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【2】

 一ヶ月後――。沙月はW商事に退職届を提出した。  直属の上司である営業部長の反応は、沙月が予想していたとおりドライで、出したことを後悔することはなかった。  引き継がなければいけない大事な案件もなく、デスクの片付けと事務的な手続きが完了するまでにそう時間はかからなかった。月末だったこともあり、一秒でも早くここから去りたいという沙月の思いは有給消化も辞退させた。そして、その月の末日付で退職が確定した。  沙月が退職するまでの間、何度か一条と連絡を取り合った。そのたびに親身になって応えてくれる彼の優しさに、密かに不信感を抱いていたことを猛省した。  上司や同僚を恨むことはあっても、感謝することなど一つもない。沙月は形式だけの挨拶を済ませて会社を出ると、すぐに一条の携帯に電話をかけた。数回のコールのあと、じつに聞き取りやすい明瞭な声が沙月の鼓膜を震わせ、ほっと胸を撫で下ろした。 「芝山です。たった今、退社しました」 『気持ちは楽になりましたか?――これから会いませんか?』  一条の声は沙月にとって安息剤のような効果を発揮する。待ち合わせの場所と時間を決め、電話を切る。そう長い会話ではないはずなのに胸が高鳴り、なぜだか浮足立っていることに気づく。 (デートじゃあるまいし……)  そういった経験もないのに、イメージだけで酷似した感覚を味わっている自分がひどく幼稚に思え、 自嘲しながら待ち合わせの場所へと向かった。現在、沙月がいる場所からは、ゆっくり歩いても十五分はかからない。それなのに、いつも以上に歩幅を広げ、ショーウィンドーに映る姿を横目で見ては、曲がってもいないネクタイを直しながら歩く自分が滑稽に思えた。  これから再就職先の説明を受けに行くということは分かっている。それでも、沙月は一条に会えることが嬉しく、気分がまるで違っていた。  W商事への通勤は、毎日がまるで死刑台に送られる罪人のような気分だった。仕事なんてしたくない。誰とも関わり合いたくない……。それがどうだろう。新しい職場に不安がないと言ったら嘘になるが、一条がいると思うだけで安心感を覚える。沙月の中にある仕事に対する意識を根本から変えた人物――それが一条だった。  待ち合わせ場所の高級シティホテルのロビーに到着すると、沙月は落ち着きなく周りを見回しながら、近くにあったソファに浅く腰掛けた。天井から眩い光を散らす豪華なシャンデリア、鏡のように磨かれ塵一つ見当たらない大理石の床、どんな客にも丁寧に対応するホテルスタッフ。見ているだけで自然と背筋が伸び、緊張感が増してくる。猫背で野暮ったい印象を与える沙月としては、少し居心地の悪さを感じていた。営業マンとして、何度か接待を強要されたが、やたらとコスト削減を掲げる会社は安い料亭ばかりを選んでいたため、こんな高級シティホテルに足を踏み入れることがなかったからだ。  落ち着きなく何度も腕時計に目を落とす。その度に深呼吸を繰り返していた沙月が、ガラス張りのエントランスに視線を向けた時だった。黒いスーツに身を包んだ一条が颯爽と歩いてくる姿が見えた。彼は沙月を見つけると、にこやかに笑みを浮かべながら近づいてきた。 「お待たせしましたか?」 「いえっ! 今来たところですっ」 「少し落ち着いてお話したかったので、部屋を予約してあるんですよ。そちらへ移動しましょう」  フロントに向かい、慣れた様子で手続きを済ませカードキーを受け取る一条を見つめる。企業コンサルタントともなれば、このクラスのホテルを使うのは常で、会社とも取引があるのだろう。 「行きましょうか?」  一条の声に弾かれるように顔を上げた沙月は、彼の背中を追いかけるように歩き出した。  エレベーターで上階へと上がる。すれ違う人たちは皆、上質なスーツやワンピースに身を包み、和やかに談笑している。沙月は自身の存在が場違いな感じがして、終始うつむき加減のままだった。  