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【1】

 先ほどから変わることなく一定のリズムを刻むコピー機の前で、沙月はぼんやりと立ちつくしていた。目の前の壁に貼られた『ミスコピーに注意』の張り紙をどれほどの時間眺めていただろう。  午前九時の始業チャイムが鳴ると同時に作業を始め、昼食を挟み、そして今は午後四時を回っている。三流商社の営業部で、こんなにも大量のコピーを必要とする書類があるのかと疑問に思う。なにより、それを溜め込んでいた庶務係には呆れるばかりだ。  株式会社W商事。総勢八十名ほどの商社だが、そのうち約二十名が在籍する営業部は社内でも花形部署だ。もちろん庶務係の女性はいるが、他の仕事が忙しく手が回らないからという理由で、こういった雑事を沙月に回してくる。大量のコピーを押し付けられた沙月を尻目に、彼女はつい先ほどイケメンと噂される企画部の社員とコーヒーカップを片手に休憩室へと歩いて行った。 (忙しいのに、お茶する時間はあるんだ……)  心の中で愚痴りながらも、頼まれると断れない性格でつい安請け合いしてしまい、後になって後悔することが何度もあった。  幼い頃から出来のいい兄と比較――いや、むしろ相手にされないほど放置され、自分なりに生きてきた。大学を出て、就職難の最中、藁をも掴む思いで内定をもらったこの会社も巷では『ブラック企業なのでは』と、実しやかに噂されている。事実、同期入社した数人は三ヶ月ともたずに退社しているし、何とか残っている者もいじめや嫌がらせなどの陰湿な行為に頭を悩ませている。ただ、その中でも顔やスタイルが良かったり、少々出来が悪くても父親が有名企業の上層部だったりする者は、会社側の対応も一八〇度変わってくる。  かく言う沙月の家も、古くから多くの著名人を輩出している名家として知られてはいるが、就職活動の際に、現当主である兄の泉に「お前に芝山家を名乗る権利はない」と口汚く罵られ、その名を振りかざすことさえ許されなかった。もしもあの時、芝山の名を出していれば、沙月の待遇は今よりも良くなっていたかもしれないと思うが、そこまでして自身を貶めてきた芝山家に媚びへつらう必要はない。  五年前に母親が、その後を追うように父親が他界し、貴族の流れを汲む芝山家を継いだのは、長男である泉だった。芝山家の財産・土地・権力を我が物にした泉は今、一流大学を出て有名企業に入社し、二十七歳という若さで営業部長を務めている。  だが、そんなことは沙月にとってどうでもいいことだった。血の繋がった弟であるにも関わらず、幼い頃から家族として認めて貰えなかった辛さは沙月にしか分からない。煩わしい家を出て、独り暮らしをして、誰にも干渉されることなく地味に生きていた方がよっぽど気が楽だ。  古くからの『仕来たり』を気にする泉の生き方にはついていけない。沙月がそう思う以前に、彼は弟の存在を疎ましく思っており、家を出てからというもの彼からの連絡は一度もない。沙月の方も特に話すこともなく、連絡を取ろうと思ったことはなかった。  ふと、コピー室の隅に置かれたキャビネットのガラス戸に映った自分を見つめ、沙月は大きなため息をついた。容姿端麗、文武両道、すべてにおいて完璧と言われる泉とはまるで比較にならない自分の姿に呆然とする。毎日見慣れているとはいえ、背中を丸め、野暮ったい黒縁眼鏡をかけた冴えない男の姿は、見ていて気分のいいものではない。  二十二歳とは思えないほど覇気がなく、すべてを悟ってしまったかのような暗い表情。そもそも、こうなってしまったのは芝山家の次男として生まれた自分のせいなのだ。生まれてくる子供は親を選べない。なぜ、二人目が男の子だと分かった時点で母親は堕胎することを考えなかったのだろう。そうすることが沙月にとって、何よりも幸せになれる方法だったのかもしれないのに……。  用紙切れを知らせるピーッという耳障りな甲高い警告音に、沙月はビクリと肩を震わせ我に返った。急いでコピー用紙をセットし直していると、同じ営業部の主任がコピー室を覗きこんで、さも大袈裟にため息をついて見せた。 「芝山……ここにいたのかよ。部長が探してたぞ」 「――はい。すみませんっ」  コピーの終わった書類の束を両手に抱えると、沙月は小走りで営業部のあるフロアへと向かった。