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【6】

 十年の時を経て、互いの気持ちが通じ合った二人の生活は、それまでとはまるで違ったものになった。沙月が滞在していたホテルは、泉に知られてしまった以上このまま利用することは出来ないと、一条のマンションに同居するという話も浮上した。しかし、沙月はその提案を丁重に断わった。たとえ一条の婚約者であっても、Iコーポレーションの社員――正確には採用期間中の身であるということには変わりない。上司、部下隔たりなく何でも話し合える社風の中で、沙月だけが特別扱いされることを危惧したからだ。  仕事内容も理解し、やりがいも感じ始めていた。いつも笑顔で自分を迎えてくれる和やかな雰囲気を、一条との関係のために壊してしまうのが惜しいということもあったが、何より社員から絶対的信頼を受けている社長を独り占めすることなど出来ないと思ったからだ。皆、一条を尊敬し共に企業を動かしているという責任感を持っている。そんな彼らを裏切ることなど、沙月に出来るはずがなかった。  しかし、泉に命を狙われている今、目立つような行動は極力避けたかった。自身が無茶をすることで、いろいろなところに弊害が出る。住む場所を確保するために、新たにアパートを契約しようとしたが、一条は難色を示したままなかなかOKを出さなかった。  でも、沙月は自分なりのけじめをつけたかった。社長の婚約者として甘えるのではなく、きちんと社員として、一条や他の社員にも認めてもらいたかった。せっかく一条が敷いてくれたレールだ。彼の信頼や期待に応えたい。婚姻を考えるのは、自身の気持ちに余裕が生まれてからでも遅くはないと思っていた。  保科の提案で、彼の名義で借りたウィークリーマンションに住むことで一条を納得させた。もちろん二十四時間体制で一条家の従者による警護がついている。その警護さえも嫌がった沙月だったが、一条は絶対に譲歩することはなかった。  社内規定に基づいた研修も終わり、沙月は石本と共に外回りの日々が続いていた。彼の仕事は相変わらず完璧で、一条が信頼して大きな案件を任せているのが分かる。大小さまざまな企業へ出向き、社内の状況を把握しながら改善策を提案する。しかし、何でも完璧にこなす石本でもレポートの作成だけはどうも苦手らしく、ここぞとばかりに沙月に頼みこんでくるようになった。沙月がこの会社に来るまで自分でも気づくことのなかった文章作成能力は、フロア内でも知られることとなり、石本以外からも頼まれることが増えて来た。 「芝山く~ん。またお願いしてもいいかぁ?」  甘えた声を出す先輩に沙月が笑顔で応えると、すかさずデスクの上に淹れたてのコーヒーが置かれるようになった。 「最近の石本さん、書類は芝山くんに頼ってばっかりですね」  女性社員の冷やかしにも屈することなく石本は自分のデスクに戻るなり、PCのデータ入力を始める。その背中をニヤニヤしながら見つめていた沙月のポケットの中でスマートフォンが振動した。 「ちょっと席外しますっ」  近くにいたスタッフにそう声をかけてフロアを出る。足早にエレベーターホール脇にある休憩スペースへ向かうと、スマートフォンを取り出して液晶画面を見つめた。着信履歴を開くと、アドレスに登録されていない番号が表示されている。交友関係の少ない沙月にかかってくる電話の相手は限られている。クライアントであればすぐに担当者の番号を登録するように心がけていたからだ。  訝りながらも、その番号に折り返してみると、低くはあるが澄んだ声が耳元で響いた。その声に、沙月はきつく眉根を寄せ、全身を硬直させた。 『――まだ辞めてないのか。まったく……。どこまで俺に恥をかかせる気だ?』  あの日以来、直接的な接触がなかったせいで忘れかけていた兄の存在に体が震え始める。