に帰れば薄暗いダイニングに用意された冷めた夕食だけが沙月を迎えてくれるだけだ。  なぜこれほどまでに沙月が虐げられているか。それは芝山家に伝わる『ならわし』にあった。  代々、芝山家の長男として生まれてきた者は『花嫁候補』になる。男であるのに花嫁とはおかしいと思うのが普通だ。だが、芝山家をはじめとする選ばれた家――俗に贄家(にえけ)と呼ばれる貴族の末裔であればごく当たり前のことなのだ。  まだ鍬や鎌を振り、農耕民族として生活していた時代。ここ日本に古くから住まう魔物から生活を守るために、人々は『生贄』を差し出していた。天変地異や飢餓、水害や日照りなどの災いはすべて魔物の成すことだとされ、その怒りや欲求を鎮めるために行われていた神事だ。  しかし、時代が変わるにつれ魔物は『生贄』ではなく、生涯を添い遂げる『花嫁』を求めるようになった。贄家が絶えない限り、魔物の反乱や暴走を鎮め、人間社会を平和に維持していくことが出来ると信じられている、古くからこの地域に根付く風習だ。  言い方を変えれば、その家の財産や地位を受け継ぐであろう者を捧げる――いわば賄賂のようなものだ。『花嫁』という古風で清楚な響きの裏で、金品の授受が成されるのと変わらない。  地域信仰とは一種の集団暗示のようなもので、魔物が求めるものを差し出せば平穏でいられるという考えが当たり前のように伝えられている。  しかし、贄家に生まれた長男のすべてが、その『花嫁』になるとは限らない。その時々で指名される家は異なっている。一族の近親婚を避けるためだとか、その血統を絶やさないためだとか、諸説言い伝えられているが真意は誰にも分からない。それが明確になるのは、十五歳以上の嫡男がいる家に『花嫁候補』として選ばれた旨の書状が届けられた時だ。  原則として拒否権は与えられない。だが、どの家も丹精込めて育て上げた息子を花嫁として迎えられることで、その家の格式は間違いなく上がり、土地の有力者として知名度も上がる。もちろん、この風習が表には出ることはないが、政治や経済の世界でもその力は如何なく発揮されている。  我が子を犠牲にしても富や名声を手に入れたいと思うのは、人間であれば誰しもが思うことで、いわば親同士が決める政略結婚となんら変わりはない。  そのことを初めて沙月が耳にしたのは二年前の夜だった。泉と父親が奥の座敷で話しているのを偶然聞いてしまったのだ。そう――泉が十五歳の誕生日を迎えたその日に書状は届けられた。  その時は、芝山家を含む四つの贄家が候補としてあげられた。その名誉の指名に浮足立った父親は、それからさらに泉への尽力を惜しまなかった。泉もまた、父の期待に応えるべく嫌な顔一つ見せずに毎日を過ごしている。魔物の花嫁になれば生涯苦労なく、金銭にも困ることはない。それと同時に、絶対的な地位と名声が約束される。  この世界に存在する誰もを傅かせる力――魔力を手に入れることが出来るのだ。普通に生活している人間には絶対に手に入らない力が自分のものになると思えば、多少難儀なことでも乗り越えられるのだろう。  欲しいものは必ず手に入れる――。泉の性格はそう形成されていったのだ。  沙月はそんな兄の姿を見て育ってきたが、恨めしく思うことは一度もなかった。むしろ、自由を奪われ、自分の思い通りの人生を歩むことの出来ない彼を不憫に思っていた。  最初の頃は自分の存在を認めてくれない泉にも両親にも腹が立ったが、自分は何も出来ないと悟った時、その抵抗はなくなった。芝山家にとって不要な存在――そう認識した時から、日々の生活が色のないものへと変わっていった。  陽が傾き、薄暗くなり始めた境内ではカラスの声が響いていた。鬱蒼と茂る木々がわずかにそよぐ風にざわざわと音を立てて揺れている。  泉からのお下がりで貰った傷だらけのランドセルを開ける。そこから取り出した宿題ノートに、授業でやった復習事項を鉛筆で書きこみながら、ただ家に帰るタイミングを見計らっていた。鉛筆を指先でクルクルと回しながら問題を解いていたその時、ふと今までにない冷たい風が沙月の頬をするりと撫でた。  その冷たさにゾクッと背筋を震わせながら恐る恐る振り返り、仄暗い階段の上を見上げる。  日の暮れかけたこの時間、誰もこの神社には寄り付かない。人の気配すら感じないその場所に目を凝らすと、自分が座る石段の数段上に長身の青年が立っていることに気づいた。  