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【5】

 イタリアンレストランを出た一条は、店のある場所から少し先にハザードランプを点滅させて停車している保科の車を見つけると、足早に歩き始めた。  一条の気配に気づいたのか、運転席から保科が姿を現し、後部座席のドアに手をかけて主の到着を待っていた。 「――お疲れ様でした」 「沙月は?」 「ご指示の通りに……。ただ、精神的なショックが心配です」 「そうか……」  思慮深く顎に手をかけた一条のすぐそばで一つの影が動いた。すっと目を細め、神経を研ぎ澄ます。それまで抑え込んでいた吸血鬼としての力を解放し、わずかに伸びた牙を剥く。  まだ泉の関係者がうろついているのかもしれないと警戒はしていた。保科もまた、その点を考慮して慎重に動いていたようだ。尾行されないように気配を完全に消していたのにも関わらず、まだ一条に付き纏うとはどこまで厚かましい男なのだろう。  保科は靴底をゆっくりとずらしながら、一条を庇うようにその影の前に立ちはだかった。 「――吸血鬼一族、一条真琴か?」  薄闇の中から響いた若い男の声。何より、自分たちの正体を知っているということに二人は息を呑んだ。  普段、人間には絶対に気づかれないように力を抑え込んでいるため、本来の姿を知る者は限られる。もし人間に正体が知られれば、記憶を操作するか命を奪わなければならなくなる。面倒なことを思えば、後者は是が非でも避けたいところだ。 「何者ですか? 名を名乗りなさいっ」  保科の鋭い声に、その影はうっすらと笑い声を発した。 「――随分とピリピリしているな。それとも……芝山家当主との密会を知られたくない理由でもあるのか?」 「何者だ……」  一条が保科を制し、自ら一歩前に足を進めると、街灯が途切れた暗い場所に向かって低い声を放った。この季節ではありえないほどの冷気が足元を包み込んでいく。一条たちの周囲の空気がピンと張り詰める。強い耳鳴りと、吸血鬼一族とは異なる空気感。妖艶な甘い香りが鼻腔を擽ると同時に、その影が結界を張ったことに気づく。 「――姿を現せ。我らを結界内に取り込んで、一体どういうつもりだ?」 「一条真琴と、二人きりで話がしたい」 「俺と……?」 「あぁ……。ちょっと込み入った話だ」  未だに姿を見せない『影』ではあったが、攻撃を仕掛けてくる様子は感じられなかった。彼が、争いではなく話し合いを求めているのであれば、同じ魔族として素直に応じるのがルールだ。  一条は保科に目配せし車での待機を指示すると、ゆっくりと声のする方へと足を進めた。闇の中にぼんやりと浮かぶ長身の男。仕立てのいいダークカラーのスーツに身を包み、口元に湛えた笑みは美しく妖艶だ。 「ここで話すのか?」  結界を張っているとはいえ、人や車が往来する道路沿い。込み入った話とあれば腰を落ち着けて話したいところだ。 「用件は手短に話す」 「その前に名乗ったらどうだ?」  一条の呼びかけに、その姿をハッキリと現した青年の赤い瞳と視線がぶつかった。白い肌に、赤く映える薄い唇が優雅に弧を描きながら動いた。 「――申し遅れました。私は桜坂(おうさか)幸徳(ゆきのり)。淫魔一族、桜坂家当主……。どうぞお見知りおきを」  初対面でありながら人を食ったような挨拶ではあったが、彼の噂は一条の耳にも入っていた。今回の花嫁選定に名を挙げている魔族の一人。昔から日本に住む妖で、歴史ある名家であることもさることながら、政界・経済界にも幅を利かせていた先代の父親から代替わりし、国内でも指折りの一流総合商社の社長に就任した男。彼の手腕で業績もさらに上向き、最近では海外進出も果たしている。  一条とそう歳は変わらない。ただ、少しばかり幼い顔つきのせいか若く見える。ヤンチャ坊主がそのまま大人になったような彼に、一条は小さく吐息して言った。 「噂は聞いている。どうやら礼儀を知らないわけではなさそうだ」 「当たり前だ。