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【4】

 一条の手から離れた沙月は、石本と共にセミナーの設営や打ち合わせに追われる日々が続いた。時に厳しく叱咤する石本だったが、決して感情的になることはなく、常に沙月の行動をチェックし「ここは良かった、今度はこう動けばいい」――というように的確にアドバイスした。沙月にとって、その言葉は確実に自信へと繋がっていった。  仕事では厳しい面を持つ石本だったが、休憩時間や食事の時は、数多くの引き出しを持つ彼らしく、話題には事欠かず、笑いが絶えなかった。一条といた時には気づかなかったことが、別の側面から見ることで新たな感触を覚え、仕事にやりがいを感じ始めていたのは確かだ。  そして、沙月は一条と離れてもう一つ気がついたことがあった。あれほど悩まされていた原因不明の体調不良から解放されたのだ。彼といることに苦痛を感じていたわけではない。しかし、知らずのうちにストレスを感じていたのかもしれなかった。今までの頭痛や倦怠感が、まるで嘘のように治まっている。自分の知らないところで病に侵されているのでは? と危惧していたことから解放されたことで気持ちに余裕が出来たことは違いない。  それなのに、何かが足りない。それまで心を満たしていたものが、ぽっかりと空いた穴から抜け落ちてしまったような虚無感に襲われる。無性に誰かに縋りたくて、力強い腕に抱きしめてもらいたくて……。それが、一条から離れたことが原因だとは思わない。きっと自身の『甘え』がそう感じさせているのだと沙月は思った。  こういう時、大人になり切れない自分を情けなく感じる。周囲の人間は皆、自分なりのプライドを持って生きている。輝かしくもあり羨ましくも見えるのは、自分がまだその域に辿り着いていないせいだと感じずにはいられない。  その日もまた、クライアントとのトラブルをうまく纏めた石本の実力をまざまざと見せつけられた。沙月は、何も出来なかった自分が悔しくて仕方なかった。打ち合わせを終え、会社を出たのは午後十時を回った頃だった。長時間の拘束と緊張で疲れを感じた沙月は、石本の食事の誘いを丁重に断り、タクシーに乗り込むとホテルへと向かった。  研修期間中の宿泊先――と指定されていたホテルだったが、沙月にはそこ以外に戻る場所はなかった。それまで彼が住んでいたアパートは、知らないうちに一条に解約されていた。大きな荷物はトランクルームに預けてあると、保科に鍵を渡されたのはつい最近のことだ。最初は戸惑いばかりだった高級ホテルでの滞在も、日を重ねるうちに自分の部屋のように思えてくるから不思議だ。  正面玄関でタクシーをおりた沙月は、ホテル入口の自動ドアの脇に人待ち顔で立つ男性の存在に気づいた。しかし、その顔を見た瞬間、沙月は足がすくんだように動けなくなり、鞄を持つ手が震えだした。喉にストレスからくる強烈な圧迫感を感じ、うまく息が出来ない。  沙月の異変に気づいたドアマンが足早に歩み寄るが、それを片手で制しながら近づく男の姿に息を呑んだ。 「――久しぶりだな」  耳触りの良い柔らかな声音は誰にも好印象を与える。だが、沙月は表情を強張らせたまま応えることはなかった。  体にフィットした高級ブランドのスーツに身を包み、端正ではあるがどこか女性らしい相貌をもつ兄――芝山(しばやま) (いずみ)を睨みつける。沙月と同じ栗色の柔らかい髪が、ビルの間を吹き抜ける風に揺れ、奥底に秘めた冷酷さを隠すような黒い瞳が沙月を射抜く。 「随分と探したよ……。この街にお前がいるという噂を耳にしたものだから、急に話がしたくなってな」 「――何も話すことは、ない」 「そう言うなよ。少し、時間あるか?」  そう問いはしたが、沙月の返事を待つことなく彼の腕を半ば強引に掴むと、地下駐車場へと続くスロープを下りはじめた。腕に指が食い込むほどの力で掴まれ、沙月は痛みに眉根を寄せながら引き摺られるように泉のあとに続いた。  この時間になると、地下駐車場への車の出入りは極端に少なくなる。薄暗い通路に点々と光るオレンジ色の誘導灯が無表情の泉を照らす。その姿に恐怖を感じて、沙月は今にもガチガチと鳴り出しそうな奥歯をグッと噛みしめた。  泉と会うのは何年ぶりだろう。お互いに連絡を取ることもなく、沙月にしてみれば兄弟の縁はとうに切れているものだと思っていた。以前よりも身長も伸び、容姿の美しさにもさらに磨きがかかった泉の姿に沙月は気づかれないようにため息をついた。  毎日ギリギリの生活を強いられている自分。贄家の長男として生まれ、権威ある魔族との婚姻を約束された男。まるで比べ物にならない――そう思った。歩く姿も自信に溢れ、余裕すら感じられる。  