一条や保科のもとにいる間、自分は常に守られているものだと勘違いしていたようだ。  まだ泉は一条を諦めてはいない。いや――むしろあの日以来、執拗に彼を追い回すようになっていた。 『お前が、一条さんとは何の関係もないということは彼自身から聞いてる。彼を信用していないわけではないが、お前が目障りで仕方ない。――一ヶ月後。花嫁選定が行われることが決まった。そこで、俺が一条家の花嫁として選ばれれば、芝山家当主の座をお前に譲ってもいいと思っている。どうだ、悪くない話だろう? クズのようなお前に、こんな好条件を出しているんだ。少しは感謝して欲しいものだな』  沙月はゴクリと唾を呑みこんで、何度か深呼吸を繰り返した。喉に何かがつかえているようで、うまく息が出来ない。スマートフォンを持つ手が震える。そこから聞こえる不快な声に胃の上の方がキュッと痛み、込み上げてくるものを必死に飲み下した。。地下駐車場で首を絞められた記憶が蘇り、沙月は自身の首にそっと手を当てた。 「――そんなものはいらない。俺はもう芝山家から絶縁されている。関係ない……」  掠れる声でやっと応答することが出来たが、電話の向こうからはその返事を嘲笑うかのような冷ややかな声が聞こえてきた。 『そもそも、お前のような出来損ないに当主など務まるはずがないか。自分の立場を分かっていることだけは褒めてやる。。俺は、一条家に嫁ぐことを諦めてはいない。そのために父から厳しく躾けられ、ここまでストイックな生活を送ってきたんだからな。当主になりたくないと言うのなら、お前を一条家の使用人として雇ってやってもいい。俺に一生傅いて生きるのも悪くはないだろう?――死ぬまでこき使ってやる』  どれだけ自分勝手で、一条家というブランドに目が眩んでいるのだろう。そもそも、一条が沙月を使用人にすることなど許すはずがない。沙月の体を震わせているものが恐怖から怒りへと変わった。手にしたスマートフォンを叩きつけたい衝動をぐっとこらえる。人間、怒りが限界を超えると、ある時を境にスッと冷めていく瞬間がある。沙月は、自分でも信じられないほど冷静な声音で返していた。 「――お断りします。仕事がありますので、失礼します」  画面をタップして一方的に通話を終了させると、大きく肩を上下させて息を吐き出した。 (どこまで傲慢なんだ……)  吸血鬼真祖の血を汲む一条家のことは保科から聞いている。古くから続くその稀有な血を絶やすことなく、富と権力を有し地位を築き上げてきた。魔族でありながら人間と争うことを嫌い、共存を目指して歩んできた革新的名家。だが、その現当主である一条に対する泉のアプローチは、あまりにも非常識で目に余るものだった。一条の都合を顧みず、週に三回ないし四回は食事に誘っている。花嫁選定が近づいている時期だけに、彼も贄家を無下にすることも出来ず、渋々といった感じで出かけていく。  そういう時、沙月は自身のマンションで一人の時間を過ごす。ここのところ、充実した日々が続いていたこともあり、部屋で悩むということはなくなっていた。でも、泉と一条の関係を知ってしまった今、また良くないことばかりを考えてしまう。一条を信じていないわけではないが、心のどこかで泉の誘惑には勝てないのではないか……と不安になる。  休憩スペースにある鏡に映った姿は、泉とは比較にならないほど華がない。以前よりはアカ抜け、表情も豊かになり、一条に性技を施されるたびに色気も持ち合わせてきているようではあるが、生まれついてから両親の愛情を一身に受け、ありとあらゆる能力を身につけた泉に勝てるわけがない。彼の、誰もを虜にする妖艶な微笑みに抗うのは、まず不可能だろう。 「――芝山く~ん! あ、いたいたっ。一条さんから電話が入ってるよ」  自分を探していたらしい同じ部署の女性スタッフの声でハッと我に返る。「すみません」と礼を言い、急いでフロアに戻るとすぐに受話器を上げた。 