天下の一条家を敵に回すとどうなるか、俺だって知らないわけじゃない」 「じゃあ……。なぜ、こんな待ち伏せのような真似をする?」 「――小さな不安はすぐに大きなものへと変わる。その速度は自身でもコントロール出来ない」 「何を言っている?」 「単刀直入に言う。芝山 泉に近づくな」  幸徳の敵意を露わにした申し出に、一条は一瞬言葉を失った。確かに、ここのところ泉にしつこく誘われることが多く、一緒に食事に出かけていたことは否めない。だが、その真意は興味のない男と過ごす無駄な時間だった。それがどう幸徳の目に映っていたかは分からないが、彼の機嫌を損ねていたことには間違いないようだ。一条は大仰にため息をひとつ吐いてから、沈黙を破るように低い声で問うた。 「――お前の本命贄家は芝山か?」 「その通りだ。ここでハッキリと言っておいた方が後々面倒がなくていいと思ってね」 「じゃあ、俺もハッキリ言おう」  一条はネクタイのノットに指を差し入れて、ゆっくりと緩めながら紫がかった金色の瞳で真っ直ぐ幸徳を見つめた。 「――芝山 泉には、まったく興味がない」 「え……?」 「お前に嘘をついたところで何になる。――お前、口は堅い方か?」 「あぁ……。魔族同士で交わされた約束を違える勇気はない。何より命が惜しいからな」 「いい心がけだ。正直なところ、泉に付き纏われて迷惑している。どんな男のモノでも咥え込むような淫乱な花嫁など、こちらから願い下げだ。吸血鬼一族は高潔でプライドが高い。ふしだらな尻軽花嫁を迎えてみろ、一族から何を言われるか分からない」  一条の言葉に茫然となった幸徳は、瞠目したまましばらく動かなかった。ハッと我に返ったように瞬きを繰り返した後で、じわじわとこみ上げてくる笑いに堪えきれず、クッと喉の奥を鳴らして肩を揺らした。 「――それって、なにげにディスってる? 俺たちのこと……」 「いや。そんなつもりは毛頭ない」  至極真面目な顔でそう返した一条に、幸徳は腹を抱えて笑った。 「俺たち淫魔は、あなたたちとはまるで正反対。淫乱で、一時でも繋がりを解きたくないという花嫁を望む。子を増やし、血統をより堅固にするためにな。――なぁ、泉は俺の花嫁にピッタリだと思わないか?」  抱いていた疑念から解き放たれた安心感からか、急に砕けた口調になった幸徳に、一条はまんざらでもない笑みを浮かべて応えた。 「芝山の財力も権力も、手に入れて無駄なものは何一つない。それに、お前と泉ならば愛らしい子が生まれるだろうな」 「そうだろ? 俺もそう思っている」 「じゃあ、手に入れればいいだけの話だ。俺に気兼ねなく、お前の好きにすればいい。――まだ協会側に申請も公表もしていないが、俺は花嫁選定を辞退するつもりでいる」 「え? 冗談でしょ? 最高の条件を兼ね揃えた切り札が辞退とか……」 「十年前に契りを交わした婚約者がいる」 「こ、婚約者? それは初耳だな……」 「軽々しく口にするわけがないだろう。お前を信用して話をする。その相手は、泉の実の弟である芝山沙月だ」 「は?」 「俺が花嫁にしたいのは、贄家の長男ではなく次男だ。十年前に一目で恋に落ちた。我が家にも花嫁選定の話は来ていたが、もう彼以外の花嫁はいないと思った。俺の呪縛で、まだ男も女も知らない、純粋で愛らしい男だ」  沙月のことを思い出して自然と口元が緩む。それを間近で見ていた幸徳は「へぇ~」と感嘆の声を上げた。 「一条さんを堕とすなんて相当だな。だけど、処女は勘弁願いたい……」 「だったら手を出すな。まあ、俺の噛み痕がある以上誰も手出しは出来ないがな。――ここでお前と逢ったのも何かの縁だ。どうだ? お互いの目的がはっきりしたところで、協定を結ばないか?」 「取り引きってことですか?」 「協定だ。芝山家の兄弟と互いに婚姻を結べば、俺とお前は嫌でも親戚関係になる。不本意ではあるが、ここで『義弟』という立場を受け入れてやる」 「不本意って……。義弟になってもあなたの方が俺よりもはるかに格上だ。