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【3】

 沙月は入社後、一日中会議室に閉じ込められての研修を思い描いていたが、現実はまったく違ったものだった。  配属先の自己啓発チームのフロアには沙月のデスクがすでに用意されていたし、同僚も気軽にいろいろと教えてくれる。チームリーダーである一条が外出している間は、緊張感が緩んだフロアで和やかに書類の動きや社内規則などを聞くことが出来た。中途入社で、しかも一条が目を掛けているということで嫉妬する者がいるかと思いきや、皆が皆、自分は選ばれた特別な人間であると胸を張っている。沙月のような経験をした社員はこの会社には何人もいて、別段驚くことではないらしい。 「芝山くん、ホントに素質あるね。やっぱり社長――リーダーが連れてきた子だけあって有能だよ」 「そんなこと、ないです……」 「いや。この会社ではお世辞はご法度だから。俺は思ったことしか言わない。それに素質がある奴しか雇わない社長のお気に入りなんて、ほんと羨ましいよ。俺も頑張らなきゃ!」  三十歳手前だという石本(いしもと)は、この会社に来て五年目になる。業績も良く、顧客数はチーム内で断トツのようだ。彼も以前勤めていた流通企業でリストラされ、路頭に迷っていたところを一条に誘われて入社した経歴の持ち主だ。チーム内では社長の右腕と言われ、一条もかなりの信頼を寄せている人物だ。  石本の生き生きとした顔を見ていると、沙月も自然と前向きになれた。こういった先輩と共に仕事が出来ることが『楽しい』と思い始めていた。 「――初日はちょっと野暮ったい子だなって思ったけど、確実に変わって来てる。眼鏡もない方がいいし、なんかエロいフェロモン出てるって思う時があるくらい可愛いよ。こういうキャラはこの会社にはいないから、顧客受けすると思うんだ」 「可愛い……?」  二十二歳の男相手に『可愛い』とサラッと言ってのけた石本に沙月が面食らっていると、木製のドアが勢いよく開き、一条が外出先から戻ってきた。 「お疲れ様ですっ!」  石本が真っ先に一条に声をかけると、沙月も彼にならって声をかけた。まだ気後れがあるのか、石本のように大きな声を上げることが出来ない。 「――お疲れ様です」  その声に気づいた一条は沙月に視線を向け、微かに唇を笑みの形にした。彼の真っ直ぐで情熱的な視線にドキッとして、沙月は熱くなった頬を隠すように顔をそむけた。 (なぜだろう……体が熱い) 「石本っ! 研修中の子猫に悪いことを吹き込んでいるんじゃないだろうなぁ?」 「まさかぁ! 俺ってそんなに信用なかったでしたっけ?」  一条は自己啓発チームのリーダーである前に、この会社――Iコーポレーションの代表取締役社長だ。それは社員全員が周知していることなのだが、彼を特別視するわけでもなく、まして媚びることすらしない。たとえ相手が社長であろうとも、間違ったことは「違う」とハッキリ告げ、意見があれば遠慮なく提案する。それは仕事だけでなく、休憩時間やプライベートでも変わることはなく、冗談や笑い声が日常的に飛び交っている。上下関係の垣根を取り払ったオフィス内の雰囲気は、とても居心地がいい。前の会社での古い考えに固執した、上下関係やパワハラなどが嘘のようだ。 「――そろそろ石本の顔も見飽きた頃だろ? 芝山くん、このあと会議室で研修だ。いいかな?」 「はい!」  沙月は、自分でも驚くほどはっきりとした明るい声で返事をしていることに気づくと、急に照れ臭くなって俯いた。一条に声をかけられることが嬉しくて仕方がない。しかし、それは会社の一社員として見ているだけなのだろうと思うと、ほんの少しだけ胸が痛んだ。  沙月は今まで誰かと付き合った経験がない。それどころか、誰かを好きになったことさえない。この胸の痛みが何なのかも分からない。でも――一条のことが好きだという想いに間違いはなかった。 「石本っ。サボってないで顧客データの入力、今日中に終わらせておけよ」 「わかりましたっ」  回転椅子に腰掛けたまま、背筋を伸ばして敬礼する石本に笑みを浮かべる一条につい見惚れてしまう。