シティホテルの中でも上位クラスに位置付けられるこのホテルは、外国人の利用客も多く、日本文化を意識した生け花や絵画をギャラリーに展示し、新館に作られた日本庭園で茶会などのイベントも開催している。  沙月たちが向かった本館は落ち着いたインテリアで統一され、いたるところに飾られた絵画や彫刻は、沙月でも一度は耳にしたことのある名立たる芸術家の作品ばかりだ。沙月はそういうことに関しては疎いほうだったが、泉が読んでいた本をこっそり見ていたこともあり、本の中でしか見たことのなかった作品を目の当たりにし、興奮で胸が高鳴るのを感じた。  一条は、いくつかのセキュリティーゲートを抜け、靴が沈みそうなほど毛足の長い絨毯が敷き詰められた廊下を進み、奥まった部屋の前で足を止めた。後ろにいる沙月を肩越しにチラリと見た彼は、慣れた動作で鍵を開けた。  部屋に入るなりセンサーに反応して照明が点灯する。暗かった部屋内部の全貌が明らかになると、沙月は息を呑んだまましばらく動けなかった。そこは、沙月が想像していた部屋とはまるで違っていた。  入社するにあたっての事前説明をするだけの部屋なら、広さはそう必要ない。だがそこには、壁一面ガラス窓を設けたリビングが広がっていた。大きなテーブルと革張りのソファがバランスよく配置され、隅のほうにはバーカウンターがある。壁面に作られた棚に並んだ多くの銘柄の酒瓶は店と見紛うほどだ。その奥には寝室だというドアが二つあり、短い廊下の先にはトイレとガラス張りのバスルームがあった。天井には柔らかな光を放つスワロフスキー製のシャンデリアが掲げられ、大きなガラス窓を隠すレースのカーテンの向こうには高層ビル群が一望できる。 「あの……。ここは?」 「気に入ってくれましたか? 研修期間中はこの部屋に滞在してもらいます。もちろん滞在費はすべて当社が負担しますのでご心配なく」 「いやっ! そうじゃなくて……。話をするだけじゃなかったんですか?」  一条は上着を脱ぐと無造作にソファに投げ、テーブルに用意されたシャンパンの栓を開けた。その動作には何の躊躇も感じられない。  引き締まった体にフィットしたベストが彼をよりストイックに見せ、雄々しさと色香を併せ持った一条から目が離せなくなる。沙月は、茫然と立ち尽くしたまま息をすることも忘れていた。 「――もちろん。とりあえず乾杯でもしましょうか?」  グラスに注がれたシャンパンは繊細な泡を弾かせながら甘い香りを放っている。困惑しながらも彼に差し出されたグラスを受け取った沙月は、不思議なものを見るような目でそれを見つめた。 「あなたの再就職、そして――再会を祝して」  そう言った一条は、沙月が持つグラスに自身のグラスを軽く合わせてきた。透明感のある音が響き、グラス一つをとっても上質な物であると分かる。 「再会……?」  嬉しそうにグラスを仰ぐ彼を見つめながら、沙月もおずおずとグラスを運び、微細な泡と共に口に含んだ。 (美味しい……)  思わず目を見開く。生まれて初めて口にしたシャンパンは甘く、口当たりが良かった。思いがけず爽やかな喉越しに、沙月はグラスを何度も傾けた。  今まで、生きていくために最低限のお金と食料があればいい――そう自身に言い聞かせ、質素な生活を続けてきた沙月に、最高級のシャンパンの味が分かるのかといえば、正直なところまったくの皆無だった。しかし、率直に『美味しい』と感じる舌の感覚に間違いはない。  沙月は遠慮がちに近くにあったソファに腰掛け、テーブルにグラスを置いた。酒にめっぽう弱いというわけではないが、空き腹にアルコールを入れたせいか、動いた拍子に視界が大きく揺れる。フワフワする体を立て直そうと奮闘する沙月に気づいたのか、一条は空いているグラスにミネラルウォーターを注ぐと、何も言わずに沙月のグラスの横に置いた。そして、自身はグラスを持ったまま、少しおどけた口調で言った。 「改めて――。Iコーポレーションへようこそ。あなたの入社に関する事務手続きはすべて済んでいます。明日からさっそく研修期間に入りますので、本社に午前九時までに出社してください。迎えの車を手配しておきます。