立場の逆転はない」 「物分かりのいい『義兄』は嫌いじゃない。――俺の求めているものは沙月との平穏な生活だ。それを約束してくれるのであればどんな協力も惜しまない」 「早急に?」 「選定協議までそう時間はない。早く動いた方がお前の方も都合がいいだろう? それに……泉は、俺に懐く目障りな沙月を殺そうと企んでいる」  ピューッと尻上がりの口笛を吹いた幸徳は、赤い瞳をさらに輝かせた。そして、武者震いのように体を小刻みに震わせて、興奮した様子で言った。 「あぁ……それでこそ淫魔の花嫁に相応しい。実の弟を殺そうとしてるとか……破壊力ハンパないなっ。――善は急げ。策はこちらで考える。追って連絡します!」 「絶対に気づかれるなよ……いいな?」 「もちろんですよっ。一条さんに迷惑はかけません」 「連絡先は明日、従者の保科に電話させる。いいか?」  嬉しそうに勢いよく差し出された幸徳の手をがっしりと掴み、固い握手を交わした一条はそれ以上何も言うことなく彼に背を向けた。直後、二人を包んでいた周囲の結界が消え、道路を走り抜ける車のエンジン音がまるで騒音のように耳に入ってきた。 (早く帰ろう……)  幸徳の姿が視界から消え、車から慌てて出て来た保科が不安げな顔で一条を見つめている。彼の言いたいことは分かってはいたが、今はマンションに残してきた沙月の方が心配でならない。保科には明日、すべてを話すことを決め、何かを言いたげな視線から逃れるように、一条は素早く車に乗り込んだ。 *****  一条のマンションで一人、リビングのソファで毛布を被っていた沙月の前に姿を現したのは、不機嫌な表情を隠そうともせず、イラついた様子でネクタイを引き抜く一条だった。  ネクタイに続き、煙草と香水の匂いのする上着をその場に脱ぎ捨てると、ちらりと沙月に視線を向けてから奥のバスルームへと消えていった。沙月は、迂闊にをかけられないほど張りつめた空気に戸惑いながら、ドアの向こうから微かに聞こえるシャワーの音を聞くともなしに聞いていた。  二十分ほどして、アイボリーのバスローブを羽織った一条が濡れた髪をタオルで拭きながら姿を現した。その表情は先ほどとは打って変わり、穏やかで優しいものだった。しきりに視線を彷徨わせていた沙月の前に身を屈め、柔らかな声音で問うた。 「――大丈夫だったか?」  少し掠れてはいるが、甘さを含んだ彼の声に安堵しつつ、毛布を被ったままゆっくりと視線を上げた。泉のことをとやかく言える立場でないことは分かっている。でも、沙月の中に生まれた新たな感情が硬質な声音となって発せられた。 「一条さんこそ……。泉と一緒じゃなくて良かったんですか?」  一瞬、眉間に深く皺を寄せた一条だったが、すぐに元の柔らかな表情に戻ると、毛布の上から沙月の頭を優しく撫でた。  そして、テーブルの上に視線を向けた彼は、そこに置かれていたワインクーラーの氷が解けていることに気づき、苦しげに吐息すると沙月の隣に腰を下ろした。 「長い間、一人にさせてすまなかった……」 「平気です。慣れていますから……」 「食事は?」  沙月がゆっくりと首を横に振ると、彼は「そうか」と短く呟いた。  一条には聞きたいことがたくさんあった。そのどれもが、聞くことを躊躇うものばかりだった。真面目で誠実な上司である彼のことだ。問いかけには必ず答えてくれる。でも、その答えを聞いてしまったら自分が傷つくのではないかという恐怖から口に出せないでいた。一条の肩が触れるたびに、心臓が大きく跳ねる。恐怖と紙一重の安心感。長い沈黙に耐えきれなくなった沙月はついに口を開いた。 「あの……。兄を御存じだったんですか?」 「あぁ。ついでに言わせてもらえば、君が彼の弟だということも知っていた」 「え……。俺、あなたにも社内の人にも話していないのに」 「あの男も、自分に出来の悪い弟がいるということを私に知られたくなかったんだろう。兄弟であるにもかかわらず、ほぼ絶縁状態だったのも知っている。