駐車場の奥に進むにつれて空気が淀み、湿度も上がってくる。一画に設けられた長期滞在者専用駐車スペースまで歩いたところで、泉は足を止めて沙月に向き直ると、いきなりコンクリートの壁に突き飛ばした。不意を突かれ、冷たいコンクリートの壁に背中を打ち付けた衝撃で痛みが走る。 「痛――っ」  身を庇うようにわずかに屈んだ沙月を壁に押さえつけた泉は、両手を捩じりあげ頭上で固定した。その素早い動きに逃げるタイミングを失った沙月は、少し高い位置から見下ろす彼を睨むことしかできなかった。幼少の頃から武道や剣術に長けていた泉には、こんなことは造作もないことだろう。  母親の面影を残す綺麗な顔がぐっと近づき、沙月は息を呑んだまま動けなくなった。むせ返るような甘いムスクが沙月の感覚を麻痺させ、逃げる気力さえも奪っていく。 「お前には聞きたいことがたくさんある。――最近、あの商社を辞めて再就職したようだな? 三流大学を出て三流商社に入ったお前が、なぜ一流企業であるIコーポレーションに中途入社出来るんだ? あそこの社員は選び抜かれた精鋭ばかりで、能力のある者しか雇わない。なんの才能もないお前が易々と入れる企業じゃない。どんなコネを使った?――あぁ、忘れていた。お前にそんなコネなんかあるわけないか」  黙っていれば女性と見紛うほどの美貌を持ちながら、その愛らしい唇から吐き出される言葉は辛辣で、毒を含んだものだった。  一流大学を首席で卒業し、二十七歳の若さで一流商社の営業部長という異例の出世コースを歩んでいる泉。  普段、他人には絶対に見せることはないであろう裏の顔を沙月だけが知っていた。 「関係、ないだろ……。兄さんには……っ」  綺麗な唇を歪めて妖しく微笑んだ泉は、片手を沙月の首にゆっくりと押し当てた。まるで、猛禽類が小動物をいたぶるようなその仕草に、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。 「その言い方、ムカつくなぁ。わざわざ貴重な時間をさいてお前に会いに来てやったっていうのに」 「そんな……こと、頼んで……ないっ」 「入社の目的はなんだ? まさかとは思うが……一条社長を狙ってのことなら絶対に許さないぞ。一条家は古来からこの日本に住む吸血鬼の一族。その中でも稀有な真祖の血を継ぐ名家だ。芝山家当主を継ぎ、花嫁候補として名を挙げているのはこの俺だ。芝山を名乗る価値もないお前に、その資格はない」 「いちじょ……さんが、き……吸血鬼? そんなこと……知らないっ」 「知らなかったでは済まされないぞ。すぐに会社を辞めろ。この忠告が聞けないというのなら、たとえ血の繋がった弟だとしても手段は選ばない」  沙月の首にかかった泉の手にじわりと力が込められる。 (本気、なのか……)  何とか逃れようと暴れるが、両手を拘束されたままの現状では泉を突き飛ばすことも出来ない。首に彼の指が食い込んで来ると、息苦しさと恐怖に喉がヒュッと鳴った。 「お前は誰からも必要とされていない人間だ。このまま死んでも、誰も気に留める者はいないだろう」  冷たく微笑む泉の目は笑ってはいなかった。これまで、実の弟である沙月に対して、何の関心も抱くことがなかった泉。そんな彼が突然姿を現し、殺意を剥き出して沙月を責める姿は異常だった。彼の様子から察するに、沙月は自分を探していた本当の理由に気づいた。おそらくだが、沙月がこの街に来てからずっと、泉は監視し続けていたのだろう。そうでなければ、W商事を辞めたことも、Iコーポレーションに再就職したことも、このホテルに滞在していることも知り得るはずがないのだ。  絶縁したものだと思っていた泉からの脅威と共に、一条が贄家の花嫁を求める魔族だということを知った沙月は大きなショックを受けた。  もしかしたら一条は、沙月が芝山家の人間だと知っていて近づいたのだろうか――そんな疑念が脳裏を掠める。泉との婚姻を成立させるために、弟である沙月を利用するつもりだったとすれば、彼はとんでもない勘違いをしていることになる。幼い頃から仲睦まじい兄弟ならば、兄のために協力しようと一条に働きかけるが、確執があった兄弟は再会してはいけなかった。現に、実の兄である泉に殺されかけているのだから。  沙月の知らないところで思いもよらないことが起きている。泉や一条にとって、自身の存在が負の要因になるというのならば、すぐにでも会社を辞め、この街を離れた方がいい――そう頭では分かっているのに、なぜだろう……涙が溢れて止まらない。  泉の手が気道を圧迫する。脳に送られる酸素量が減り、思考も曖昧になっていく。急激に視界が狭まり、暗くなっていくのが分かる。  このまま、泉の手によって死を迎えるのか――と諦めかけた時、冷えたコンクリート壁に硬い靴音が響いた。