入口近くにある庶務係の机の上に書類を置くと、軽く息を切らしながら窓際にある部長のデスクへと駆け寄った。 「すみません。お呼びですか?」  部長は、手にしていた書類からわずかに視線を上げ沙月を睨みつけると、あからさまに不機嫌な声で言った。 「お前、今まで何やってたんだよ?」 「何って……。書類のコピーを伊崎(いさき)さんに頼まれて――」 「お前の仕事じゃないだろう! この給料泥棒がっ」  沙月の言葉は最後まで聞いては貰えずに、一方的に頭ごなしに怒鳴られる。コピーを依頼した庶務係の伊崎は、自身のデスクに戻るなり見て見ぬふりを決め込み、呑気にコーヒーを飲んでいた。 「そんな暇があったら得意先の一つでも見つけてこい! まったく、使えないなぁ。お前見てるとイライラすんだよっ」  持っていた書類を投げ付けられ、床にハラハラと落ちる紙を見ながら、沙月は唇を噛んだまま何も言わなかった。理不尽な言いがかりは今日に始まったことではではない。今までに何度も経験している――いや、厳密に言えば幼い頃からそうだった。  自分は悪くない――そう伝えようとするだけで言い訳と解釈されて怒られる。そのおかげで、泉が犯した悪戯のすべては沙月の仕業になっていた。 「――はい。すみません」  書類を投げられた衝撃でずり落ちた眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、深く頭を下げる。その動き一つとっても部長には腹立たしく思えるようで、大きく舌打ちしながら席を立ち、その場を去っていった。 (いっそのこと、死んでしまった方が楽なのかもしれない……) 何度も浮かんでは消える負の思考に、ほとほと疲れ果てていた。必要とされない自分が消えたところで、誰も悲しむ者はいないだろう。助けてくれる人なんて誰もいない。幼い頃から強いられてきた孤独に慣れてしまった体は、誰かに縋ろうという気持ちさえ起こさせてはくれなかった。  マイナス思考がさらなるマイナスを引き寄せる。それは沙月自身が一番よく分かっていることだった。しかし、いざ死のうとしてもその勇気がない。あまりの不甲斐なさに、何も出来ない自分に腹を立てることさえも忘れてしまっている。  生まれて来なければ良かったと何度も思う。今までの人生、これからの未来に失望し、沙月は自分のデスクに戻ると、額をデスクマットに押し付けるようにして項垂れた。 *****  その日、沙月は残業することなく、終業のチャイムと共にタイムカードを押して会社を出た。デスクの上に積み重ねられた書類は嫌でも目に入る。しかし、それをこなすほどの体力も精神力も今の沙月には残ってはいなかった。しかし、このまま自宅アパートに帰ることも憚れた。帰宅したところで、現状が劇的に変わるわけではない。それに、独りになるとロクなことを考えないことは、自分が一番よく分かっている。  魂が抜け落ちたかのようにぼんやりと重い足取りで歩く。人通りの多い駅前通りに面したコーヒーショップの看板の前でふと足を止めた。店内から漂う香ばしい匂いに惹かれたわけでも、別段喉が渇いていたわけでもない。それでも、沙月は店の自動ドアの前に立っていた。。さほど飲みたくもなかったが、とりあえずアイスコーヒーを注文する。トレーを受け取ると、窓際のカウンター席に座った。  夕方ともあり、店内は学生や仕事帰りのOL・サラリーマンで混み始めていた。楽しげな話し声が溢れる店内。沙月は何となく居心地の悪さを感じていた。ストレートで口に含んだコーヒーの苦みに一瞬顔を顰めたが、しばらくするとその味さえも曖昧になっていく。会社での精神的ストレスは、沙月の味覚さえも麻痺させていた。 「もう……辞めようかなぁ」  何度も口にしかけて、それでも……と必死に我慢してきた言葉がついに堰を切った。一度出てしまうと、どうしてこんな簡単なことを我慢してきたのだろうと思う。あの会社にいて、沙月が守るものなど何もない。まして自身の存在意義まで危うくなっている。もう、未来は見いだせない。何より、自分の精神がこれ以上耐えられる気がしなかった。 (壊れてしまう前に何とかしなければ……)  絶望の淵に立たされ、少しでも気を抜いたら今にでもダイブしてしまいそうな自分を何とか静めようと、上着のポケットからスマートフォンを取り出し、迷うことなく求人サイトにアクセスすると、指先でスクロールを繰り返した。