雇い主としては社員の素性を把握しておく必要があるからな。体面上は縁を切っても、戸籍までは偽装出来ない」 「――そうだったんですか。じゃあ、話は早いですね。俺を解雇してください」  突拍子もない申し出であることは沙月自身も分かっていた。案の定、一条は目を見開いたまま息を呑んだ。咄嗟に沙月の腕を掴んだ一条の力強さが、なぜか嬉しかった。 「なぜ、そうなる?」 「だって、そうでしょう? これ以上、一条さんに迷惑をかけられない……」  重々しくため息をつく沙月を覗き込むように身を屈めた一条。彼が身じろぐたびにふわりと広がる甘い香りに、今度は沙月が小さく息を呑んだ。甘いバラの香りが沙月の体を優しく包み込んでいく。 (香水じゃなかったのか……)  ボディソープと間違えることはない。シャワーを浴びたあとでも変わらない一条が放つ香りに、沙月はゆっくりと目を見開いた。懐かしく、そして鮮烈で……心を癒す香り。 「――君と彼の確執。それに、家族からも見放されていたことも知っている」 「え……っ」  魔族となれば、ひた隠しにしてきた素性までも分かってしまうのだろうか。しかし今、自分の隣にいるのはいつもと変わらない一条だ。彼が魔族だなんて信じられない。でも、泉は確かに言った。花嫁になるためだけに生きてきた彼が、魔族以外の男に媚びを売るような絶対に真似はしない。  泉との確執は、沙月が生まれた時からあった。でも過去のことは、今まで誰にも話すことはなかった。しかし、一番知られたくなかった一条に暴かれてしまった。心臓が早鐘を打つ。幼い頃から内に秘めてきた劣等感、それをどこにも放出することなく生きてきたはずだったのに……。 「どうして……それを……っ」  一条の黒い瞳を真正面にとらえた瞬間、沙月はこめかみに鋭い痛みが走るのを感じて、指を強く押し当てた。息が苦しい……。肺を締め付けられるような――いや、これは心臓の痛みなのかもしれない。見えない何かに握り潰されそうな圧迫感に「うぅっ」と低く呻いて、隣にいる一条に凭れかかった。 「く……る、し……っ」  口をパクパクさせて酸素を取り込もうとするのだが、うまく息が出来ない。石本と行動を共にしてから治まっていた発作的なものが、再発してしまったのだろうか。一条を意識すればするほど悪化していくような気がしてならない。 (また、嫌われてしまう……)  沙月は、一条と離れてしまう恐怖に耐えきれず、彼のバスローブの袖をギュッと握った。そして、すぐ近くにある彼の顔を虚ろな眼差しで見つめた。一条は眉根を寄せ、真剣な表情で見下ろしていたが、不意に指先を沙月の乱れたままのワイシャツの襟元に這わせると、ゆっくりとボタンを外し始めた。驚きと戸惑いに沙月が身じろぐと、それまで被っていた毛布が大理石の床に滑り落ちた。  大きく胸元まで開かれた沙月の首筋を覗き込むように、体を動かした一条は忌々しそうに舌打ちした。。沙月の白い首筋には、泉に締められた痕がくっきりと残っていた。赤く鬱血したその痕を一条の指先がそっとなぞっていく。 「可哀想に……。こんなに痕が残るほど締められたのか」  冷たい指が肌の上を動くたびに背筋がゾクゾクする。苦しくて堪らないのに、次々に疼きのようなものが生まれ、血液が体中を巡っていく。 「どうやら本気でお前を消すつもりだったようだな。もしも――アイツがお前を殺していたら、俺はどうなっていただろう」  今まで見たことのない憂いを含んだ表情に、沙月の体が甘く痺れ始める。鼓膜を震わせる声も、耳元にかかる息も、すべてが感覚を研ぎ澄ましていく。 「いち……じょ……さん?」  沙月を見下ろす一条の野性味を帯びた瞳が怒りを湛えたまま、すっと細められる。すると首筋の一部分が急激に熱を帯び、それが体中にじわじわと広がっていくと、沙月の下肢を顕著に反応させた。 「――我が婚約者に手をかけるなど、絶対に許されることではないぞ」 「こ、婚約……者っ? ちょっと……待って下さ……い。