「すみません、お待たせして……」  息は切らしてはいたが、動揺を気づかせまいとあえて落ち着いた口調で言った。走ったせい――というには、少し痛みを伴う胸の鼓動。泉の戦線布告とも取れる言葉が頭の中を巡っていた。 『忙しいところ悪いな。今夜も打ち合わせか?』  二人のことであれば沙月のスマートフォンに直接電話をしてくるはずの彼が、今日は会社に掛けてきた。珍しいなと思う反面、一抹の不安が沙月に付き纏う。沙月の鼓膜を震わせる甘いはずの声は憂いを帯び、話す口調もボソボソと歯切れが悪く様子がおかしい。 「ええ……。石本さんのレポート作成が終わったら、夕方から打ち合わせが入ってます。何か……?」  ここがフロアであることを踏まえ、私的思考を払拭し、上司と部下という会話に徹する。これも、最近やっと身についた一条への気遣いだ。 『いや……。今夜もまた、食事に誘われた。また、逢えない……な』  少し疲れた声でため息まじりに呟いた一条は、普段の快活なイメージからかなりかけ離れていた。今まで余裕ありげに軽く受け流していた一条がここまで追い詰められているとは……。一度はおさまった泉への怒りが再び沙月の中で燃え上がった。 「何か、あったんですか?」 『お前は何も心配しなくていい。気をつけて帰れ。マンションへは深雪に送らせる……。仕事が終わったら連絡を入れろ。いいな?』  短い言葉ではあったが、一条の優しさは感じられる。だが、彼の声は蓄積された澱でも吐き出すような苦しさと重々しさを含んでいた。自分の存在が彼を悩ますことになってしまったのだと思うと、また罪悪感に圧し潰されそうになる。しかし、それを口に出すことを嫌う一条にこれ以上の心配をかけさせまいと、沙月は精一杯強がってみせた。 「分かりました……。一条さんも気をつけて」  沙月は握りしめていた受話器を戻すと、周囲に気づかれないように小さなため息を漏らした。そして、デスクに戻るなりPCのモニター画面をぼんやりと見つめた。 (何があったのだろう……)  泉に振り回されているだけ――というには、少し度が過ぎている。だが、あの一条が仕事でトラブッたということはまず考えられない。もしそんなことがあれば、彼の右腕である石本にすぐ連絡が入るはずだ。  視線を遮るように立てられたファイルの隙間から石本のデスクを盗み見る。彼は一心不乱にデータ入力を続けているようで、慌てているような様子は見受けられない。  沙月の中で、より一層大きな不安が膨れ上がる。一条に会えない寂しさは他のことで気を紛らわせることが出来る。しかし、彼の異変に気づき、さらに自分も泉から圧力をかけられているこの状況で、落ち着いて物事を考えられるかと問われれば否だ。  クライアントとの打ち合わせの席で平常心を保っていられるか自信がない。ここはプライドを投げ捨てて、素直に石本を頼った方が得策だ。勘がいい石本のことだ。沙月の様子に気づけば、自然にフォローに回ってくれるはずだ。考えれば考えるほど、不安要素は増えていく。それを払拭するように、沙月はキーボードを叩き始めた。  ***** 夕方から行われたクライアントとの打ち合わせは、、同行してくれた石本のお陰でなんとか無事に乗り切ることが出来た。途中、彼に体調を何度も問われたが「大丈夫だ」とその場を誤魔化した。早々に会社をあとにした沙月は、保科に連絡することなく最寄り駅へと向かっていた。腕時計に視線を落とすと午後十時を回っている。電車はまだ十分にある時間帯だ。  週末の目抜き通りは一週間分のストレスを発散すべく、何軒もの店をハシゴする千鳥足のサラリーマンの姿が目立つ。浮足立った周囲とは違い、沙月の気分は一向に晴れることはなかった。  週末とあれば一条のマンションに出向き、一緒に抱き合ったまま朝を迎えることが常となっていた。最後まで行為に及ばなくても十分に心は満たされ、ぐっすり眠ることが出来た。