少し長めの黒い前髪を揺らしながら、自分を見下ろす姿はまるで大きなカラスに睨まれているようで小さく身を震わせた。黒いスーツを着ていたせいもあるが、何より彼の感情の読み取れない冷たい瞳がそう思わせた。 「――こんな所で何をしている?」  低く鋭い声が自分に向けられて発せられたことに気づき、怒られたのかと沙月は小さく震えながら全身を強張らせた。誰もいないと思っていたところに突如として現れた彼に対して、恐怖心を抱かないといえば嘘になる。沙月は緊張で渇いた唇を微かに震わせながら、張りついた喉に何度も唾を流し込んでやっと声を出すことが出来た。 「宿題を……してた」 「こんな場所で……か?」  石段に散らばった細かな砂利を踏みながら靴音がゆっくりと自身のもとへと下りてくる。家族に蔑まれているとはいえ、見も知らない男に声をかけられて誘拐され、身代金を要求されたとなれば皆に迷惑をかけることになる。だが、おそらくではあるが自分が誘拐犯に殺されたとしても悲しむ者は誰もいない。それどころか『芝山家末代までの恥』と貶められるのは目に見えている。誘拐される恐怖よりも、父親や泉に罵られる方が怖かった。  沙月は開いていたノートを慌てて閉じると、ランドセルの中に押し込んだ。慌てていたせいで手にしていた鉛筆が落ち、石段を転がった。  それを青年の長い指先がそっと拾い上げ、困惑する沙月に差し出した。 「早く帰らないと親が心配するぞ?」  誘拐犯の常套句であるその言葉が、なぜか今の沙月には酷く優しく聞こえ、警戒をしつつもぎゅっと拳を握りしめて唇を噛んだ。  彼は、スーツが汚れることなどまったく気にもしない様子で、沙月の隣にゆっくりとした動作で腰掛けると、視線を合わせるように沙月を覗きこんだ。青年が身じろぐたびにふわりと香る甘い匂いに、沙月は強張っていた表情をほんの少しだけ緩めた。 「帰っても居場所はないんだ。僕、誰からも必要とされてないから……」  そう言って差し出された鉛筆を受け取る。小さい声で「ありがとう」と言うことだけは忘れなかった。 「どうしてだ?」 「僕は次男だから。長男のお兄ちゃんはすごく大切にされてる。家の『ならわし』なんだって。男だけど……花嫁になるために、父さんも母さんもお兄ちゃんを大事にしてる。だから、僕がいなくても誰も気にしないんだ」  諦めたように力なく微笑んだ沙月は、ランドセルの蓋を閉めながら言った。カチャカチャとマグネットのついたつまみを合わせようとするが、なかなか上手くいかない。 「――お前の名は?」  初対面の人物にいきなり名乗ることは憚れたが、沙月は戸惑いながらも自分の名を告げた。 「芝山沙月……」  この町の住人ならば芝山の姓を知らない者はいないだろう。それどころか、泉が『花嫁候補』になってからは方々に知れ渡っている。それ故に、父親からは「家名に恥じない行動を心掛けろ」ときつく言い渡されていた。  青年はすっと腕を伸ばすと、白く長い指先で沙月のぷっくりとした頬を撫でた。長い間外気に触れたひんやりとした指だった。しかし、それは思った以上に柔らかく、どこかホッとする感触に驚き、沙月はわずかに目を見開いた。心臓が一度だけ大きく跳ねた。それを落ち着かせようと、沙月はゆっくりと深呼吸をした。 「そうか、芝山家の……」  彼は沙月の頬を大きな手でそっと包み込むと、風が乱した栗色の細い髪を払いのけながら言った。 「――なぜだろうな。お前と逢うのは初めてなのに、俺の気をざわつかせる。こんな気持ちになったのは初めてだ」 「え? あの……僕もドキドキしてます。もしかしたら誘拐……されちゃうのかな、とか。でも、違いますよね? あの……変なこと聞いちゃいますけど、あなたも僕と一緒なんですか? 家に帰りたくないんですか?」  青年は、薄い唇に綺麗な弧を描きながら笑うと「そうだな」と短く答えた。  ゆっくりと離れていく彼の手に寂しさを感じて、沙月は追いかけるように身を乗り出して青年を覗き込んだ。 「お前とは少し状況は違うが、俺も面倒なことを抱えている」 「そうなの?」 「心から想ってもいない相手と、家の都合というだけで結婚させられる……。こんなことは自分を苦しめるだけだ」 「結婚? 好きじゃない人と結婚させられるの? 僕は絶対に嫌だなぁ。今は、誰も僕を相手にしてくれる人はいないけど、きっと僕を必要としてくれる人がいると信じてるから。その人が現れたら結婚したいな。