一条さん、誰かと……勘違い――っ」  一条の口から出た信じられない言葉に、沙月は掠れた声を上げた。はっきりとは聞き取れない声ではあったが、一条は沙月が言わんとしたことを理解しているかのように微笑んだ。そして、沙月の顎を掴み上向かせると、苦しげに呟いた。 「お前も……俺も……。もう限界だ――」 「えっ。いちじょ――っむふ!」  沙月の言葉を遮ったのは、一条の薄い唇だった。突然のことで何が起きたのか分からなかった。目を見開いたままの沙月の視界に入ったのは、小刻みに震えている彼の長い睫毛だった。綺麗だと見惚れているうちに、唇の隙間から忍んできた一条の舌に口内を蹂躙され、戸惑いはさらに増した。 「んふっ!」  息苦しさに胸を喘がせながら彼の肩に手をかけて押し返すと、端正な顔がゆっくりと離れていく。 「な、何を……するんですかっ!」  二十二歳にもなって――と思われるだろうが、キスの経験がなかった沙月は、一条の暴挙に茫然とすることしか出来なかった。。魔族であれば男も女も関係ない。だからといって、泉の代わりに弟である沙月にキスをすることが許されるはずがない。沙月は、一条の正気を疑った。 「俺は……男です、よ!」 「だから何だというんだ?」 「俺は……俺は、あなたの、こ……恋人じゃないっ」  なぜだろう。それまで出すことも辛かった声がすんなりと出ている。こめかみの痛みも、息切れも嘘のように治まっている。でも、心臓は変わらず壊れてしまうのではないかと思うほど早鐘を打っていた。 「恋人?――さっきも言っただろう? お前は、俺の婚約者(フィアンセ)だ」 「へ……?」 「これ以上、お前の記憶を封じておけば、その体にも精神にも支障をきたす。だが……記憶を開放すれば俺の呪縛が本格的に動き出す」 「記憶……? 呪縛って……」  一度は離れた一条の体が傾き、沙月を力任せにソファに押し倒した。 「え? あ……なにっ?」  ソファに縫い留められ、動きを封じられた沙月の肩口に顔を埋めた一条は、そのまま首筋に冷たい唇を押し当てた。冷たい唇……それなのに、触れた部分が熱く爛れたように火照っていく。 「やめて……くだ……さ、い!」  必死にもがいてみるが、体格も違う上にかなりの力で押さえつけられているせいで身動きが出来ない。まだ乾ききっていない一条の黒髪が、毛先から徐々に銀色へと変わっていく。 「沙月、俺を拒むな……。お願いだ……。お前を失いたくない」  いつになく切羽詰まった一条の声に、沙月の体が緊張で強張る。その瞬間、首筋に鋭い痛みが走り、一瞬だけ呼吸が止まる。ブツリと薄い皮膚が鋭利なもので破られると、一条の荒い息遣いがやけに大きく聞こえて来た。 「んあ……っ」  全身の血がその場所に集中するかのように激しく脈打ち、鋭い痛みは次第に甘い痺れへと変わり、身を捩るほどの甘美な愉悦が沙月を支配した。沙月の変化はそれだけではなかった。自慰での絶頂にも似た感覚。そして、霞んだ思考の中に突如として現れた記憶の扉。未開であったそれが、その衝撃と同時に大きく解き放たれ、怒濤の勢いで今まで存在していなかったデータが頭の中に流れ込んできた。そのデータ量の多さに、沙月は何度も意識を手放しそうになった。それを寸でのところで繋ぎ止めていたのは、彼の手を握りしめていた一条の大きな手だった。  背中にまわされた彼のもう片方の手が、沙月の細い体を強く抱き寄せる。沙月は、目をきつく閉じたまま、欠けていた記憶のパーツが埋め込まれていくのを、まるで第三者の視点で見ているような感覚でとらえていた。  十年前――。学校帰りに神社の石段で出逢い、必ず迎えに来ると約束を交わした黒い影。緩くウェーブのかかった黒い髪――それが、目の前で透き通るような銀色に変わり、そよぐ風に揺れている。 一寸も逸らすことなく沙月を見つめていたのは、宝石のような不思議な光を放つ紫がかった金色の瞳をもつ美しい魔物。その姿は見る者を魅了し、妖艶な微笑みは抗うことを奪い去る。そして……なぜかそばにいるだけで気持ちが安らぎ、不思議と恐怖を感じなかったあの時。