人が近づく気配に驚いたのか、首を押えこんでいた泉の手がわずかに緩んだ。  沙月は壁に背を預けたまま、ずるずると力なくその場に座り込むと、背中を丸めて激しく咳き込んだ。急激に入ってきた空気に呼吸器官が追いつかず、何度も嘔吐きながらむせ返る。生理的現象によって溢れる涙は、さっき沙月が流した物とはまるで別物だと分かる。 「――おや? あなたは確か……芝山家の」  壁の向こう側から姿を現した人物がこちらに向き直ると同時に、静まり返った人けのない駐車場に低く澄んだ声が響いた。  泉は素早く沙月から離れると、その声の主――一条に向かい恭しく胸元に手を当て、深々と頭を下げた。 「こんばんは。こんなところでお会い出来るなんて光栄です」  人当たりの良い柔らかい声色が、沙月の頭上を通り過ぎていく。その声には、先ほどまで沙月に向けられていた殺気は微塵も感じられない。  冷たいコンクリートの床に両手をついたまま項垂れていた沙月の視線の先に、綺麗に磨かれた見覚えのある革靴があった。酸欠から起こる動悸とはまるで違う心臓の高鳴り。ふわりと漂った甘い香りに、沙月は顔を上げずともそこに誰がいるのかすぐに分かった。  自身の心を満たし、手を差し伸べてくれる存在。そして――贄花嫁である泉の本命。 「こんな場所で一体何をしているんですか?――あれ? 芝山……くん?」  泉の足元で蹲っている沙月に気づいた彼に不意に名を呼ばれ、ビクッと肩が大きく揺れた。沙月は、一条をはじめとする社内の人間に、兄の存在を明かしてはいなかった。もちろん、自分が贄家として栄えた名家、芝山家の人間であることも……。  沙月の様子が気になったのか、一条は足早に近づくとわずかに身を屈めて覗き込んできた。涙で濡れた目で一条を見上げた沙月は、唇を震わせて言った。 「い、一条……さん」  着衣を乱し、全身を震わせながら苦しげに胸を喘がせている沙月を目にした一条は、瞠目して息を呑んだ。そして、それまで浮かべていた優しげな表情を凍てつかせると、まるで敵視する相手を見るかのような鋭い目で泉を一瞥した。  人けのない地下駐車場。話をするにしては不自然とも思える場所だ。泉と沙月がどんな関係であるか知らない人であっても、一方が苦痛をあらわにして咳き込んでいるところを見れば、勘のいい者であれば、おおよその察しはつく。人間の内面を見抜き、その才能をビジネスに生かす一条であれば尚更だ。案の定、一条は泉に向き直ると、抑揚のない低い声で問うた。 「――彼はうちの社員だ。これはどういうことか説明してもらおうか?」  彼の様子に怯えるかのように長い睫毛を瞬かせた泉は、遠慮がちに口を開いた。 「まだ、あなたにはお話していませんでしたね。彼――沙月は、私の実の弟なんですよ。私も多忙の身でなかなか会うことも叶わずに何年も経ってしまって……。久しぶりに再会し、兄弟水入らずで食事に出かけたのですが、ご覧のとおり泥酔状態。まったく、兄として恥ずかしい限りです」  泉は微かに眉を顰め、さも弟の失態を恥じるような表情でため息をついた。その口調は実に雄弁で、誰もその場凌ぎの嘘であることに気づかないだろう。泥酔した弟を心配する兄――という、完璧に作り込まれた設定とシナリオ。そして、彼の疑いようのない演技力には、きっと一条も騙されてしまうに違いない。 「弟……?」  訝るように眉根を寄せた一条に、なおも畳みかけるように泉は続けた。 「人通りの多い場所では迷惑になると思いまして、ここで少し休むようにと……」  沙月は信じられない思いで目を見開いたまま、流暢に語る泉を見つめた。だが、先ほどの恐怖が完全に拭えたわけではない。そのせいか、指先はまだ小刻みに震えている。 「違う――っ」  掠れた声でそう言いかけた時、不意に頭の中に一条の低い声が響いた。 『今は、何も言うな……』  それは間違いなく彼の声だったが、一条は泉を見つめたまま唇をひき結んでいる。沙月は何度も瞬きを繰り返し、一条の口元を見つめた。しかし、彼の薄い唇が開かれることはなかった。 「え……」  耳から直接入ってくるものとは違う。どこか甘さを帯びた音声に戸惑い、沙月は開きかけた唇を震わせた。 「愚弟が御社に入社したという噂を耳にしましたが、どうやら本当だったようですね? 彼は、幼い頃からいろんなことに疎く、性格が良いとはいえません。この私が言うのもなんですが、使えないのなら早く見切った方がいい。本人のためにも御社のためにも……」  沙月は、怒りと悔しさに唇を噛んで俯いた。この会社でやりがいと自信を見い出し始めた矢先に、何年も会うことのなかった泉にこんなことを言われるとは思ってもみなかったからだ。舌先に鉄の味が広がる。血が滲むほど強く噛んだ唇に微かな痛みを感じ、沙月は奥歯を食いしばった。  泉の言葉を真に受けてしまうのか……。