一条もそのことを考慮してか、週末に予定を入れることはなかった。でも、今夜は泉と一緒にいる――。それだけに沙月の心中は穏やかではいられなかった。電話での彼の様子に違和感を感じていたのは確かだ。、何より、沙月が泉との通話を終わらせた直後にかかってきたことも、タイミングが良すぎるとしか思えない。偶然だといってしまえばそれまでのことだが、沙月にとってはほんの些細なことであっても、泉が絡んでくると不安材料にしかならない。  早く一人になりたい。そして、一条のことだけを考えたい……。すれ違う人々の陽気な笑い声を聞きながら、沙月は少し足を速めた。  何気ない週末の風景。沙月の前方に停車したタクシーから降り立つ二つの影に足が止まる。じゃれ合うよう互いに見つめ、人通りの多い歩道で抱き合ってキスを交わす。タクシー運転手に催促されて代金を支払う長身の男……。その相手もまた、すらりとした美丈夫だった。長身の男が細い腰を引寄せ、身を寄せ合って歩いていく。。その後ろ姿を見つめていた沙月は、信じられない思いで大きく目を見開いた。  週末の恋人たち――。しかし、沙月は息をすることを忘れ、呆然と立ち尽くしていた。その姿を見間違えるはずがない。夜目にも鮮やかな美貌を持つ一条と、妖し気な色香を放つ泉……。  沙月はしばらくの間動くことが出来ずにいた。通り過ぎる人たちの訝しげな視線に晒されてもなお、足を踏み出すことが出来なかったのは、一条の嬉しそうな笑顔を見たからだ。毎夜のように愛を囁き、優しい笑みをくれる彼が、毛嫌いしているはずの泉にも同じ顔を見せている。その表情は自然で、キスを交わす様子も違和感がなかった。 (やっぱり、泉を選ぶのか……)  長い歳月を経て、互いの気持ちが通じたと有頂天になっていた自分が恥ずかしい。十年で実を結ぶということと、十年で心変わりすることは紙一重だ。一条も引く手数多の美丈夫だ。沙月の手前、操立てしているように思われたが、今まで数え切れないほどの女性や男性と関係を持っているに違いない。そもそも、独身で青年実業家――という好条件を備えた彼を放っておく者はいないだろう。彼を魔物と認識しなくても、関係を持ちたがる者は腐るほどいる。  その中でも、古くからの『仕来たり』によって結ばれる相手であれば何の問題もない。能力に長け、家柄も良く資産も地位もある泉であれば、一緒に企業を動かしていくことは可能だ。  沙月は唇を噛んだまま上着のポケットからスマートフォンを取り出すと、保科のアドレスを呼び出して発信ボタンを押した。 (誰かと話したい……)  沙月と一条のことを知っている人物は彼しかいない。しかし、思い直して即座に通話終了のボタンを押した。一条の婚約者とはいえ、出来損ないである沙月の愚痴を聞かされる保科にしてみたらこれほど面倒な事はない。自分の力量が足りないばかりに、最愛の人をとられてしまった悔しさと切なさを訴えたところで何になるというのだろう。一条が泉を選んだのならば仕方がない。そう自己完結してしまった方が、誰にも迷惑をかけることもないし、諦めもつく。  スマートフォンを持った手を力なく下ろし、沙月は今にも頽れてしまいそうな脚を必死に踏ん張った。そして、ふらつきながら駅に向かって再び歩き始めた時、背後で小さいながらもハッキリとした声が響いた。 「ちょっと! ねぇ……あなたっ」  自分が呼び止められているとは思わない沙月は、足を止めることはなかった。だが、その声がだんだんと近づいていることに気づき、ふと歩みを緩めてゆっくりと振り返った。 「はぁ、はぁ……っ。やっぱり、あなただったわね」  歩道の真ん中で、少し前屈みになりながら呼吸を整えている小柄な老女が「ふぅっ」と声を上げながら体を起こすと、目を輝かせて沙月を見つめた。真っ白な髪を綺麗に結い上げ、上品な着物を纏った彼女の顔を瞬時に思い出し、沙月は「あっ」と声をあげた。  