首筋に走った痛みと甘美な疼きに身を震わせ、耳をくすぐる低い声に誘われるように唇を重ね婚約は成立した。  そして、再会は突然訪れた。沙月は困惑しながらも彼に毎夜、淫らな性技を施された。それに感じ、浅ましくも自ら求めた。だが彼は、深く繋がることをしなかった。なぜなら、純潔を散らすのは最愛の伴侶のみに許された婚姻の儀式であり、彼に穢されることが贄として選ばれた花嫁の悦びだから。彼のすべてを受け入れ、身も心も捧げた時、魔物と人間の婚姻は成立する。  一条に抱いていた複雑な想い、何ともいえなかった感情が今、ハッキリとしたものに変わった。彼の肩に爪を立てたまま、体をぐったりと力なくソファに預けた沙月は、欠けていた記憶の最後のピースを嵌め終えると、長い睫毛を震わせながらゆっくりと目を開けた。目の前には優しげに微笑むあの時の魔物がいた。透き通った金色の美しい瞳に射抜かれる。 「真琴……」  自分を必要としてくれている唯一の存在。それを改めて認識するように、沙月は彼の名を小さく呼んだ。まるで長い間夢の中にいたかのようだった。何度か瞬きを繰り返し、鮮明に映し出される記憶のスクリーンと、目の前にある現実を照らし合わせていく。体は気怠くはあったが、一条の息遣いを感じるたびに走る甘い疼きに身じろいだ。 「――思い出したか?」 「ん……。あの時と、同じ顔……」 「お前には長い十年だったかもしれないが、魔族にとって十年など瞬きに過ぎない」 「ねぇ……。あの日、本当に……俺はあなたと? どうして俺……だったの?」  一条の舌が、傷ついた沙月の首筋を丁寧に舐め上げる。そのくすぐったさに肩をすくめながら、沙月は眉をハの字に曲げた。 「――一目惚れというやつだ」 「俺、まだ小学生だったから……。あなたと婚約を交わすって意味が良く分かっていなかった。でも……ひとりぼっちだった俺に話し掛けてくれた。この人なら助けてくれるかもって、子供心に救いを求めていたのかもしれない。――それなのに、あなたは魔族で……泉の想い人だった」 「沙月……」 「本当に十年間、待っていてくれたのか? こんなダメな弟より……泉の方が……」  一条は血で濡れた唇をそっと沙月の唇に重ねた。鉄の味が口内に広がり、初めて自らの血を口にした沙月は小さく息を呑んだ。 「お前が欲しかった……。苦境に立たされながらもその心は穢れなく、何よりもこの血が……俺を呼んだ」 「血……?」 「純血種の魔族は花嫁選定などせずとも、自力で最良のパートナーを探し出すことが出来る。選定で結ばれたとしても相性が良いとは限らない。中には花嫁の血に拒絶反応を起こす者もいる。人間が思っているよりも魔族は繊細だ。だが、血は嘘をつかない。相性がいい相手を自然と呼び寄せる」 「泉と同じ芝山の血――なのに?」 「血は各個体に属する。家系や血筋など関係ない」  一条は沙月のワイシャツのボタンをすべて外し、白く滑らかな肌に顔を埋めた。肌に掛かる冷たい息が沙月をより敏感にさせていく。彼は、長く伸びた鋭い爪で傷つけないように胸の突起を軽く弾いた。「んっ!」と息を詰めて顎を上向けた沙月の体から芳香が広がる。その香りに触発されたのか、先ほど口にしたばかりだというのに、一条は沙月の胸元にやんわりと牙を押し当てた。薄っすらと滲んだ血を舌先で掬いとると、恍惚な表情を浮かべて微笑んだ。しかし、背中にまわされたままの手はグッと拳を握ったままだ。彼の息遣いから、必死に理性を抑えこんでいるのが分かる。でも、それをどうすることも出来ない沙月は、唇を噛んだまま目を逸らした、 「――俺の身勝手な想いでお前の人生を狂わせてしまったと何度も悔いたが、愛しいお前を手放すことは出来なかった。再会したあの日、お前の香りに誘われて入ったコーヒーショップでその姿を見た時、理性を失いそうになるほど狂おしい想いに焼かれた」  沙月はその時のことを思い出し、恥ずかしそうに肩をすくめてクスッと笑った。