なお、研修期間中はこの部屋を利用して下さい。もし必要なものがあれば私がすべて手配します。もちろん、あなたのアパートへ取りに行っても構いません。ただし、他の場所での外泊は厳禁です。あと、この部屋のクローゼットに入っている物は全部あなたのために用意させたものです。何を使っても料金の請求は一切ありませんから」  酒が入ったせいか、口も滑らかに説明する一条の姿に呆気にとられていた沙月は、何度も耳を疑った。そして、回り始めていた酔いが吹き飛ぶのを感じた。 「ちょ、ちょっと待って下さい! 中途入社の身で一ヶ月の高級ホテル暮らしなんてあり得ないですよ。それに……こんなの、おかしいですっ」  声をあげた沙月に、一条は不思議そうな顔で小首を傾けた。 「おかしいですか? 今までのあなたの生活の中ではあり得なかったことかもしれませんが、これからはこのスタイルに慣れて貰わないといけないんです。――あぁ、そういえば……一番大切なことを言い忘れていました」  一条は不意に何かを思い出したように、スーツの上着のポケットを探り革の名刺入れを取り出すと、そこから名刺を一枚抜き取って沙月に渡した。 「名刺は、先日頂きましたけど……」  困惑しながらもそれを受け取った沙月は、一条の顔とその名刺を交互に見つめた。以前、コーヒーショップで貰った物以上に厚く、上質な紙に印刷された文字を目で追う。 「――Iコーポレーション、代表……取……締役……? え……えぇっ」  見間違いではないかと目を擦り、何度も見直してみるが、そこに書かれている文字は変化するどころか、沙月の脳裏にしっかりと焼き付いてしまった。瞠目し言葉を失ったままの沙月を、一条は面白そうに見ながら、彼の隣に腰掛けて長い脚を組んだ。 「決して騙していたわけじゃない。自己啓発チームのチームリーダーというのは事実だし、臨機応変に使い分けている肩書きですから。――そう緊張しなくてもいいですよ。私は私なんですから」  一条の長い指先が、沙月の火照り始めた柔らかな頬をそっとなぞる。彼が触れた場所からジワリと熱が広がっていくのを感じ、シャンパンのせいだと言い聞かせた。そして、訝るように一条に視線を向けた沙月は、忘れかけていた疑念と、少しの恐怖を思い出して身構えた。  なにか変だ……。すべてが順調にいきすぎている。今まで、自分がすることなすこと裏目に出てばかりの生活だっただけに、一条との出会いも中途採用者に対する待遇も、すべてが仕組まれているような気がしてならない。やはり、タチの悪い詐欺師の手に堕ちてしまったのかと、自分の軽率さを悔やんだ。急に襲い掛かった不安に、沙月はゴクリと唾を呑み込むと、自身を落ち着かせようと黒縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。 (早くここから逃げなきゃ……)  焦れば焦るほどアルコールが血管を巡り、目の前が大きく揺れる。座り慣れないボリュームのあるソファに沈んだ体は、沙月の思うように動いてはくれなかった。そんな沙月の不安をよそに、一条の指がゆっくりと視界に入り込んでくる。 「――そう。この眼鏡もイミテーションなのは分かっています。もう必要ないと思いますよ?」  指先でテンプルを摘み、ゆっくりと眼鏡を外していく。眼鏡が完全に顔から離れた時、沙月は彼の視線から逃れるように、咄嗟に顔をそむけていた。素顔を他人に見られたくなかったからだ。家族に捨てられ、誰にも必要とされない弱いだけの自分の素顔……。これほどまでに情けない顔がこの世にあるだろうか。 「返して……く、ださい……っ」  沙月は、彼と目を合わせることなく震える声で訴えるが、一条は眼鏡を返すつもりはないようだ。長い指でテンプルを畳み、沙月の手の届かないテーブルの反対側に置いた。 「お願い……です……っ」 「――何を怯えている? そんなに自分を曝け出すことが怖いか?」  それまで穏やかに話していた一条の口調が、急に高圧的なものに変わったことに驚き、沙月は反射的に顔を向けた。眼鏡のレンズを通さずに誰かを見たのは何年ぶりだろう。