一条が吐いた短い吐息に、沙月は絶望を覚えた。 「それは、忠告と受け取った方がいいのかな? それとも、ただの嫌がらせと解釈するべきか? いずれにせよ、彼はまだ研修中の身だ。使えるか使えないかの判断は私が決める。それに……たとえ親族のあなたであっても、私の部下のことをとやかく言う筋合いはないと思うが?」  一条に鋭く切り込まれ一瞬怯んだ泉だったが、それにめげることなく彼の機嫌を取るかのように、柔らかな笑みを浮かべながら間合いをじわじわと詰めていく。 「私としたことが出過ぎた真似を。無礼をお許しいただけますか?」  長く綺麗な指先で一条の頬をすっと撫でると、猫のように体を擦り寄せる。そして、甘えた声で問いかける泉の姿に、沙月は愕然とした。 「お詫びに……食事にお誘いしても?」  一条の首に両腕を絡め、まるで恋人が何かをねだるかのように顔を寄せる。その表情は妖しく、その気がない男でも靡かずにはいられない色香を放っている。そんな泉の誘惑に一条は小さく吐息し、渋々といった感じで彼の細い腰に手を回して抱き寄せると、耳元に口を寄せて言った。 「――芝山家当主直々の誘いとあらば、無下には断れないな」  さも当たり前であるかのように泉の頬に軽くキスをした一条の姿に、沙月は胸が締めつけられるように苦しくなるのを感じた。胸元を掻き毟るように指を食い込ませる。地位や権力を手に入れるためなら手段を選ばない泉が選んだ相手――それが一条だ。贄花嫁である泉が、身近にいる人物を狩る姿を目の当たりにした今、沙月の中でそれまでかろうじて残っていた『血の繋がった兄弟』という関係が音を立てて崩れ始めた。目の前にいるのは、ただ己の欲求の為なら周囲を顧みず媚を売るサカリのついた猫だ。  泉の誘惑に負け、その誘いにのった一条に無性に腹が立った。リストラ寸前の沙月を拾い、一流企業への入社を認め、そして自身を変えてくれた一条には特別な感情を持っていた。しかし、それを口に出したことはない。沙月自身それが尊敬なのか、説明のつかない特別なものなのかハッキリとした判断がつかないでいたからだ。  一条に憤るのは筋違いだと分かっていても、胸にわだかまった熱はおさまってはくれない。所詮は富と名声、地位を持った者たちの間で繰り広げられている恋の駆け引きだと言い聞かせる他ないのか。  幼い頃から欲しいものはすべて手に入れてきた泉。沙月が欲しがった玩具も、好きになった女の子も、すべて泉が手に入れた。そのたびに悔しい思いをしてきたが、いつしかそれは諦めに変わっていった。泉だから仕方がない――彼には勝つことが出来ない自分への慰めの言葉だった。  でも、一条のおかげで失ったはずの自信を取り戻し始めている。沙月の歩く先に灯った、一条という名の輝く光――それが、沙月が知らなかった希望への道しるべになった。でも、泉の出現によってそれさえも奪われようとしている。ずっと我慢を重ね、やっと手に入れた今の生活が彼の手によって壊されようとしている。底知れぬ恐怖に、奥歯が小さく鳴った。 (怖い……。嫌だ……っ)  絶対に渡したくない――沙月は乱れたスーツの襟元を掻き合わせてきつく目を閉じた。暗い瞼の裏で幼い日の自分がフラッシュバックする。それは社長室で見た光景に似ていた。黒い影は大きくて逞しく、そして優しく沙月を抱きしめる。甘いバラの香りが全身を包み込んで、荒んでいた心が穏やかなものへと変わっていく。 『――俺のモノになるか?』  甘さを含んだ低い声が、心にも体にも心地いい。 (誰……?)  沙月が問いかけた瞬間、掌に冷えたコンクリートの硬さを感じ、一気に現実に引き戻された。閉じていた目を開けると、一条と泉が抱き合ったまま囁き合っている。まるで恋人同士の睦言のように、いつ触れるとも分からない唇がもどかしい。 (夢……?)  刹那の幻覚に混乱しながら、ふと無意識に触れた首筋に微かな熱を感じて眉を顰めた。指先でその場所に触れながら顔を上げると、泉の肩越しにこちらを見る一条の視線とぶつかった。泉と話しながらもこちらを見据える瞳は甘く、慈しみさえ感じられる。本来ならば泉に向けられるはずの視線がなぜ?  魔族である一条に選ばれ、その花嫁となるのはは沙月ではない――そう自分に言い聞かせるたびに、首筋の熱が甘い疼きへと変わっていく。 「はぁ……んっ」  一条から目を逸らせない。沙月の心を見透かすように、黒い瞳がわずかに青みを帯びていく。まるで一条に視姦されているような感覚に、強烈な羞恥を覚えた。沙月は体内に籠った熱を吐き出すと、叶うことのない渇望に小さく体を震わせた。沙月の目尻から涙がとめどなく溢れ出し、堪えきれずに目をそらした。 「――このまま泥酔した彼を放ってはおけないだろう? 秘書に送らせる」 「どこに?」 「彼のアパートに決まっているだろう? 