ハッと我に返った沙月はデスクに置いてあった資料を両手にかかえて、先に出て行った一条を追うように小走りでフロアを出た。  地下二階、地上八階建ての自社ビルは、一流企業が軒を連ねるこのビジネス街ではそう高い建物ではない。しかし、各フロアに一部署というように配置されたワークスペースは広々として作業効率も良く、何かと有効に使うことが出来る。ビルの一階には一般の人々も利用できるカフェが併設され、もっぱら業者との簡易的な打ち合わせに使用されている。二階~六階は部署別専用フロア。七階は会議室、八階は役員室となっている。 「先に行っててくれ」と一条に言われ、沙月はエレベーターに乗り込み、自己啓発チームの部署がある五階から七階へあがると、廊下に敷かれた絨毯を踏みしめながら指定された会議室へと入った。このフロアには、用途に合わせて使用するため大小さまざまな会議室がある。いくつも並ぶ部屋の中では比較的小ぢんまりとした作りの部屋だが、そこに置かれている机も椅子も決して安いものではないと一目で分かる。  誰もいない部屋のブラインドを引き上げ、目の前にそびえるビル群を眺めていると、控えめなノックと同時に一条が入ってくる音に気づいて振り返った。 「よろしくお願いしますっ」 深く一礼して彼を迎えると、一条は手にしていた資料を机に投げるようにして置いた。そして、肩幅に足を開いて沙月の真正面に立ち、何かを見定めるかのように腕を組んだままじっと見つめた。 「二週間前に比べたら背筋も伸びるようになったし、野暮ったい感じは完全に抜けたようだな。スーツも見立てた通りだ。このブランドはいいな……似合っている。何より仕事の呑み込みが早い」  これがお世辞ではないとすれば、全部褒め言葉と素直に受け取っていいのだろうか。一条は、営業や接待の際によく使われる、煽てやお世辞、社交辞令の類は好まない。だから、自身が思ったことしか口にしないし、たとえ相手が取引先であってもそのスタンスを崩すことはない。  顎に手を当てて思慮深く、頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見つめる彼の視線に耐え切れず、沙月は頬が熱くなるのを感じてわずかに俯いた。  初対面の時とはまるで違う。少しくだけた口調には最初は戸惑ったものの、慣れればこちらの方が彼らしい感じがして心地よい。むしろ野性味のある一条には、少し高圧的とも思える言葉遣いの方が似合っている。 「ありがとう……ございます」  沙月が小声で応えると、すっと音もなく間合いを詰めてきた一条に息を呑む。顔の横を掠めるように伸ばされた力強い腕がブラインドを下ろした。  ホッと吐息して安堵したのも束の間、薄暗くなった会議室の照明スイッチのある場所まで向かおうとする行く手を阻まれ、勢いよく二の腕を掴まれた。そのまま彼の広い腕の中に抱き寄せられた沙月は、不安げに彼を見上げた。 「社長……?」  遠慮がちに呟いた沙月に構うことなく、不意に一条の長い指が沙月の襟元に忍び込み、スッと首筋を撫でた。瞬間、ガクンと膝が折れ、全身の力が抜けて自力では立っていられなくなった。彼の腕に縋りつくような体勢のまま、沙月は徐々に自身の体が火照り始めていることに気づいた。熱を帯びた呼気がだんだんと荒くなっていく。 「大丈夫か?」  耳元に寄せた一条の唇が沙月の耳朶に触れる。優しく、それでいて激しく鼓膜を揺さぶる甘く低い声……。ぼんやりとし始める思考に直接語り掛ける一条の声が心地よくて、沙月はうっとりと目を細めた。 「――昨夜、教えたこと。出来るな?」 「ここで……ですか?」 「あの姿を思い出すと堪えがきかなくなる。お前が愛おしくて仕方がない……」  戸惑いを見せる沙月の唇を塞ぐように一条の冷たい唇が重なると、思考とは裏腹に何かを求める体が暴走し始める。トクン、トクンと心臓が高鳴り、唇が離れた瞬間息苦しさに酸素を求めた。  