夢のまた夢だけど……。ねぇ、そんな結婚なんかやめちゃえばいいじゃん!」  沙月は、いつもに比べ自身が饒舌になっていることに驚きを隠せなかった。誰かと話すことは嫌いではないが、学校以外で人と話すことはない。彼とは初対面であるにもかかわらず、仲の良い友達と話す感覚で自然と口が開く。  彼は、さっきとは打って変わった優しい表情で、沙月の言葉一言一句を聞き逃さないように耳を澄ましていた。こうやって自分の話を真剣に聞いてくれる人がいることが嬉しくて、沙月の心はいつになく躍っていた。まだ見ぬ未来の結婚相手のことを想像するだけでワクワクしてくる。こんな人がいい――という理想像はない。ただ、一緒にいて優しい気持ちになれる人が良いと切に思っていた。 「そうか……。やめちゃえばいいのか。簡単なことだな」 「うんっ。好きな人と一緒にいた方が絶対に楽しいよ!」  沙月は、心から楽しいと感じていた。家では、笑うことも無断で話し掛けることも禁じられている。家の外に出れば体面ばかりを気にする大人に囲まれ、ぎこちないニセモノの笑顔を作らなければならなかった。顔色を窺ってばかりの愛想笑いで引き攣った頬の緊張がゆっくりと解けていく。 「――お前は笑っていた方が可愛いな」  彼にそう言われるまで、自分が声をあげて笑っていたことに気づかなかった。ハッと息を呑み、照れたように口元を手で覆って俯いた沙月を見つめる彼はとても綺麗だった。  泉も、どちらかと言えば女性的な雰囲気を持っているが、沙月の目の前にいる青年は野性的で、しなやかな獣のような美しさを持っている。陶器のような白い肌に、日本人でありながら彫りが深くハッキリとした目鼻立ち。睫毛も長く、スッと通った高い鼻梁がより端正な顔立ちを引き立たせていた。  先ほどまで感情を窺い知ることが出来なかった二重瞼の奥の黒い瞳が、沙月の姿を鮮明に映している。 「――初めてだよ。そんなこと言われたの」  はにかみながらそう言った沙月に、彼もまた少し俯き加減のまま呟いた。その声音は柔らかく、沙月の耳にすんなりと入ってくる。 「俺も……こんなことを話したのは初めてだ。お前となら、楽しく生きられるかもしれないな」  不意に彼の両手が沙月の細い肩を優しく引き寄せた。青年の柔らかい黒髪が沙月の頬を擽り、どうしていいか分からずに、彼に体を預けることしか出来なかった。  彼は、沙月の小さな耳に唇を寄せると、掠れた低い声で囁いた。 「――俺のモノになるか? 沙月」 「え……?」  ざわりと全身が粟立ち、沙月は言われている意味が分からずに動きを止めた。、彼の指が、沙月のシャツの襟元を広げ、何かを確かめるように動いている。その感触に、沙月は無意識に息を止めていた。そんな沙月に気づきながらも、彼は襟の隙間から露わになった白い首筋に鼻を擦りつけるようにして息を吸い込んだ。 「贄家、芝山の血……。お前のは誰よりも甘く、まるで俺を誘っているようだな」 「なに……言ってるの?」  彼の息遣いが獣のそれに似ている。首筋にかかる息に、沙月は体の底から這いあがってくる得体の知れない感覚に恐怖を覚えた。 「お前がやめろと言うのなら、見知らぬ相手とは結婚しない。だが、その代わり……。お前を俺のモノとして縛り付ける」  彼の冷たい舌先が項を這うように動くと、沙月は目を大きく見開いたまま体を硬直させた。まるで別の生き物のような動きをする彼の舌を感じるだけで、全身の感覚が鋭くなっていくのが分かる。 「いや……っ。怖い……」  何度も小さく首を振ってみるが、しっかりと掴まれた肩は動かすことが出来ない。何とか彼の腕から逃れようと体を捩じってみるが、無駄な努力だと思い知らされる。 「飢えているわけでもない。それなのに、この香りに抗えない……。この俺を、ここまで欲情させるとはな……」  青年は自嘲気味に唇を歪めた。そして、沙月の背に両手を回すと、強く抱きしめるように指を食い込ませた。 「う……っ」  まるで獣に爪を立てられているような感触。背中に走った痛みに、沙月が小さく呻いた。彼の肩に顔を寄せた沙月は、青年の漆黒に近い黒髪が毛先から透き通った銀色に変わっていくのを目の当たりにし、自身が気を許して話していた相手が誘拐犯ではなく、まして人間でもないことに気づいた。  いつしか自分を取り囲んでいる、冷たく甘さを含んだ空気に全身が小刻みに震え出す。それまで鳴ることのなかった警笛が頭の中で鳴り響く。