咄嗟のことで焦点が合わない。ぼやけた視界が次第にクリアになってくると、一条の端正な顔が今まで以上にハッキリと見えた。その野性的な美しさを間近で見、改めて息を呑む。感情の読めない、仄暗さを含んだ黒い瞳に射抜かれ、沙月は動くことが出来なくなった。見つめているだけで吸い込まれそうになる彼の瞳に、心臓が早鐘を打ち、唇が渇き始めるとツキンとこめかみに痛みが走った。 「――んっ」  指先でこめかみを押え、眉を顰めて痛みをやり過ごそうとした時、一条が形のいい唇を綻ばせた。それを沙月の耳元に寄せ、低い声で囁いた。 「――美しくなったな。沙月……」 「え?」  聞き間違い――そう思った。自分のことを『美しい』と言う者が、この世界に存在するはずがない。幼い頃から両親に愛情を注がれて育った兄の泉は、贄家の花嫁に相応しく、妖艶で美しい。彼が周囲からそう言われることに、疑問も違和感も感じたことはなかったが、沙月自身がそう言われることはあり得ないことであり、絶対にあってはならないことだと思っていた。  これは沙月の勝手な想像でしかないが、もしかしたら……一条は誰かと人違いをしているのではないだろうか。そうであれば、早く気づかせてあげたほうがいい。貴重な時間を自身のために無駄にして欲しくない――そう思った沙月は、わずかに声を上擦らせて言った。 「いち……じょ、さん。俺……ちがっ」  慌てて真実を告げようと言いかけた沙月の唇を塞ぐように、一条の唇が重なった。冷たい唇……。でも、どこか懐かしく思える口づけだった。 「ん――ふ……っ」  生まれて初めてのキス――いや、前に一度だけ誰かと唇を重ねたことがある。こんな時に思い出すことではないが、こういう状況でなければ思い出せないこともある。でも、その相手の顔はどう足掻いても浮かんでこない。  一条の冷たい舌が沙月の口内を優しく愛撫する。生きている人間とは思えない程、手も唇も舌も冷たい。酔いが回った体に心地いいキス。一条は唇を重ねたまま角度を変え、繋がりをより深くしていく。息苦しさに顎を上向けた沙月のネクタイが解かれて引き抜かれる。その流れで彼の長い指が器用にワイシャツのボタンを外し、襟元を大きく広げた。  何が起きているのか分からない。逃げよう――その思考を裏切るように、体はまったくと言っていいほど動いてくれない。いや、動けないのはキスをされた驚きのせいだけではなかった。全身が痺れたようになり力がまったく入らない。さっきのシャンパンに薬物でも入れられたのか――と思ったが、今となってはあとの祭りだ。 「やだ……。何を……するっ」  銀糸を纏わせながらゆっくりと唇を離した一条は、ワイシャツから覗いた沙月の白い首筋を見つめてゴクリと喉を鳴らすと、指先をすっと滑らせた。そして、まるで獣が獲物を吟味するかのような表情を浮かべ、唾液で濡れた自身の唇を舌先で舐めてみせた。 「――十年という時を埋めるには、それなりの時間が必要だ。しかし……お前の香りは変わらないな。いや、あの時以上に甘く俺を誘う。誰もお前を穢すことがないよう、あの時に掛けた呪縛が功を奏したようだな。これからじっくりと、俺の花嫁に相応しい男に変えてやる」  なぜ一条が『花嫁』という言葉を口にするのか分からなかった。同時に、沙月の胸がチクリと痛んだ。自分は芝山家の次男坊で、花嫁になれる資格はもちろんだが、一族にとっては存在価値もない。沙月は、泉の引き立て役として生きていくしかないのだ。死ぬまで付き纏う贄家に生まれた次男の宿命……。  芝山家を出た今、面倒な『仕来り』に囚われることはないと思っていた。新しい場所で、新たな人生を歩めると思っていた。それなのに……。  ゆっくりと瞬いた沙月の目尻から一筋の涙が零れ落ちた。その涙に気づいた一条は動きを止め、まるで壊れ物に触れるかのように、恐る恐る沙月の頬を両手で包み込んだ。 「なぜ、泣く?」 「どうして……花嫁、なんですか? 俺は……泉じゃ、ない。花嫁の……資格も、価値……もないっ」  込み上がる嗚咽を何度も我慢しながら、沙月は唇を小刻みに震わせた。