沙月は、彼に体を支えられながらズルズルとその場に体を沈め、カーペットの床に跪くと、一条のスラックスのファスナーに手を添えた。布越しでも分かる、硬く膨らんだモノを愛おしそうに撫でながら、何度もキスを繰り返す。彼のそこはすでに熱く、指先で形に沿ってなぞると、頭上で苦し気に息を吐く音が聞こえた。 「ん……はぁ……あぁ」  目の前にあるベルトを慣れない手つきで緩め、前を寛げると下着ごとスラックスを引き下ろす。沙月の鼻先を掠めるように跳ねたのは、すでに怒膨した一条の分身だった。長大で、太く硬いそれに頬を寄せ、先端から溢れ出す透明な蜜に舌先を伸ばして掬い取った。次々と溢れ出る蜜はぷっくりと大きく膨れ上がり、それを舌先に乗せると苦みを連れてくる。そのまま大きく口を開け、灼熱の楔を頬張ったまま頭をゆっくりと前後させる。卑猥な水音を立ててしゃぶる沙月に、一条は身を震わせて劣情に濡れた目を細めた。  沙月の柔らかい髪に指先を埋めた一条は、時折その手を動かして揺さぶった。小ぶりな造りである沙月の口を塞ぐ彼のペニスは凶悪で、容赦なく喉の奥を塞ぐように突かれ、時折強烈な吐き気を催す。しかしそれに慣れてくると、不思議と苦にはならない。むしろ、気持ちいいとさえ思えてくる。沙月は、頭上で恍惚とした表情を浮かべる一条を涙目のまま見上げた。その視線に気づいた彼は、ふっと唇を綻ばせた。 「――沙月、飲んでくれるか?」  沙月は何度も小刻みに頷きながら、舌を使って彼を絶頂に導いていく。一条に出会うまで口淫など知らなかった沙月だったが、毎晩のように彼に教え込まれた体は、自然と彼を求めてしまう。普段の大人しく清楚なイメージからは想像が出来ないほど妖艶で愛らしい――と一条は言う。  口の中で彼の楔がドクンと脈打ち質量が増していく。そろそろ限界が近いことに気づいた沙月は、彼の腰に手を掛けて目で訴える。一条がそれに気づき、腰をグラインドさせながら激しく揺らした。  一条の息遣いが一層激しくなり、吐息まじりに低く呻いた。その時、沙月の口内で灼熱の楔が一際大きく膨らみ、、口内に叩きつける奔流と、青い独特の匂いに喉奥を犯される。 「――んっ……。ぐぅ……ふぅ……っ」  息を詰めたまま動きを止めた一条を見上げながら、大量に吐き出された精を喉に流し込んだ。粘度が高く、喉に張り付いたものがなかなか嚥下出来ない。飲みきれず溢れたものが沙月の唇の端を伝い落ちた。 「ん――ぷはぁ」  自身の唾液と精液に塗れた楔を口から引き抜いた沙月は、うっとりとした目でそれを見つめると、手を添えて丁寧に舐め、残滓を掬い取った。先端にチュッと音を立ててキスをした沙月の濡れた唇が堪らなく卑猥に見える。  かなりの量を出したにもかかわらず、大きさの衰えない一条のペニスを見ながら、自身の唇についた精を舌先で舐めとった沙月は、少し首を傾けて腰をもぞりと揺らした。  昨夜、一条の長い指で散々弄ばれた後孔が快感を求めてひくひくと収縮を繰り返している。自身がどれほど浅ましく求めているか、彼を目の前にするたびに思い知らされる。髪を乱したまま身支度を整える一条を見上げ、沙月が強請るように唇を開いた時だった。 「んあっ。うぅ――っ。はぁ、はぁ……っ」  心臓を掴まれるような痛みを感じ、低く呻いた沙月の体が大きく傾いていく。こめかみにも鋭い痛みが走り、その場に倒れ込んだ沙月はぎゅっと目を閉じた。心臓が破裂しそうなほど激しく収縮を繰り返している。体は火照っているのに、手足は凍えて震えを抑えることが出来ない。 「沙月っ! どうした……大丈夫かっ」  異変に気づいた一条はその場に膝をつくと、沙月の背中に手を回して体を抱き起した。いつになく緊張した面持ちで声をあげた彼に大丈夫だと言おうとするが、喉が締めつけられているようで声を発することが出来ない。沙月は幾度となく深呼吸を繰り返し、肺に酸素を取り込もうと胸を喘がせた。 「だいじょ……ぶ……」  少し落ち着き、微かではあるが声が出せるようになった。だが、沙月は力なく呟いた後で、だんだんと狭くなっていく視野に恐怖を感じた。そして、一条の腕に縋りついたまま目を閉じた。  *****  一条は沙月をそっと抱き上げると、会議室を出てエレベーターホールへと向かった。タイミングよく上がってきたエレベーターに乗り込み役員室のある八階で降りると、長い廊下の突き当りにある『社長室』と書かれた金色のプレートがかかる木製のドアを勢いよく開けた。  社長室の前室に設けられたデスクに座っていた青年が、一条のただならぬ気配に気づき視線をあげた。 「深雪(みゆき)! 彼を休ませる。準備をしろっ」 「はいっ」  一条の鋭い声に弾かれるように立ちあがった彼は、素早い動きで二人の前に出ると、一条の執務室である奥の部屋に入るなり革張りのソファへと導いた。そして前室に戻り、濡れタオルと毛布を用意した彼は、ぐったりとソファに横たわる沙月の額に手際よくタオルを乗せ、体を包み込むように毛布をかけた。  しばらく傍らに膝をついたまま様子を窺っていた彼だったが、沙月の細い指先に残る青い匂いに気づき、わずかに顔を顰めた。そして、ため息を吐きながらゆっくりと立ち上がると、振り返るなり執務机の向こうで不安げな表情を浮かべている一条を睨んだ。 「――社内で、何をしていたんですか?」  怒りと呆れが入り混じった彼の声に、一条はバツが悪そうに視線を逸らした。  社長室秘書課――と言っても一人きりの部署であるが、そこに所属する保科(ほしな)深雪(みゆき)は、妖艶な美しさを持つ一条に対して、どちらかと言えば野生味のある美丈夫だ。身長は一条とそう変わらないが、細身で筋肉質の体躯はしなやかで動きに無駄がない。少し長めではあるが好感の持てるこげ茶色の髪を緩く後ろに流している。いつもならきちんと整えられている前髪が乱れ、その奥で一条を睨む髪と同色の瞳は鋭く、まるで獣のように隙がない。  一条が自己啓発チームのリーダーとして動いている間、保科が社長代理としてここで仕事に追われている。そのせいか、長年勤務している者でも彼の姿を見た者は少ない。社員にはレアな存在として認識されており、彼を見かけると良いことがあるという社内伝説まで囁かれるほどだ。  冷静沈着を地でいく彼が、いつになく怒りを露わにしていることに一条は気づいていた。 「もしも、誰かに見つかったらどう説明するおつもりですか?」  腰に手を当てて言う保科に、さすがの一条も逃げ腰になる。言い訳をするつもりはないが、今は何を言っても悪い方にしか転ばない。 「――沙月と、片時も離れたくない。お前は分かってくれていると思っていた」 「だからといって、社内で何をしても良いということにはなりませんよ。まったく……」  乱れた前髪を指先でかきあげながら、ため息まじりに俯いて額に手を当てる。表向き、社長秘書として一条に寄り添っているが、プライベートでは一条家の御守・従者として身の回りの世話をこなしている。かといって一条自身、家事がまったく出来ないわけではない。何事も厳しい家で育ったこともあり、必要最低限の事は自らが行っている。その点では保科も安心していられるのだが、こと沙月の事となるとだらしがないというか、節度をわきまえることが出来なくなる主に、ほとほと呆れていた。 「いつまでこんなことを続けるおつもりですか? 毎夜、沙月様を愛でることに関しては口出しいたしませんが、十年前から――いや、ここのところ毎晩記憶を抑圧しているせいで、沙月様の脳と体のバランスが崩れ始めているようです。この状態が続けば、近いうちに彼の精神は壊れてしまうかもしれません。それに、真祖の血を汲むあなたの血――いや、体液でさえ人間である沙月様にとっては劇薬です。たとえ贄家である芝山の血をひいていても、生身の体でそれを受け入れるには限界があります」  保科の不安は的中した。十年前に交わされた婚約は、当時まだ小学生だった沙月の体にじわじわと負担をかけていた。正式な婚姻まで守られなければならない純潔のためにかけられた一条の呪縛――誰かを好きになるという感情も性欲も抑圧された沙月は、理性だけでなく本能まで捻じ曲げられてしまっている。長期に渡る抑圧が体と精神に及ぼす力は大きい。