しかし、それを嘲笑うかのように彼の手が背中をなぞり、意識をあやふやなものに変えていく。そして、沙月の体は指一本動かせなくなっていた。 「あなたは……誰?」  強張る舌、喉を締めつけられる痛みに耐えながら、掠れた声で問うた沙月に、彼は顔を上げることなく言った。 「――十年後、お前を迎えに行く。その時、お前が俺の気持ちを受け入れてくれるならば花嫁として迎えよう」 「花……嫁?」  沙月の頭の中に即座に浮かんだのは『花嫁候補』に選ばれた泉のことだった。男でありながら輿入れする。その相手は災いをもたらすとされている魔物。  その強大な力を得ることで、絶対的な財力と地位、そして権力を手に入れることが出来る。自己犠牲からなる、まさに諸刃の剣。魔物に魅入られた者はその手から逃げ切ることは出来ない……。 「だが――拒絶するというのであれば呪縛の効力は消え、お前の命も尽きる」 「死ぬ……ってこと?」 「そうだ。人間(ひと)の心は移ろいやすい。今と変わらぬ純粋な心で俺を見てくれることを願っている」  コクリと唾を呑みこんだ沙月は、この青年に出逢ってしまったことを少しだけ後悔していた。しかし、 血の繋がった家族と一緒にいるよりも居心地がいいことは否めない。男同士で抱き合っていても、不思議と違和感も嫌悪感も感じない。でも――彼は、自分と同じ人間ではないと直感的に感じていた。恐怖と安心――紙一重の感覚に頭の中が混乱し始める。 「十年……。俺は、お前以外の者を抱くことはないと誓おう」  彼の冷たい唇が沙月の首筋に触れ、細い肩がビクッと大きく跳ねた。その瞬間、鋭い痛みを伴いながら硬質な突起が深く突き刺さった。 「痛ぃ……っ」  喉を震わせながら小さく声をあげた沙月に構うことなく、彼はグイグイと抉るように繋がりを深めていく。その刹那、、耳元で何かを啜りあげる音が聞こえた。  沙月はきつく両目を瞑ったままその痛みをやり過ごした。途切れ途切れでしか出来なかった呼吸が、ある時を境に急に楽になっていく。そして、痛みも次第に心地よいものへとすり替わっていった。疼くような甘い痺れが全身に広がり、今までに経験したことのないフワフワとした感覚が心地よい。力が入らず、まるで自分の体ではないように思えてくる。。彼に抱きしめられていなかったら、その場に崩れ落ちていただろう。  首筋を吸い上げる音が止んでもなお、沙月は呆然と焦点の定まらない視線を彷徨わせていた。硬いものが引き抜かれた瞬間、心の中にぽっかりと穴が開いたような気がした。熱を持った柔らかな舌が傷を癒すかのように動く。、彼がゆっくりと顔をあげた時、真っ赤に染まった唇の隙間から見えたのは長く鋭い牙だった。  沙月の血を滴らせた牙を舌先で掬うように舐めとる。感情のない冷酷な黒い瞳は、見ているだけでため息が零れそうなほど綺麗な金色へと変わり、虹彩は鮮やかな紫色に彩られていた。まるで宝石そのものを埋め込んだような彼の瞳を目の当たりにした沙月は、その妖艶な美しさに目が離せなくなった。先ほどから心臓が煩いほど高鳴っている。 「そうだ……。俺だけを見ていればいい」  血に濡れた唇を舐めながらそう言った彼の手が、ゆっくりと沙月の体から離れていく。解放された沙月は、ぼんやりとした視界がやけに暗いことに気がついた。視線を動かすと、周囲はすっかり闇に包まれていた。石段の下にある色褪せた朱色の鳥居を照らす電球が心もとなく瞬いている。参道に並ぶ杉の木がザワザワと音を立てて揺れた。  彼は、力なく座ったままの沙月の目の前に大きな手をかざすと、薄い唇を柔らかく綻ばせた。 「暫しの別れだ。愛しい婚約者(フィアンセ)……」  その途端、沙月の体が支えを失ったようにガクンと大きく揺れ、彼の手によって冷たい石段に横たえられた。乱れた柔らかな栗色の髪を撫でる手はどこまでも優しい。夢を見ているかのように穏やかな表情のまま意識を失った沙月の唇に、わずかに血の香りが残る唇が重ねられる。 「成立したな……」  青年はすっと立ち上がると、革靴の先で軽く地面を蹴りあげて風を纏いながら空中に舞い上がると、その場から音もなく姿を消した。  それを合図にするかのように、不意に風がやんだ。あとに残された沙月を包み込んでいたのは、重々しい闇と静寂だけだった。

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