その姿を真っ直ぐな眼差しで見つめていた一条は、今にも消えてしまいそうなか細い声を吸い上げるかのように、涙に濡れた唇を優しく啄んだ。 「――誰が、資格がないと言った? 誰が……価値がないと言った?」 「だって……。俺は……出来損ないだから。俺なんて……不必要な……人間だ、から」  出会ったばかりの一条にこんなことは言いたくない。生きていることに意味を見出せない、情けない自分を見せたくない。それなのに、堰を切ったようにどんどん溢れてしまう。  古い迷信に囚われた家系に生まれたことを恨むことさえもやめてしまった、意気地なしの自分。Iコーポレーション社長直々に声を掛けてもらったにもかかわらず、彼の期待に応えられない自分がいる。こんな姿を見たら……きっと彼は失望するに決まっている。やはり、自分は無力で役に立たない人間なのだ。 「見ないで……くだ、さい。情け……ない顔……して、る」 「すべてを見せろ……。お前の持ちうるすべては、俺のモノなのだからな」  顔をそむけようとする沙月の顎をとらえ、唇にチュッと音を立ててキスをした一条は、頬を包んでいた手を離した。そして、沙月の顎をわずかに上向かせたまま白い首筋に顔を寄せ、冷たい唇を押し当てた。 「んん……っ! んあ……っ」  硬質で尖った物が皮膚を傷付ける。痛みとともに流れ込んできた甘い痺れが、首筋から沙月の体全体にジワリと広がった。。体中の血液が勢いよく流れて下肢に集まっていく。射精感にも似た感覚に、沙月は顎を反らせて荒い呼吸を繰り返した。呼気が熱い。その熱が一条の耳元に触れた時、首筋の圧迫感が消えた。涙で滲んだ視界の中で、一条がのそりと顔をあげたのが分かった。ぼやけていても分かる、彼の唇を染める真っ赤な液体から目が逸らせない。それが沙月自身の血であることに気づくまでに少しの時間がかかった。だが、彼の唇の両端から覗いた白い牙を見た瞬間、沙月は戦慄した。 「吸……血鬼? 嘘……、だ……ろっ」  幼い頃に聞いた町の『ならわし』が頭をよぎる。この年になっていろんな知識を身につけてみると、あんな非現実的な風習が現代に通用するはずがないと思うようになっていたことは否めない。だが、沙月の目の前にいるのは明らかに魔物だ。日本国内でも古くからその地位を確立し、強大な力と優れた知性を持ち合わせた一族と言われている吸血鬼。泉でなくとも、優良嫁ぎ先候補として真っ先に名が上がる一族だ。 「嘘……。俺は……資格、ない……っ。俺は……花嫁じゃ、ない」  やはり人違いであることを訴えようと、沙月は何度も首を振って見せた。しかし、一条は舌先で血を掬うように舐めとりながら妖艶に微笑んだ。彼の瞳は、意志の強い黒から、紫がかった金色に変わっていた。その色の何とも言えない美しさに、沙月は言葉を失った。 「――やはりお前の血は俺を欲情させる。我が婚約者(フィアンセ)、十年ぶりの再会を楽しもうぞ……」  血に濡れた一条の唇が重なる。その瞬間、沙月の頭の中が真っ白になった。体内にわだかまった熱が彼の息遣いに反応するようにうねりをあげる。それを逃がしたくて無意識に腰を揺らすと、濡れた音を立てて激しく舌を絡める一条が薄らと笑った。彼の手が器用に沙月の着ていたスーツを脱がしていく。一条から与えられる獰猛なキスに蕩けた頃にはもう、沙月は一糸纏わぬ姿にされていた。  ソファの上でしどけなく脚を広げ、彼の目に晒された中心はすっかり形を変えていた。ヒクヒクと震えながらほんのりと色付いた先端からは、透明な蜜を溢れさせている。 「ふあぁぁ……ぁ」  一条と交わす濃厚な口づけが心地よく、沙月の思考を曖昧にしていく。今はもう羞恥を覚える余裕さえなくなっていた。ただ、浅ましくもどんどんと下肢に集まってくる熱を解放させることだけしか考えられない。出来ることなら手を伸ばして思い切り扱きたい欲望に駆られる。しかし、ソファに投げ出したままの手には力が入らず、動かすこともままならない。もどかしさに腰を揺らすと、一条は唇の端をわずかに上げて微笑んだ。 「どうして欲しい?」 