それが表に現れてきたことで、そろそろ限界が近づいていると言えよう。  記憶を封じ込むだけでもかなりの負担になっているところに、一条は沙月との再会を果たしてから、毎晩のように花嫁となるために必要となる『教養』という名の性技を教え込んでいる。贄家の花嫁であれば婚姻を結んだ時点で、自然と体は嫁ぎ先である魔族の体質へと変化していく。先だって性技など教え込む必要などないのだ。それを知っていながら、一条が沙月を毎晩愛でるのには理由があった。  十年間という長い時間、互いに触れることさえ叶わなかった者同士がそれまで抑えていた性欲を吐き出し、愛情を確かめ合うことで確実な婚姻を迎えることが出来ると信じてやまないからだ。一条の沙月に対する想いは変わらない。だが、婚約を了承した沙月が一条を拒否した場合、呪縛が解け、魔物と接触した沙月は命を失うことになる。  魔族と密接に関わる贄家の血をひく者の宿命とも言うべきか。だが、次男である沙月には贄の資格はない。それでも、その血は確実に引き継がれている。 「――それは薄々気がついていた。記憶の抑圧もそろそろ限界だな。しかし……すべてを明かしたところで受け入れるだけの許容があるかが心配だ。むしろ混乱を招くのではないか、と」 「それは仕方のないことでしょう? 彼は人間であり、芝山家の人間でありながらこの件からは完全に除外されている身なのですから。でも、いずれはすべてを話さなければいけません。それがいつであるかということが問題なんです。一条家の婚約の証を持っている以上、この運命から逃れることは出来ない」 「そうだな……」  保科にそう言われるたびに、一条は自分が犯した罪の重さを改めて突き付けられる。まだ十二歳だった沙月に、呪われた血族の証を残してしまったのだから。  魔族が残す証はそれぞれ意味があるが、中でも婚姻に関する証の呪縛は最も強力だ。種族を残すという意味でも、この証を付けられた者は絶対に逃げることは出来ない。どこにいても、その血の香りで見つけ出すことが出来るからだ。  何も知らない無垢な沙月に、自分のエゴで押し付けた婚約の証を残して十年……。たとえ呪縛の効果があるとはいえ、移ろいやすい人間の心までは縛ることは出来ない。  沙月との再会を果たしてから、前にも増して毎日が不安で、彼の体に触れていなければ落ち着かない。もし、記憶をすべて解放すれば彼の体や精神への負担は解消される。しかし、一条を拒否すればその命は消えてなくなる。それだけは避けたい。  神も魔物も万能ではない。人間の意思を操ることは出来るが、心の奥底にある真実の愛を書き換えることは出来ないのだ。  陽が傾き始めたビル群を眺めながら、一条が保科に気づかれないように小さく吐息した時だった。 「ん。んん……っ」  小さな呻き声と共に寝返りを打った沙月が、気怠げに重い瞼をあげた。 『この話はここまでだ……』  即座に保科に目配せした一条は、それ以上何も言うことなく黙り込んだ。  *****  「気がつきましたか?」  ソファの傍らにすぐさま駆け寄り、絨毯に片膝をついた保科が沙月を覗き込んだ。 「あれ……。ここ……は?」  視界に飛び込んできた青年を一条かと思い問いかけに応えた沙月だったが、焦点が合ってくるにつれ、それが別人だと認識する。野性味のあるこげ茶色の瞳に見つめられ、沙月は何度も瞬きを繰り返した。  社内役員などの主要な人物の名前と顔は記憶している。しかし、彼の名前が思い出せなくて戸惑っていると、まるで沙月の心の内を読んだかのように、彼自ら「保科です」と名乗ってくれた。入社して一度しか会っていない――いや、正確にはすれ違っただけの保科の姿をまじまじと見つめる。間近で見るとその端正な顔立ちが一段と際立ち、恥ずかしさに目を逸らした。 「ここは社長室です。驚かれるのも無理はありません。先ほど、社長との打ち合わせ中に気を失われたので、急遽ここに……」  体を起こしながら記憶を辿っていく。そのたびにこめかみが痛み眉を顰める。その痛みを抑え込もうと指でグッと押さえながら顔を上げると、窓辺に立つ一条と目が合った。 