何を勘繰っている?」  一条は、執拗に真意を確かめようとする泉に乾いた視線を投げかけながら、寄り添っていた彼の体をやんわりと押し戻すと、上着のポケットから取り出したスマートフォンをタップした。耳元に押し当てて指示だけ済ませると、すぐに電話を切った。そして、一度は遠ざけた泉の腰を再び抱き寄せると、振り返ることなくエレベーターホールへと向かった。  高らかな靴音と共に二人の姿が視界から消える。肩を上下させて息を整えている沙月のもとに、しなやかで綺麗な――そして、見覚えのある手が差し出された。 「お送りいたします……」  その声に弾かれるように、涙に濡れた頬を手の甲で拭いながら見上げると、そこには柔らかな笑みを湛えた保科が立っていた。汚れることも構うことなく、保科は沙月の手を優しく握りしめると、ふらつく体を支え起こしてくれた。未だ、泉から与えられた恐怖から脱しきれない体が小刻みに震えていたが、保科の腕に包まれたことで少し落ち着きを取り戻していた。  保科にエスコートされ、駐車場にとめてあった一条の愛車である漆黒の高級外国車の後部座席に乗り込む。運転席に座った保科がドアを素早く閉めると、同車は静かに発進した。  ホテルの立体駐車場を出て駅前の大通りを抜け、しばらく走った場所で再び車は地下の駐車場へと入った。見慣れない場所に、沙月は緊張の色を滲ませてシートから背を浮かした。引き払ったとはいえ、自分がそれまで住んでいたアパートは車で一時間以上かかる郊外にあった。泉の監視から逃れるため、カモフラージュでその方面に向かうと思っていただけに動揺を隠せなかった。 「あの、保科さん。俺のアパートは郊外の……」  先ほどの薄暗い駐車場とは違い、LED照明が設置されたその場所は明るく、防犯上の配慮からか死角になるようなコンクリートの仕切り壁のようなものは一切見当たらない。その代わり、太い鉄骨の柱が一区画ごとに建てられている。何より沙月が驚いたのは、天井際の梁下に設置された防犯カメラの台数の多さだった。  順路を迷うことなく巧みなハンドル捌きを見せる保科。奥へと進み、エレベーターホールにほど近い場所で車は止まった。それまでだんまりを決め込んでいた保科がハンドルから手を離すと、肩越しに振り返った。 「今夜はここでお休みください。必要なものは、私がホテルから持ち出してきます」 「ちょ、ちょっと待って下さい! ここって……」  周囲を見回すと、高級外国車が整然と並んでいる。中には、見たこともない車種もある。ここもまた、ホテルの地下駐車場のようだ。また泉に何をされるか分からない。だがこれ以上、一条にも保科にも迷惑はかけたくない。沙月が困惑していると、後部座席のドアが開かれた。 「降りてください。ご案内いたします」  保科のいつになく硬質な口調に、沙月は素直に従うことを余儀なくされた。車を降り、彼の背中を追いかけていくと、エレベーターホールの壁面にオートロック装置が設けられていることに気づく。それを慣れた手つきで解除して、内ポケットから取り出した専用カードキーを通した保科は、沙月の手を掴むと、下りてきたエレベーターに素早く乗り込んだ。  ずらりと並んだフロアボタン表示から、ここがホテルではなく高層のタワーマンションであることを知った。保科は迷うことなく最上階フロアのボタンを押した。高速で上昇するエレベーター内は、重々しい沈黙に包まれていた。それを破るかのようにポンッと小気味よい音が響き、同時にドアが開く。下り立ったフロアの正面に一つだけ豪奢なドアが現れた。 「ここは……」  見たことのない空間に戸惑いを隠せない沙月は、恐る恐る足を踏み出した。ドアの横に設置されたセキュリティシステムに保科がカードを差し込むと、カチリとロックが解除される。駐車場の監視カメラといい、エレベーターホールからこの部屋に至るまでといい、厳重なセキュリティ管理がなされているのが分かる。ドアを開け、薄暗い中に入るように促されると、センサーライトが反応し沙月の行く先を照らしてくれる。そこには、鏡のように磨かれた大理石の廊下が奥まで続いていた。ふわふわのスリッパに履き替え、耳が痛くなるほどの静けさを壊すように突きあたりのドアを開ける。そこは、ガラス窓一面に見える夜景をバックに、シンプルな家具類が置かれた広いリビングルームになっていた。 「――社長のご自宅です。ここにあなたをお連れするようにと」 「自宅? ちょっと待ってくださいっ。さっきはアパートまで送らせるって……」  緊張と思いがけない展開に、沙月の声が裏返った。そんな沙月を見ても、保科は表情を崩すことなく続けた。 「もう解約してしまった部屋にお連れすることは出来ません。――おそらくですが。あのホテルもアパートも、あなたのお兄様はお調べになっていたのでしょう。