数日前、電車で取引先に向かっていた際、車内で転びそうになった老女を助けた。それをきっかけに、先方には遅れるという旨の連絡を入れ、途中下車して彼女を目的の呉服店まで送った経緯があった。 「あぁっ! 先日、お会いした方ですよね?」 「ええ……。気づいてくれなかったらどうしようかと思いましたよ。あの時は本当に助かりました。いえねぇ、普段は車での移動が多いから乗り慣れない電車で戸惑ってしまって……。若い方なのに今どき珍しいねぇ……って、うちの息子にも話をしたんですよ」 「息子さんがいらっしゃるんですか?」 「ええ。一緒には住んではいませんけど、時々顔を見せるんですよ。優しい子なんです」  恥ずかしそうに頬を染めて俯いた彼女だったが、何かに気づいたようにふっと顔を上げ、沙月をまじまじと見つめた。 「――あら。あなた、泣いていたの?」 「え……?」  彼女に言われるまで、自身が泣いていることにまったく気がつかなかった。目尻を指先で擦ると、涙の滴がつつっと頬を伝った。沙月は戸惑い、乱暴に目尻を擦ると、その場を誤魔化すように笑いながら首を振った。 「何でもないですよ」 「そう……。それならばいいんだけど。せっかくの週末にあなたみたいな方がお一人なんて……。これは、老婆の思い過ごしなんだけれど。もしかして、彼女と何かあったの?――あぁ、私ったら余計なことを! これだからお節介って言われるのよねぇ」  彼女は口元に手をあてて屈託のない愛らしい笑顔を見せたが、図星を指されてしまった沙月は早鐘を打つ心臓をなんとか落ちつけようと唇を噛んだまま俯いた。  その時、彼女が両手に持っていた紙袋に目が止まった。見るからに重そうな荷物を持つ彼女に驚き、その場の空気を変えるべく沙月は身体を屈めて手を伸ばした。 「荷物、お持ちしましょうか? 今日はお一人ですか?」  周囲を見ながらそう問うた沙月は、彼女から紙袋を受け取るとスンと鼻を鳴らした。着物に焚き染めている香の香りだろうか。彼女が身じろいだ拍子にふわっと漂った甘い香りに、一瞬だけ一条の顔が脳裏に浮かんだ。 「すみませんね、何度も……。迎えの車を待っていた時に、あなたの姿が見えたから……」 「お迎えがいらっしゃるんですか? 良かったです。この荷物を持って駅まで歩くのは大変ですよ」  沙月が彼女に微笑んだ時、車道に黒い高級外国車が横付けされた。黒いスーツに身を包んだ運転手が急いで降り立ち、後部座席のドアを開けると深々と一礼した。 「遅くなりまして申し訳ありません。奥さま……」 「いいのよ。あなたが遅れなかったら彼と会うことは出来なかったんだから。荷物を受け取って」 「はい……。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」  丁寧に謝罪された沙月が、照れくさそうに手に持っていた紙袋を運転手に渡すと、老女は満足そうにニッコリと微笑んだ。 「あなたに会えて嬉しかったわ。お礼をしたいのだけど、お名刺をいただけるかしら?」 「そんなっ。結構ですよ!」 「私の気が済まないのよっ。二度も助けてもらったんだもの」  彼女の勢いに圧され、沙月は渋々名刺を差し出した。それを受け取った彼女は、皺だらけの顔をくしゃりとさせて優雅に微笑んだ。 「今日はありがとう。また後日、ご連絡いたしますわね」  深く頭を下げ、車に乗り込んだ彼女を見送りながら、沙月はほうっと長い息を吐いた。電車内で会った時もそうだったが、一般人にはない上品な雰囲気を持った人だと感じていた。そんな彼女が、まさか運転手付きの高級外国車に乗っている『奥さま』だったということに驚きを隠せなかった。昔から困っている人を放っておけない性格で、自分が損をしても助けることを優先させてきた。誰かを救えば、いつか自分も救われる――そう信じてきたが、現実はそう上手くいかないようだ。  