「い……一条さん」 「気分はどうだ?」 「まだ少し頭痛が……。でも、大丈夫ですっ」  つとめて明るい声で応え一条を安心させようとするが、やはり自身の体を誤魔化すことは出来なかった。 (体が怠い……)  入社して社員研修が始まってから毎朝感じている倦怠感。夜が明けて、目を覚ますたびに体の節々が痛み、下半身が重怠い。激しい自慰をした後のような甘さを含んだ疲労に戸惑いはしていたものの、慣れない会社での疲れが残っているのだろうと思っていた。しかし、その倦怠感はいつまでたっても解消されることはなかった。  日に日に蓄積していく疲労と、時折こめかみに走る鋭い痛み。そして、日常的に頭の奥の方で疼くような鈍痛が続き、沙月は頻繁に頭痛薬を服用していた。それでも効果は表れることはなく、研修期間が終わったら医師に相談しようかと思っていた。  不安げな表情で覗き込む保科にペットボトルを差し出され、粘つく口内を洗うように冷たい水を流し込んだ。喉を通り過ぎていくひんやりとした感触が心地いい。 「――すみません。ご迷惑をおかけして」  申し訳なさそうに深々と頭を下げた沙月に、保科が優しく微笑んだ。 「いえ。急激な生活環境の変化に疲れたのでしょう」 「自己管理がなってないってことですね……。反省しています」  いつでも自分が悪いと責める沙月。自身がしっかりしていないせいで、他人に迷惑をかけてしまう。俯いた沙月の襟足の髪がさらりと落ち、白い首筋が露わになる。それを目にした保科はわずかに目を見開いた。そんなことに気づかない沙月は、ゆっくりとした動作で立ち上がると、緩んだネクタイを締め直した。 「もう、大丈夫ですから……。社長、研修を続けてください」 「続けると言っても、間もなく終業時刻だぞ?」  沙月を思いやるように、優しい声音で言いながら振り返った一条だったが、彼の言葉とはまるで異なる強い眼差しに、沙月は小さく息を呑んだ。  大きなガラス窓から差し込むたオレンジ色の西日。その光を背に立つ彼の姿をどこかで見たことがあったからだ。 (黒い、大きな……。カラス……?)  幼い頃の記憶が断片的にフラッシュバックする。でも……いつ、どこで見たものなのかハッキリ思い出せない。一条の姿がデジャヴのように沙月の記憶を擽る。 「――うっ」  思い出そうと記憶を辿ると、それをさせまいとこめかみに鋭い痛みが走る。沙月は、その場所に手を当ててきつく眉根を寄せた。視界が大きく揺れ、足元がふらつき、息苦しさに呼吸がうまく出来ない。 (神社……。夕焼け。黒い大きな影……)  その影は両手を広げ、沙月の体を包み込んでいく。その中にいる間だけ、暖かくて優しい気持ちになれた。 「――ま……くん? 芝山くん、大丈夫ですかっ?」  傾きかけた沙月の体を支えるように伸びた保科の手にハッと我に返る。  この部屋には一条と保科しかいない。それなのに、第三者に見られているような気がして、どこからともなく恐怖が湧き上がる。穏やかになりかけた気持ちを脅かす不穏な気配に、沙月は先ほどから止まらない手の震えを抑えこむようにグッと握りしめた。 「すみません……。なんだかボーッとしてしまって」 「――芝山くん。今日はもう帰って休んだ方がいい」  先ほどとは打って変わり、抑揚のない一条の低い声に顔をあげる。短い言葉ではあったが、目をかけて引き抜いて来たのに体調不良を繰り返し、研修もままならない――と、沙月には聞こえた。失意を露わにしたような一条の口調に、沙月は唇を噛んだまま俯いた。 「それと――。明日からは石本と一緒に動いてくれ。企業セミナーの準備など実践的なことも知っておくべきだろう。彼には私から話を通しておく。私の方も、明日からは少し忙しくなる。社に戻らないことが増えると思う。引き入れておいて勝手で申し訳ないが、芝山くんだけにつきっきりというわけにはいかなくなる」 「はい……」  研修期間は特に決められてはいなかったが、二週間という貴重な時間を、多忙な一条から奪っていたことを考えれば、そう言われても仕方のないことだ。