「さわ……って、くだ……さい」  そう呟いた後で、沙月は自身の頬がカッと熱くなるのを感じた。出逢ってそう時間が経っていない一条に対して、こんなことを平気で口にする自分の浅ましさに涙が溢れそうになる。だが、一条は沙月の願いを聞き入れることはなかった。自慰の時ですら触れたことがない胸の突起を、指の腹で強弱をつけて捏ねるように撫でられると、甲高い女性のような声が出てしまう。 「あぁ……っ。あっ……い、や……っ」  平坦だった胸の飾りは、刺激に赤く充血し硬く尖り始めている。気まぐれに強く引っ張られる衝撃に背中を反らせ、その度に吐息まじりに喘いでしまう。今まで気にも留めることのなかったその場所が、一条の手によって確実に性感帯へと変えられていく。  口を開けば耳を塞ぎたくなるような甘ったるい声しか出てこない。かといって唇を噛みしめれば、堪えた分だけ逃げ場を失った熱が体に充満し、感覚をより鋭くさせる。 「いい顔だな……。それだけで十分そそられる」  沙月の小ぶりなペニスの先端から溢れる蜜は、薄い下生えをしとどに濡らした。一条はそれを指先で丁寧に掬うと、沙月の口に咥えさせた。塩気と微かな苦みが舌の上に広がる。彼の指が沙月の舌を撫でるように蹂躙すると、溢れ出した唾液が唇の端から糸を引いて落ちた。何度も繰り返されているうちに、一条の指が愛おしく甘美なものへと変わっていく。気がつけば、沙月は自らの意思で彼の指を貪り、舌を絡ませながら根元まで丁寧に舐めていた。 「いい子だ、沙月……。そろそろイカせてやる」  一条は、片手で乳首を縊り出しては押し付ける動作を繰り返しながら、もう片方の手で沙月のペニスをやんわりと掴み上下に扱いた。 「あっ、あぁ……ダメ……っ! で……出ちゃうっ」  自分でする時とはまったく違う気持ちよさに、それまで燻されていた体の熱が一気に温度をあげる。これほどの快楽を経験したことがあっただろうか。女性と――まして、男性とも繋がったことのない沙月にとって、一条から与えられるすべてが新鮮で、何より気持ちがいい。すっかり弱くなってしまった乳首と同時に触れられることで、わずかに残っていた理性が粉々になっていくのを感じ、沙月はもう何も考えられなくなっていた。  ペニスに触れる一条の手と連動するように腰が揺れ、沙月は甘い声をあげ続けた。背筋に沿ってゾワリと肌が粟立つ。急速に隘路を駆け上がる灼熱を抑えようと息を止めた瞬間、目の前にチカチカと無数の光が瞬いた。 「あぁ……っ。もう……イ、イク……イクッ――。んあ――っ!」  腰を突き出すようにして放った精は多く、一条の手をぐっしょりと濡らした。粘度の高い白濁が糸を引いて落ちる様はとても卑猥で、荒い息を繰り返しながら薄目を開けた沙月は、思わず目をそらした。誰かの手で射精させられたことなど一度もない。しかも、自身の精液に塗れた指を口に運び、赤い舌を出して見せつけるように舐める一条の姿に、沙月は思わず声を上げていた。 「やめてっ。きた……な、いっ」  吐精した物を口にするという行為は、沙月にとってアダルトビデオの中だけのことだと思っていた。強烈な羞恥に全身から火が出そうだった。しかし、一条は満足げな表情で、一滴でも惜しいと言わんばかりに丁寧に舐めとっていく。 「お前は血だけでなく、すべてが甘いな……」  射精の余韻でピクピクと震えるペニスに顔を近づけた一条は、愛おし気に目を細めて微笑んだ。綺麗な紫かかった金色の瞳が沙月だけを見つめている。 「可愛くおねだりをしてみろ。もっと気持ちよくしてやる。さぁ……俺の名を呼んで」  沙月は、大きく広げた脚の間にある一条の顔を直視することが出来ずに思わず目を閉じた。それでも彼の視線を嫌でも感じてしまう。恐る恐る目を明けて、彼を見下ろすと濡れた唇を震わせて言った。 「――お願い。い……いち、じょ……さん」 「ダメだ。ちゃんと名前で呼んでみろ」  一条の鋭い声にビクリと肩を震わせる。彼に嫌われたくないと思えば思うほど、ペニスの先端から透明の蜜が溢れてしまう。 「あぁ……おね……が……い。