そうでなければあの場所で、あなたを待ち伏せることなど不可能ですから。ホテル滞在の件は、社長の指示で他者に知られぬよう配慮していたのですが……。こちらのミスです。申し訳ありませんでした」  深々と頭を下げて謝罪する保科に、沙月は驚きで言葉を失った。それにしても――実の兄に滞在先のホテルを知られたからといって、いきなり一条の自宅マンションに来ていいという話にはならない。それに、一条が魔族であるということを知ってしまった今、自分がここにいる理由が分からない。 「だからって……。俺がここにいる意味が分かりません」 「これ以上、あなたを危険な目に遭わせるわけにはいきませんから」  そう言うと保科は、キッチンの方へと向かった。しばらくして戻った彼が手にしていたトレーには、ボトルワインとグラスが乗っていた。ポケットから出したナイフで封を切り、オープナーでワインのコルクを抜く。無駄のない慣れた動きはソムリエのようで、秘書という概念を越えていた。  グラスに半分ほど注いだ赤ワインを、茫然と立ち尽くしている沙月にそっと手渡すと、一度だけ瞬きをした。 「この部屋にあるものはすべて、ご自由にお使いください。バスルームも用意は整っています。空調は自動にしてありますが、寒いようでしたらソファにある毛布を使って下さい。少し飲まれた方が気持ちも落ち着くでしょう」  断る間もなく……というのはこういうことを言うのだろう。保科の勢いに圧され、グラスを口元に運んだ沙月は、乾いた喉を潤すワインの味に瞠目した。正直なところ、ワインの良し悪しなど分からなかった。しかし、Iコーポレーションに入社して一条や石本らと食事する機会も増え、今まで飲んでいた酒がどれだけ安価で体質に合わない物だったかを実感した。彼らは沙月のことを思い、アルコール度が低く、それでいて口当たりの良い物だけを選んでくれていた。保科に勧められたワインもまた、渋みもなく口当たりがいい。 「お気に召しましたか?」  グラスを唇に当てたまま頷いた沙月に安堵し、それまで強張っていた保科の表情が初めて緩んだ。 「私はまだ仕事がありますので、これで失礼いたします」 「待ってくださいっ」  恭しく胸に手を当てて一礼した保科を、沙月は咄嗟に呼び止めていた。背を向けかけた彼がゆっくりと振り返り、沙月に向き直る。ここに来るまでずっと気になっていたこと。一条本人に聞くことは憚れたが、秘書である保科ならば彼のことを教えてくれるかもしれない――そう、思った。 「――一条さんは、魔族なんですか?」  沙月の問いに眉をわずかに動かした保科は、薄い笑みを浮かべて言った。 「怖いですか?」 「いえ……っ。そういうんじゃなくて……」 「魔族と言えども、人間と変わらずこうやって生活しています。ですが、昔のようにその姿を晒すことはせず、人間に気を遣って生きているのは魔族の方なんですよ。本当に怖いのは、怖いもの知らずの人間のほう。感情の赴くままに怒り、憎み、そして殺める……」 「保科さん……」 「あなたを含め、人間は嫌いではありません。でも……なかには気を乱す者もいる。――少し喋りすぎたようです。失礼いたします」  そう言って保科はリビングを出ていった。玄関ドアが閉まる音が廊下に響いて、沙月は一人になったことを知った。  憤っているという口調ではないが、保科の言葉には重みが感じられた。人間よりもはるかに長寿である魔族が望んできたこと――それは、人間との共存。だが、それを受け入れられない者もいる。それでも譲歩し、己の感情を押し殺して現代を生きている。  一条が魔族だと知っても、不思議と恐怖心はなかった。むしろ、自身に殺意を抱いていた泉の方が怖かったくらいだ。しかし、こんなことが許されるはずがない――そう思った。  初めて訪れた一条の部屋。緊張していないと言ったら嘘になる。それでもと汚れた上着を脱ぎ、遠慮がちにソファに腰掛けた。そして、傍らに置かれていた上質な毛布を勢いよく頭から被った。  広いリビングのほぼ中央に置かれたソファは、狭い部屋での暮らしが長かった沙月にとっては居心地がいいとは言えなかった。こういう時は狭い壁際のベッドで丸くなっていたい。しかし、間接照明の淡い光が照らすリビングは、不思議と沙月の乱れた心を落ち着かせてくれた。  じっと動かずにいると、今日一日の出来事がぐるぐると頭の中を巡り始める。それまで音信不通だった泉が、突然沙月の前に現れた理由。魔族である一条との関係……。首を絞められた時の痛みと恐怖、そして泉が纏っていた甘いムスクの香りを思い出し、沙月は胃から込み上げるものを感じ、口元を押さえてソファから勢いよく立ち上がると、そのままトイレに駆け込んだ。  曇り一つなく磨かれた洗面カウンターの鏡に映る自分が、まるで捨て猫のように哀れに見える。