一般的な企業研修でも、このくらいが妥当だ。それなのに、沙月の中にはまだ一条と共にいたいという想いがあった。  企業コンサルタントという仕事はあくまでも個人プレーであり、誰かに頼ったり甘えたりということは少ない。自分で対処できないほどのトラブルが発生した場合に限り、上司に助けを求めることが出来ると石本が話していたことを思い出す。  沙月をスカウトしたからといって、一条と常に行動を共にするわけではない。上司としての顔、経営者としての顔。その両方を使い分けてこの会社を動かしている。これ以上、一条の負担になりたくない。 「――深雪。彼をホテルまで送ってくれ」  保科にそう告げた一条は、沙月の方を見ることなく足早に社長室を出て行ってしまった。沙月は、何とも言えない気持ちを抱いたまま彼の背中を見送ると、保科に促され上手く動かない足をゆっくりと前に踏み出した。 *****  保科の運転する車がホテルの車寄せに静かに停車する。夕方という時間帯、ホテルの利用者は増え、エントランスも人がごった返していた。後続車の数も多く、停車を待つ待機列が長くなっていく。ドアの開閉のために、沙月が乗った車にホテルのドアマンが近づいてくる。  沙月はここに着くまで一条への罪悪感をずっと抱え込んできたが、このまま部屋に持ち込み、独りで悶々とした時間を過ごすことに耐えられる自信がなかった。   彼の秘書である保科にこんなことを話すのはお門違いであるとと分かっている。でも、誰かに聞いてもらいたくて、車を降りる直前になって運転席に座る保科に声をかけた。 「あの……。こんなことを聞いていいのか分からないんですが。私は、社長を失望させてしまったということでしょうか?」  ルームミラー越しに保科の切れ長の瞳が沙月を捉える。保科は外にいるドアマンに、ドアの開閉を待つように片手で合図を出すと、彼は嫌な顔一つせずに笑顔で下がってくれた。  短い沈黙のあとで、保科はわずかに体を捩じって後部座席に座る沙月の方を見ると、くすっと肩をすくめて笑った。 「心配は無用です。社長自身がスカウトしてきたわけですし、そう簡単に見切りをつけるとは考えられませんから。あの口ぶりだと、明日から今までおざなりになっていた社長職の仕事を片付けるおつもりなのでしょう。社長代理とはいえ、私でも対応出来ないこともありますから……。ですが、あなたを心配されていることには間違いありませんよ。そうでなければ、社長の右腕である石本にあなたを託したりなどしません」  沙月は、彼のその言葉にほんの少しだけ救われた気がした。期待が大きければ失望はより大きいものになる。そもそも自分は、一条が期待するほどの人間ではない。家族に蔑ろにされ、誰も頼ることも出来ず、それでもここまで生きて来られたことは奇跡だった。偶然とはいえ、そんな沙月に声をかけ、一流企業への入社を認めてくれた一条には感謝しかない。  社長室での彼は、逆光のせいで表情もハッキリ読み取ることが出来なかったし、声のトーンもいつもと違っていた。あの状況なら、体調不良ばかりの沙月を「使えない」の一言で切ってもおかしくなかった。研修段階でありながら、彼の期待に応えられない不甲斐なさを感じていたことは事実だ。  この二週間の間、忘れかけていた現実が再び沙月を縛り始める。 (やっぱり俺は、誰からも必要とされていないのか)  保科に礼を告げ、車を降りるなりドアマンにも頭を下げた沙月は足早にホテルの自室に戻ると、着替えもせずにソファに倒れ込んだ。柔らかな上質のレザーに頬を寄せ、溢れてくる涙を何度も拭った。  その涙の意味が何なのか、自分でもわからない。改めて自身の生い立ちを恨んでのこと――なのだと思っていた。  仰向けになり豪華なシャンデリアを見上げる。スワロフスキーが放つ繊細で柔らかな光を見つめているうちに、沙月はいつしか深い眠りに落ちていた。決して口に出してはいけない、一条への秘めた想いを胸に抱きながら……。

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