真琴……さ、んっ」  言いながら腰をもどかしげに動かすと、一条は沙月のペニスの根元に指を絡め、形のいい唇をそっと寄せた。チュッと音を立てて白濁に濡れたその場所に口づける。たったそれだけなのに、沙月の体内に再び火が灯るのが分かった。 「あぁん……っ」  吐精したばかりで敏感になっているペニスを扱かれ、沙月の口から絶え間なく濡れた声が漏れた。一条は、そのまま先端を口に咥えると、舌を絡ませて白濁を綺麗に舐めとった。時折、鈴口を細く窄めた舌先で抉られ、背中が弓なりになる。今まで知ることのなかった快感を体に刻み込む一条の髪に指を食い込ませたまま、沙月は意識を手放した。  *****  ぐったりと力なくソファに沈んだ沙月に気づいた一条は、名残惜しそうに顔をあげると小さく吐息した。額に薄らと滲んだ汗で張り付いた沙月の髪をそっと払いのけ、彼の体から溢れ出すように香る血の匂いに目を細めた。革張りのソファに凭れたまま眠る沙月の白い肢体は扇情的で、何より美しかった。ゴクリと唾を呑み込んで、再び沸々と湧き上がる欲望を必死に抑えこんだ。  出来ることならば、このまま犯してしまいたい。そして、この呪われた血を注いで同じモノにしてしまいたい。だが一条は、そんな浅ましい欲望を払拭するように首を横に振った。 (今はまだ……。耐えるしかないのか)  沙月が穏やかな呼吸を繰り返していることを確認すると、一条はわずかに開いたままのピンク色の唇にキスを落とした。そして、沙月の額に手をかざすと金色の瞳を眇めた。沙月に施した性技をなかったことにする記憶の操作。それだけじゃない。一条が魔族であることを、もうしばらく明かさないでいるつもりだ。  十年ぶりの再会は一条にとって嬉しくもあったが、同時にとてつもない不安に押し潰されそうになる。自身を受け入れてもらえない可能性はゼロではない。そうなれば沙月と永久に会うことは叶わなくなる。  少し寂しさを感じながら、沙月を抱き上げて寝室へと運んだ。汗ばんだ肌を湯で濡らしたタオルで拭き清め、部屋の明かりを消す。ドアハンドルに手を掛けたまま、一条はひとりごちた。 「この俺がここまで溺れるとは……」  自嘲気味に微笑んでリビングへと戻った。淫靡な沙月の残り香と、舌先から消えない彼の血の味に、一条は逸る気持ちをぐっと堪えたまま、ガラスの向こう側に見えるネオンが瞬く夜景に目を細めた。  一条が沙月を選んだことは、決して気まぐれや自分の置かれた状況から逃げるためではなかった。  古来からこの日本に住む魔物の中でも上位に君臨する吸血鬼。その中でも、真祖の血を継ぐ一族として一条家は続いてきた。  先代当主、一条(いちじょう)京一(きょういち)が不慮の事故で亡くなってからは、真琴が一条家の当主となり、残された母親と共に家を守っている。  お互い干渉することを嫌う性格のため同居はせず自由に暮らしているが、昔からの風習が消えてなくなったわけではなく、花嫁候補として選出された名家との婚姻を余儀なくされていた。人間と魔物の諍いをなくすための『生贄』。今では『花嫁』と呼び方を変えただけにすぎない。  以前から芝山家のことは魔族の間でも噂になっていた。代が変わるたびに美少年を輩出する家系であり、過去にも何人か魔族に嫁いだ者がいる。その一族は栄華を極め、永きに渡りその子孫を後世に残している。魔物にとってこれほど魅力的な条件を兼ね揃えた贄家はない。  花嫁を出す贄家はその年によって異なるが、タイミング良く十五歳以上の男子(長男に限る)がいる家が選出される。誰もが芝山家の嫡男が早く十五歳になることを望み『花嫁候補』として選ばれることを待ち続けた。そして、皆の思惑通り十年前に芝山家が『花嫁候補』となり、周囲が色めき立つ中で、口には出さなかったが一条家は古くからの風習に辟易していた。  十年前、贄家に名を連ねたのは古くから続く名家四家だ。婚姻を望み、花嫁を探していたのはむろん一条家だけではなく、淫魔、妖狐、狼などの一族もいる。その中でも最も有力な血を継ぎたいと、一条家に直接申し入れてくる贄家はあとを絶たなかった。  