彼女の車が見えなくなった時、ポケットの中でスマートフォンの呼び出し音が鳴り響いた。慌てて取り出して画面を確認すると、発信者は保科だった。先ほどの着信履歴を見て折り返してきたのだろう。通話ボタンをタップして耳に押し当てると、凛とした落ち着いた沙月の鼓膜を震わせた。 『沙月様ですか? 先ほどは電話に出られず申し訳ありませんでした。お仕事を終えられたのですか?』  沙月は短く吐息して、星も見えない暗い空を見上げた。まさか、愚痴を聞いてもらうために電話した――なんて口が裂けても言えない。 「これからマンションに帰ります」 『では、急いでお迎えにあがります。今はどちらに?』 「大丈夫です。電車で帰りますから。――おやすみなさい」 『沙月様? さつ――っ!』  何かを察したのか、焦ったように名を呼ぶ保科の声を無視して一方的に通話を終了させた沙月は、、電源もオフにした。この場所で、泉の手の者に襲われて命を落としても仕方ないと思っている自分がいる。沙月にもしものことがあれば、保科は一条に酷く叱られることだろう。責任感の強い保科もまたそれを真摯に受け止め、下手をすれば自ら命を断つ可能性もある。罪悪感がないわけではない。ただ今は、誰とも接したくなかった。  沙月は音信不通になったスマートフォンをポケットに仕舞い込むと、暗い気持ちを引きずったまま帰宅の途についた。  *****  滑り出すように走り出した高級外国車の後部座席で、シートに背を預けながら指先に挟んだ名刺を見つめる老女がいた。皺は多いが、ハッキリとした二重瞼の奥にある栗色の瞳は若々しく輝いている。  彼女の名は一条(いちじょう)華代(はなよ)。亡き先代当主、一条京一の妻であり真琴の母親である。国内屈指の大企業である一条グループの会長として、真琴とは別に多くの企業を傘下に持つ実業家だ。  華代も真琴も、個人の時間を尊重するために同居はしていない。昔から自由奔放な性格は夫を亡くしてからもなお健在で、曲がったことを嫌う性格と、何でも思ったことを口にする実に男らしい一面を持つ普段の彼女は、五十代とは思えないほど若く見える。だが、そんな彼女が老女になっていたのには、それなりの理由があってのことだった。 「――まったく、あの子は一体何を考えているのかしら。あんなに可愛い婚約者を放っておいて……。保科も保科よ。いろいろ面倒なことになっているっていうのに、どうして迎えに来ないの? 彼の身に、もしものことがあったらただでは済まさないんだからっ」  目を細めて不機嫌な様相を見せる彼女は、ルームミラー越しに運転手を睨んだ。その声は年齢の割には明朗で、彼女の気の強さが窺える。 「菅野(すがの)。あなたもそう思うでしょ? イマドキ、あんなイイ子はいないわよねぇ?」 「真琴様にも何かお考えがあってのことなんでしょう……」 「考えも何もっ! あぁ、イライラするっ。花嫁選定は一ヶ月後だったわよね? そんな古臭い『仕来たり』になんか固執することなんかないのに。さっさと婚姻の契約を済ませれば問題ないじゃないっ」 「そう言われましても奥さま……。あなたの口からそのようなことを仰られては元も子も……」  困惑する運転手を尻目に、華代は沙月の名刺を大事そうにクラッチバッグに仕舞い込んだ。その瞳がうっすらと青みを増し、紫がかった金色に変化するのにそう時間はかからなかった。彼女の性格を思わせるようにきちんと結い上げた白髪をはらりと解くと、べっ甲のかんざしを西陣織の帯に挟み込んだ。そして、紅を引いた唇に指を押し当てて、何かを思いついたように声を上げた。 「とりあえず! この体を早くもとに戻さなくちゃっ。――菅野、食事に行くわよっ」 「承知いたしました」  菅野は、白い手袋を嵌めた手でハンドルを大きく切ると、交差点を曲がりアクセルを踏み込んだ。

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