冷たい水で何度も顔を洗い、やっと治まった吐き気に大きくため息をついた。  リビングに戻るとソファに深く腰掛け、また毛布を頭から被ってそのまま目を閉じた。極度の精神状態から来る疲労のせいか、うとうとと浅い眠りを繰り返していると、不意に耳に入ったバタンッという物音に肩を震わせた。 (まさか……泉?)  眠気が覚め、緊張に身を強張らせる。それでも、保科が言っていた『安全』だという言葉を信じて、毛布の中で小刻みに震える冷たい手をぐっと握りしめた。 *****  一方、泉と行動を共にした一条は、彼の行きつけだというイタリアンレストランにいた。急遽押さえたであろう個室で、お世辞でも美味しいとは言えない料理と平行線を辿ったままのつまらない会話に辟易していた。  沙月の身は保科に任せてあったのでそう心配することはなかったが、一条が魔族だと知ってしまった彼の心情の方が不安でならなかった。贄花嫁であるというだけで、泉からの誘いを無下にすることも出来ず、時々会っていることもひた隠し、とにかく沙月の心を波立てぬようにしてきた。  しかし、なんだかんだと理由をつけて誘いに応じず、煮え切らない態度をとる一条に痺れを切らしたのか、まさか泉自身が実力行使に打って出るとは思ってもいなかった。  芝山家当主となった泉は、弟である沙月とは絶縁状態であったはず。それがなぜ、今頃になって沙月をさらに追い詰めるようになったのか……。その理由は、花嫁選定の日が確実に近づいていることを意味していた。  花嫁選定協会に対し、一条家はまだ今回の選定協議に関する辞退届は出していない。辞退するには、それが贄家であろうが魔族サイドであろうが、それなりの理由が必要だからだ。花嫁選定を受ける贄家は、その時点で十五歳以上の嫡男がいる家系に限定される。選ばれた者が成人し、魔族の花嫁としてふさわしい者であると認められ、初めて選定の場に足を運ぶことが出来る。  成長を待つ間に不慮の事故や病死、はたまた破産や没落などのトラブルが起こることもある。その場合は協会側が審議し、贄家から除外される。花嫁候補に選ばれた者は選定までの間、名を挙げた魔族と会うことだけは許されている。だが、性交渉や行き過ぎた交際はご法度とされている。それは、選定前に既成事実を作らせないためだ。魔族は種族によって違いはあるが、人間よりもはるかに優れた生殖能力を持つ。たとえ相手が男であろうとも、もとはなかった身体に新たに『子宮』を作ることも可能なのだ。そうやって、血筋を絶やすことなく長い時を生きてきた。  魔族と人間。互いに恋に落ち、子を成すことは禁忌ではない。元来、災害などの災いを祓うため、土地の平穏を願っての鎮守だったものが、いつしか魔物への生贄は財力と名声を手に入れるための政略結婚へと変わっていった。  花嫁選定の神事と言えば聞こえはいいが、ただ有能な子種を作りたいがためのエゴ――そう『仕来たり』だの『ならわし』だのという古来からの風習を利用した、ただの見合いに過ぎない。禁忌でなければ、魔族だろうと人間だろうと関係ない。互いが想い合っているのであれば誰と結婚しようと個人の自由だ。こんな馬鹿げた風習に付き合っているほど暇ではない――と、一条は常日頃から思っていた。現に、十年前に自分の意思に従って花嫁を見つけている。ただ、それを公表していないだけの話だ。 「――明日は、朝から大事な契約がある。そろそろ帰ろうか?」 「一条さん……最近冷たくないですか? 俺、今夜はずっと一緒にいたいって思ってたのに」  駐車場で沙月に対して殺気を漲らせていたとは思えない『花嫁仕様』の泉が、拗ねたように唇を尖らせる。毎回、甘えた声で一夜を共にすることを誘われる。その度に一条は、沙月の前では決して吸うことのない煙草の数が増えていく。今も然り……唇の端に咥えて、細く煙を吐きながらすっと目を細めた。  泉は気がついていないのだろうか。爽やかなシャワーソープと甘い香水の匂いで誤魔化してはいるが、そう古くない複数の男の精液の匂いを撒き散らしていることを……。幾度となく繰り返されてきた性交で、彼の血は穢れ、香りも良くない。その不快とも思える匂いを消すために、必要以上に煙草を吸ってしまう。  花嫁と嗜みとして、伴侶となる魔族のために性技を身につける者もいるが、初い花嫁ほど愛らしいものはない。これは好みの問題ではあるが、一条は手練れた者よりも慎ましく恥じらう花嫁の方が躾け甲斐があると思っていた。生涯を共にする、たった一人の伴侶を自分好みに仕上げていくというのは何とも心が躍る。男どころか、女さえも知らない沙月が、一条の愛撫に震え、可愛らしく声を上げる姿は堪らない。ここのところ、沙月の体調を考慮して控えていたが、そろそろ自身の我慢の方が限界に近づいている。