いくつも表示される採用条件に見入っていた沙月は、すぐそばにある気配にまったく気づいていなかった。 「――あの。隣、いいですか?」  不意に背後から声を掛けられ焦ったように振り返ると、そこには『エリート』という呼ぶにふさわしい長身の男性が立っていた。  一目で仕立てのいい物だと分かるスーツは、長身で無駄のない体にぴったりとフィットし、ネクタイもスーツのカラーに合わせた柄物でセンスがいい。それに、手にしているブリーフケースもまた一流ブランド物だ。  沙月は、素早く周囲を見回して他に空席がなかったのかと確認してみるが、混み合って来た店内には見つけることが出来なかった。すぐそばに誰かがいるというのは落ち着かない。それが見も知らぬ赤の他人であれば尚更だ。沙月は彼に気づかれないように小さく吐息すると、小さな声で応えた。 「はい、どうぞ。すみません……」  最初からそこにいた沙月が恐縮するのはおかしなことだったが、隣のスツールに置いてあった自分の荷物を膝に移動させると。すぐさまスマートフォンの画面に視線を戻した。  彼は「ありがとう」と短く言ったあとで、片手に持っていたトレーを置き、長い脚を無駄なく運んでスツールに腰掛けると、ブリーフケースからタブレットを取り出した。慣れた手つきで起動させ、画面をスクロールし始める。液晶画面の上を滑るように動く彼の長い指先。チラリと視線を向けた沙月だったが、まるで何かに吸い寄せられるように見つめてしまう。その視線に気づいたのか、彼は沙月の方に顔を向けて怪訝そうに問うた。 「――何か?」 「あ、いえ……。すみません」  気恥ずかしさにすぐ視線を逸らし、慌てて手元のスマートフォンに目を向けた。  彼が身じろぐたびに甘いコロンの香りがふわりと漂い、ずっと気になっている。沙月は香水の匂いがあまり得意ではない。香りの程度にもよるが、長い時間嗅いでいると気分が悪くなる。でも、彼の香りは心地よく、そばにいても嫌悪感はまったく感じない。  再び彼を盗み見る。見れば見るほど、不思議と目が離せなくなってくる。緩くウェーブのかかった黒い髪は襟足を少しだけ残しているが野暮ったい印象はまったくない。くっきり二重の奥にある瞳は一見穏やかそうにに見えるが、他者を寄せ付けない強い光を宿している。そこから、彼の感情を安易に読み取ることは出来ない。そして、何よりも沙月の目を釘付けにさせたのは端正な顔立ちだった。綺麗に整えられた眉、高い鼻梁、前髪の間から見える利発そうな額。タブレットを見ながら引き結ばれた薄い唇からは知性さえ感じる。  同性である沙月が見ても見惚れてしまうほどの容姿は、恐らく女性には一生困らないだろうと思える。身長も一八〇センチ以上はあるだろうか。スーツを着ていても分かる引き締まった体躯は、小柄で華奢な自分とは比べ物にならない。  営業という職業柄いろんなタイプの人を見てきたが、これほどまでに心臓が早鐘を打つ男性を見たことがなかった。さりげなく胸元をぐっと手で押えこみ、緊張で渇いた喉にコーヒーを流し込んだ。  沙月の不躾ともいえる視線に気がついたのか、彼はタブレットから顔をあげると体の向きを沙月の方に向けた。 「――あの。少しお話をさせていただいても?」 「え……?」  これは絶対に怒られる――そう思い、沙月は全身にギュッと力を入れた。しかし、彼の苦情はなかなか降って来ない。恐る恐る視線を上げて上目使いで彼を見た沙月は、真っ直ぐに自身を見つめている彼の姿に小さく息を呑んだ。彼は何も言うことなく沙月の返事を待っていたのだ。 「――はい」  沙月の小さな返事にホッと安堵の表情を見せた彼は、口元を綻ばせて言った。 「すみません、突然。何かの勧誘じゃないかって思いますよね? 警戒されるのも分かります」  怒られることを覚悟し、緊張で引き攣った沙月の顔を見て彼はそう解釈したようだ。見ていたことを咎められずに済んだことには安堵したが、本当は同性である彼にときめいていたなんて口が裂けても言えない。  彼は上着の胸元から名刺入れを取り出すと、慣れた手つきで名刺を差し出した。その動き一つをとっても無駄がなく実にスマートだ。  沙月は訝しげな視線を向けたままそれを受け取って、上質紙に印刷された文字を目で追った。 「Iコーポレーション――企業コンサルタント? 