しかし、あの頃の一条は婚姻などする気は更々なく、誰かに縛られることを嫌う傾向が強かったため、縁談を断り続けていたのだ。いつ果てるとも分からない長い時間を、たった一人の相手に束縛され続けることを考えただけで吐き気がした。  母親もそんな真琴の性分は分かっていたので、煩く煽ることもなく本人の意思に任せていた。花嫁候補となった家は、丹精込めて育てた自慢の息子を売り込むことに躍起になり、一条家の迷惑を省みず毎日のように手土産を携えて門を叩く。そんな贄家の過剰ともいえる押しかけにも頭を悩ませていた。 (なぜ、生涯を共にする伴侶を、自分の意思で選ぶことが出来ないのか……)  そんな毎日にうんざりしていた時、一条はあの神社で沙月と出会った。そして、彼が芝山家の血族であると知ることになるが、一条が選んだのは兄の泉ではなく、彼の弟である沙月の方だったのだ。  純朴でありながら作り物でない美しさを持ち、その心も体も純粋で穢れていない。毎日のように神社の階段に座り込んでいる姿を見つめ、一目で恋に落ちた。  父親亡き今、母親に反対されることは目に見えていたが、自分のモノにしたいという衝動に打ち勝つことは出来なかった。何より、なにものにも代えがたい甘い血の香りは、一条の荒んだ心を潤すには十分だった。  贄家の次男として生まれ、泉を最優先するがあまり、家族に蔑ろにされ、愛情も与えられない。それでも前向きに生きていこうとする彼の強さに心が震えた。頭の片隅で、今回選出された贄家の混乱がよぎったが、古くからの『ならわし』を壊すのもまた一興――と悪戯心にも似た思いに突き動かされ、沙月の首筋に婚約の証を残した。純血統の吸血鬼に噛まれ契約を結んだ者は、主以外との接触は許されず、もちろん貞操も守られる。記憶を操作し、沙月の十年間を見えない糸で呪縛し続けた。  そして――。最愛の者の血の香りを近くに感じて、探し当てた場所があのコーヒーショップだったというわけだ。  背中を丸め、野暮ったい印象で本来の自分を偽っているのはすぐに分かった。しかし、十年前と変わらない無垢な栗色の瞳。それだけでも変わっていなかったことにホッとしたが、自身がかけた呪縛せいか以前よりも血は甘く香り、恐らく本人は気づいてはいないだろうが色香まで備えていた。  これ以上、彼を野放しには出来ない。自分の手近に置いておきたい。その欲望が、沙月がおかれていた状況と偶然合致し、今の職場を辞めさせて自分の会社に引き抜くことが出来たのだ。  今はまだ、本来の姿を彼の記憶に残さず、呪縛を解くことはしない。花嫁選定の日までに誰もが息を呑み、文句さえも口に出せないような紳士――いや、淑女に変える。その自信も勝算もある。母親もおそらく賛成するだろう。ただ、心配なのは沙月の気持ちだった。いくら婚姻の証を残しても、相手が気持ちを通わせなければ意味がない。一方的な想いだけでは正式な婚姻は成立しない。想いが中途半端なまま人間から魔物に変わってしまうと、理性を制御することが出来ない、ただ本能だけで生きる魔獣になってしまう。それだけは何としても避けたいと一条は思っていた。  一族の栄華・繁栄など望まない。たとえそれが本心であっても、当主である一条が迂闊に口に出すことは憚れる。ただ彼と共に、いつ果てるとも分からない時を過ごしていきたいと切に願うだけなのだ。  しかし、沙月を手に入れるためにはもう一つ最大の難関が待ってる。それは、沙月の兄である泉のことだ。花嫁になるためだけに教育された泉はプライドが高い上に、貶めてきた弟が一条とそういう関係であると知れば黙ってはいないだろう。しかも、自分が狙っている嫁ぎ先であれば尚更だ。泉の逆上で沙月が傷つくことが心配ではあるが、誰がなんと言おうとこれだけは絶対に譲れない。 「――愛するのは泉じゃない。沙月だ」  一条はソファに投げてあった上着を手にすると、飲みかけのシャンパンを一気に煽った。そして、入口のドアへと向かい、一度だけ寝室の方を振り返ると小さく吐息して部屋をあとにした。

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