理不尽に上司に怒られ、仕事を辞めようと真剣に悩みながら入ったコーヒーショップ。そのカウンター席で偶然並んだ、見るからにエリートと分かるサラリーマンがここにいる一条だった。タブレットを操りながら言葉巧みに沙月から話を聞き出す様は、今に思えば怪しい勧誘ともとれる。それを疑いもせずに素直に受け入れた沙月もまた、あれは偶然ではなく必然だったのだと気づく。 「そうは見えなかったけど……」  少し意地悪く笑って見せた沙月は、一条の首に自身の両腕を絡ませた。そして、今まで何度も彼に教えられたように、わずかに舌を覗かせてキスをねだった。失っていた記憶が戻り、彼から与えられた快感を思い出してしまった体は、ごく自然に彼を求める。沙月からの要求に嬉々として応えながら、啄むようなキスを繰り返していた一条が問うた。 「お前の想いを……聞かせてくれるか?」 「あの時はまだ小学生で、あなたに対する気持ちが何なのか分からずにいた。でも初めて逢ったのに一緒にいて心地よく、何よりも安心できる存在だって感じた。初めて自分が誰かに必要とされてるって……素直に嬉しかった。記憶がなくても、泉とあなたが抱き合っているところを見て胸が苦しくて、痛くて仕方がなかった。嫉妬……だったんだね。小さい頃から俺が欲しいものは全部、泉が手に入れてきた。でも――真琴だけは絶対に渡したくない。俺を……選んでくれた人だから」  もう、何も隠す必要はない。何より、自分の気持ちを口にすることが、こんなにも気持ちがいいということを初めて知った。うっとりと目を細め、舌先を絡めながらそう告げた沙月に、一条は満足そうに微笑んで強く抱き締めた。 「痛い、です……」  感情を剥き出した強い抱擁に声をあげた沙月は、彼に向き直ると何かを探るように首をわずかに傾けて下から覗き込んだ。 「泉を……抱いたんですか?」  その言葉に瞠目した一条だったが、すぐに眉を顰め不機嫌な顔をした。普段は、何が起きてもポーカーフェイスを貫く彼が、あからさまに怒りを露わにすることは珍しい。こんな顔は社内でも見たことがなかった。社員にも、もちろん見せてはいないだろう。 「――十年前、お前以外の者を抱くことはないと誓った。この俺が約束を破るとでも?」 「本当に……?」 「証明してみるか? でも、そうなればお前はもう人間ではなくなるぞ?」  何でも完璧にこなす一条が、これほど必死に弁解したことが今まであっただろうか。沙月は堪え切れないというように肩を揺らして笑っていたが、ふと真顔になり首を左右に振った。 「もう少し、待ってください。――あなたに、社員として認められるまで」  そう言ってからはにかむように笑った沙月の姿に、一条はふっと全身の力を抜いた。まだ湿り気を残す銀色の髪、綺麗な唇の端に見え隠れする白い牙。そこには紛れもなく十年前と変わらぬ姿の一条がいた。 「やはり、お前は笑っていた方が可愛いな……」  沙月の頬を両手で挟みこんだ一条は、牙で唇を傷つけないようにそっと口づけた。ふと弾かれるように唇を離す。そして、沙月の唇に小さな傷を見つけると親指で優しく拭った。 「痛むか?」  一条の問いかけに、何のことなのか戸惑いを見せた沙月だったが、彼の指が触れた場所にわずかに痛みを感じて、自身の唇が傷ついていることを知った。おそらく愛咬の痛みを堪え、唇を噛みしめた時に出来たであろう傷。そこに舌を這わせた一条は、自身の唾液を纏わせながらその傷を消していく。驚異的な治癒力を持つ吸血鬼のキスは目に見える傷だけでなく、沙月の心に開いた穴をも塞ぎ癒してくれる。 「おやすみ……」  彼のキスが心地よく、自然と瞼が落ちてくる。完全に閉じてしまう直前、一条の唇がそう告げた。眠りにつく前、誰かにそう言ってもらえたことなど一度もなかった。嬉しくて思わず口元が緩んでしまう。彼の力強い腕に抱かれた沙月は、唇に笑みを湛えたまま深い眠りについた。

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