自己啓発チームリーダー、一条(いちじょう)真琴(まこと)……さん?」  初めて聞く社名と肩書きに困惑し、首をわずかに傾けた。大学時代の友人が、こういった企業に就職したと聞いてはいたが、三流――いや、それ以下のブラック商社に勤める沙月には縁のない会社だった。  しばらく名刺を眺めていた沙月だったが、自分の挨拶がまだであることに気づき、慌ててポケットを探り名刺を差し出した。 「W商事営業部の芝山です」  長い指先で丁寧にそれを受け取った彼は、本革の名刺入れの上に乗せてカウンターに置いた。その洗練された動きから、多数の顧客を持つであろうやり手であると分かる。 「先ほどから何か悩んでいるご様子でしたので、ご相談に乗ることが出来ればと思ったんです。仕事柄、あなたのような方々を何人も見てきていますから、放っておけなくて……。もっとも、プライベートなことで、話したくないというのでしたら詮索はしませんが」  柔らかな声音で話す一条の声は低く、甘さを含んでいる。営業マンとして相手に警戒心を与えない話術は必須だが、彼の声を聞いているだけで不思議と委ねてしまいそうになる自分がいる。しかし沙月は、自身が抱えている問題は初対面の相手に話すことではないと、少し強気な姿勢を見せた。 「――私は、三流商社のしがない営業マンです。一流企業を相手にする企業コンサルタントのあなたにお話しするようなことは何もありません」 「いえ……。ビジネスの話をしようというんじゃないんですよ。ただ、あなたが思いつめた顔をして……放っておいたら自殺でもしかねないって心配になったものですから。――あ、すみません。余計なお世話ですよね? 初対面の……しかも見ず知らずの男に身の内話なんて出来るわけがありませんものね。本当にすみません。ビジネスでもそうなんですが、あなたのような方をどうも放っておけなくて……。普段から気をつけるようにしているんですが……お恥ずかしい限りです。顧客の情に流されて、的確な判断が出来なければコンサルタント業務なんて務まらないですよね?」  バツが悪そうに苦笑いを浮かべ、コーヒーを口元に運ぶ彼に見惚れている自分がいた。仕事にやりがいと自信を持って取り組んでいると分かる姿が、沙月には眩しく見えた。  自分は何をやっているんだろう……と思う。仕事に対してヤル気もなければ、自信もプライドもない。ただ淡々と言われた仕事をこなし、日常を過ごしているだけ。強気な態度を見せた自分が恥ずかしくなってくる。 「――羨ましいです。自分のことでもいっぱいなのに、他人に気を配れるって。気持ちに余裕がなければ絶対に出来ないことですよ。自分のこともきちんと考えられなくて、ただ流れにだけに身を任せている俺とは全然違う」  沙月は、バックライトが消えたスマートフォンの画面を見つめながら深いため息をついた。今の会社から逃げたいという一心で求人サイトを見ていたが、そこに自分の求めている物があるとは思えなかった。場当たり的な選択をして上手くいったことなど一つもない。そもそも、自分のやりたいことが何なのか分からない。俯くたびに少し伸びてきた前髪が落ち、余計に野暮ったい印象を与える。 「あなたは、今の生活に満足なさっていないようですね? あまり理詰めで物事を考えるのは良くない」  低く優しい声色は初対面であるにもかかわらず、荒んだ沙月の心をゆっくりと解いていく。 「それに……。よく見るとあなたは可愛い顔をしてる。そんなに自分を隠すようなアイテムは必要ないんじゃないですか? なぜ自分を偽ろうとするんです?」  他人からの視界を遮るための前髪、別段視力が悪いわけでもなく使用している太い黒縁の眼鏡。そして、自信のなさを強調する猫背や皺だらけのスーツ。  幼い頃から家族に自分の存在を主張することなく、皆から注目される泉を見ながら生きてきた成れの果ての姿だ。才色兼備の彼と比べれば劣っていることは分かっている。その証拠に、この歳になっても女性との付き合いもなく経験もない。  だが、そういう欲求が皆無というわけではない。彼女を作ろうと思うと必ずトラブルに見舞われ、行きずりで運よく体の関係に発展したとしても体はまったく反応してくれない。そういう時には必ずと言っていいほど『別のモノ』を求めている。しかし、それが何なのかというのは分からない。ただ漠然と……どうしようもなく目の前の女性よりも『別のモノ』が欲しくて堪らないのだ。 