そんな沙月の姿を思い浮かべるたびに苛立ちが募り、一条は目の前にいる泉に冷ややかな視線を投げ続けた。 「――甘えても、ダメなものはダメだ。選定前に規定を破ることは出来ない」 「一条さんって見た目に反して、結構お堅いこと言うんですよね……いつも。そのたびに俺は、寂しい思いをしてる」  出来ることならこの場で盛大に舌打ちでもしてやりたい気持ちをグッと抑え込み、わざとらしい咳払いを数回繰り返す。一条は、泉の猫撫で声を無視して店のスタッフを呼んでチェックを頼むと、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けて、目も合わすことなく席を立った。 「一条さんっ!」  焦ったように声を上げた泉を一瞥して、黙って背を向ける。そして、抑揚なく言い放った。 「――泉さん、選定に名を挙げている魔族は私だけではない。なぜ、そこまで執着する?」 「決まりきったことを言わないでください。我が芝山家は贄家として歴史に名を残した名家ですよ? 当家が吸血鬼一族の名門である一条家と縁を結ぶことは必然。そうではありませんか?」  一条は泉に気づかれないように吐息して、額に落ちた一筋の髪を後ろにかきあげた。無意識のうちに薄い唇が嫌悪に歪む。確かに、芝山家と親戚関係になれば金や権力に困ることはない。だが、一条家にはそのような下賤な悩みは不要だ。  一条の亡き父である京一の口癖。 『自身が思うように動けば、周りも自然とついてくる。だが、自身が揺らげばすべても揺らぐ』  その精神で地位も名声も財力も、欲しい物はすべて手中に収めて来た。唯我独尊を地でいく父親に対して若い頃は反発もしたが、今となってはその言葉が嘘偽りではなかったと断言できる。それ故に、今更政略結婚などする必要などどこにもない。  今、一条が求めてやまないものは、泉と同じ芝山の血を継いだとは到底思えない沙月のすべてだ。純粋で穢れを知らない美しい栗色の瞳、絹のように滑らかな白い肌、そして一条を欲情させる甘い血。 「何をもって必然という? そんなこと、誰が決めた?」 「それは……」 「あなたは本当の愛というものを知らない。――覚えておくといい。そのような花嫁に、魔族は心を揺さぶられることはない」 「一条さんっ」  今にも泣き出しそうな声で叫んだ泉だったが、一条は振り返ることなく個室をあとにした。  *****  一条の逞しい背中がドアの向こうに消えるまで見つめていた泉だったが、ギリッと歯ぎしりすると飲みかけのワインのグラスを勢いよく持ち上げ、赤い液体を一気に煽った。 「――沙月か。今度こそ……必ず息の根を止めてやる」  この街に沙月が現れたという情報を受け、密かに彼の身辺調査をしていた泉は、ここ一ヶ月ほどの間に報告される一条とのことに怒りと焦りを感じていた。  沙月など自分のライバルではないと思っていた。何を比べてもすべてに劣る彼がなぜ、一条に気に入られているのか……。思い起こしてみれば、幼い頃からその片鱗はあった。沙月の無自覚な振る舞いが使用人からの同情を誘い、母親の愛情を我が物にした。それに気づいた時点で即刻、使用人は解雇し、母から遠ざけた。一条家の花嫁となるために、泉が形振り構わず行ってきた努力が、ここに来て覆されることになるとは思ってもみなかった。案の定、沙月は一条が古くから続く吸血鬼一族であることを知らなかった。もちろん、泉の大本命であることも……。  無自覚ゆえの行動であったとしても、一条のまわりをうろつくのは気にくわない。まかり間違えば、一条の隣に並ぶ花嫁が沙月になる可能性もあるのだ。そうなる前に、目障りな沙月を消してしまった方がいい――。その計画を実行する前に、彼に一度だけャンスを与えた。久しぶりの再会を装い、一条に近づくなと牽制した。それなのに沙月は、素直に応じることはなく、逆に反抗的な態度を示した。  あの時、タイミング悪く一条が現れ手が緩んだが、もしも誰にも邪魔されることがなかったら、確実に沙月を絞め殺していただろう。  沙月の顔を見た瞬間、まだ計画段階であったものが突然『実行』へと切り替わった。苦痛に顔を歪ませ涙を流す沙月をもう一度見たい……。許しを乞いながら、生まれてきたことを後悔すればいい。支配者は富と名声、そして強大な魔力を手に入れてこそより美しくなれる。傅く者を魅了し、絶対的な地位を確立する。そのために必要なのは、一条家という最強のブランド。 「一条真琴は俺のモノだ……。誰にも渡さない」  泉は、唇を濡らした赤ワインを乱暴に手の甲で拭うと、舌先でぺろりと舐めた。その姿は人間とは思えない、魔物よりもより魔物らしい顔だった。

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