「――こんなことを聞くのは失礼かと思いますが。彼女とか……いないんですか?」  まるで沙月の考えていることを見透かすような彼の質問に息を呑む。どう答えようかと悩んでいると、、自身の問いかけが間違っていたかのような慌てぶりで、一条は頭を下げて謝罪した。 「あ、すみませんっ」  エリート然として沙月を見下すこともなく、何とかして寄り添おうとする彼の必死さが伝わってくる。そんな彼に親近感を覚えた沙月は、少しだけ肩の力を抜いてみることにした。 「いえ、大丈夫です。彼女はいません。作る予定もないし……。あのっ。初対面の一条さんにこんな話をしていいのかって思うんですが。俺、会社を辞めようか悩んでいるんですよ」 「辞める? 何かあったんですか?」  興味深げに身を乗り出した一条に、沙月は入社してからつい数時間前までのことを全部ぶちまけた。誰かに聞いてほしい。でも話す相手はいない。今まで抑え込んできたものが堰を切ったように一気に溢れ出し、気がつけばもう止めることが出来なくなっていた。  ガラス越しに見えるのは、すっかり暗くなった駅前通りに瞬くネオンと車列のブレーキランプ。帰宅ラッシュ時間帯ともあり、道路は信号が変わるたびに渋滞を繰り返している。飲みかけのアイスコーヒーの氷はすっかり溶け、薄くなったコーヒーが手もつけられないままカウンターに置かれていた。  一条はただ黙って、沙月の話を聞いていた。その表情はどこまでも真剣で、集中力が途切れることがなかった。時折、苦しそうに眉根を寄せたのは沙月への同情からだろう。  どのくらいの時間が経ったのか定かではなかった。沙月はすべてを話し終え、大きなため息と共に全身の力を抜いた。渇いた喉を潤そうとアイスコーヒーのグラスに口をつけるが、解けた氷が上澄みのようになっており、お世辞でも美味しいとは言えなくなっていた。 「新しいコーヒーを買ってきます」  有無を言わせない勢いと、無駄のない動きでサービスカウンターへ向かう一条の背中を見ながら、沙月は乱れた栗色の髪をかきあげた。生まれつき色素が薄いせいで、染めてもいないのに茶色い髪もまた、沙月にとっては攻撃対象の一つでしかなかった。俯いたままの沙月に、一条のさりげない「大丈夫ですか?」という問いかけが嬉しかった。  アイスコーヒーのグラスが載ったトレーを差し出され、沙月は素直に礼を言った。そして、再び隣のスツールに腰掛ける彼を見るともなしに見つめた。 「すみません……。愚痴、聞いてもらったみたいで」 「いいんですよ。それであなたが少しでも楽になれば……。それにしても酷い会社ですね。おそらく噂になっているほどの企業であれば、当社のブラックリストに登録されているはずですから調べてみますよ。あなたの精神的な苦痛を考えれば、早めに動いた方がいいかもしれない。その会社に未練があるのならば話は別ですが……」 「ありませんよっ」  吐き捨てるように即答した沙月は、新しいアイスコーヒーを口に運んだ。同じ物であるはずなのに、先ほどよりも苦みが和らいでいる。やはり、気の持ち方によって味覚も変わってくるのだろうか。現に、腹の底に澱のように堆積していたものが、少し軽くなったような気がした。乾いた喉を潤し、グラスを置いた沙月に、一条は不意に切り出した。 「――あの。ひとつ相談があるんですが」  何を思い立ったのか、沙月を覗き込むようにして身を乗り出した一条は、片方の眉をわずかにあげてみせた。その瞬間、ふわりと甘い香りが沙月の鼻孔をくすぐった。 「うちの会社に、来ませんか?」 「えぇっ?――そ、そんなの無理ですよ。一流企業を相手にするスキルもないし」 「これから身につければいいじゃないですか。私の部署であれば、余計な気を使う必要はないですし。チームと言っても三名ほどの部署で、正直なところ人手不足なんです」  突拍子もない一条の提案に、沙月は困惑の色を隠せなかった。企業コンサルタントといえば、クライアントの経営戦略における問題の発見や提起、それに対する対策などを総合的にアドバイスする会社だ。相手が企業だけに、それに伴う情報収集や分析、セミナーなどの開催も重要視される。三流商社の営業経験しかない沙月にそんな高度な業務がこなせるかといえば、ほぼ不可能に近い。 「そんな勝手なこと……。いくらあなたでも、採用云々の決定権なんてないでしょう? 人事担当者じゃあるまいし」 「うちの会社は社員各個人の発掘力を重視しているんです。だから社員のほとんどは誰かの紹介であったりとか、あぁ……居酒屋で相席になって声を掛けたという者もいますね。自分の目で相手を見極める力を試してるんです。今のところハズレだったことはないですね。先入観にとらわれることなく、企業の本質を探るトレーニングに繋がる――って方針なんです」  これほどまでに社員の能力を信頼し、それを自社の力として発展させる企業があっただろうか。そういうことであれば、各個人の自信もおのずとついてくるだろうし、責任感も生まれる。紹介した人物が優秀な実績をあげれば、紹介者もまた必然的にモチベーションが上がる。その繰り返しが業績を確実に上向きにしていくのだろう。まるで理想的な企業だ。 「社員のポテンシャルを引き出して、それを最大限にする。私が見る限り、あなたも持っているはずなんですよ。自分で言うのもなんですが、この目に狂いはないと思いますよ。一流ばかり見ている者は他の世界を知らない。最悪の状況を知っている者なら、そこからの視点で見ることによってオールラウンドの世界が見えてくるんですよ。今のあなたならそれが可能だ」  まるで、多くの傘下企業を持つ敏腕経営者が口にするような言葉を、何の衒いもなくさらっと言ってのける一条。初対面の沙月に対して「狂いはない」と言い切れる彼の自信が、一体どこからきている物なのか知りたいと思った。例えばこれが、沙月を煽り、企業に引き入れるための巧妙な誘い文句だったとしても悪い気はしない。事実、一条の言葉に心を揺さぶられ、沙月はもうW商事を辞める気になっていたからだ。 「出来ることなら明日からでも来てもらいたいぐらいなんですが、今の会社との関係をクリーンにしてからで結構です。新人研修はだいたい一ヶ月ぐらいですが、その頃になれば皆一通りの業務はこなせるようになります。もちろん厳しい部分はありますが、そう構えることはないですよ」  まだ辞めるとは口に出していない。それなのに一条は、沙月の心を見透かすかのように話を進めていく。彼の中ではすでに、沙月が入社することになっているようだ。  捨てる神あれば拾う神あり。こんなにうまい話があるものだろうか。新手の詐欺という可能性もあるが、今の状況から逃げ出したいと願う沙月には、目の前に差し出された藁を掴むことしか出来なかった。 「俺でも、何とかなるんですか?」 「あなただから、何とかしたいんですよ。連絡を頂ければ、あなたとの約束は最優先します。私に全部任せてくれませんか?」  一条の指先が遠慮がちに沙月の手に触れ、そっと握りしめる。色白で、手入れの行き届いた手はやけに冷たかったが、その力強さに沙月は安心感を覚えた。 「本当に……信じていいんですか?」  まだ、完全に彼を信用したわけではない。それでも、縋ってみたいという気持ちの表れか――声が掠れる。沙月の気持ちを察してか、一条は彼の耳元に顔を近づけると、甘さを含んだ低い声で囁いた。 「――そうだ。俺だけを見ていればいい」  その瞬間、心臓がトクンと大きく跳ねた。体中の血がざわざわと巡り出すのを感じて、沙月は目を見開いたままブルッと小さく肩を震わせた。無意識に触れた首筋が熱を帯びている。ある一点から痺れるような疼きが広がり、見開いていた目をぎゅっと閉じた。 (この声、どこかで……)  思い出そうとして、こめかみに走ったツキンとした痛みに顔を顰める。 「どうかしましたか?」 「あ……いえ。なんでもないです」  沙月の反応に安堵し微笑んだ彼は、自分のグラスを載せたトレーを片手にスツールから立ちあがると声を弾ませた。 「では、いい返事をお待ちしていますよ。芝山さん……」  ブリーフケースを持ち、沙月に頭を下げた彼は、サービスカウンターの女性スタッフに「ごちそうさま」と柔らかく微笑んで店を出ていった。  人の往来をまるで気にしないフットワークで歩いていく彼の背中が人込みに消えていくまで、沙月は目を逸らすことが出来なかった。  何かが変わるかもしれない――そう予感させる一条との出会い。彼が纏っていた甘い香りが残るこの場所から動くことが出来ずにいた沙月は、アイスコーヒーを一気に飲み干した。

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