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【7】

 時を刻む針は止まってはくれない。花嫁選定は確実に迫っていた。それでも沙月は、自分に与えられた仕事に手を抜くことはしなかった。彼の仕事に対する情熱が増しているとはいえ、過剰ともいえる没頭ぶりを見かねたスタッフからは「無理をしないように」と毎日のように言われていた。だが、沙月は、一条と泉のことを考える隙を作らないように自分を追い込んでいた。そして、社内では嫌でも顔を合わせる一条に対し、絶対に悟られないよう普段と変わらない笑顔で接した。  会社を離れてからも、一条からの誘いを何かと理由をつけて断っていた。そんな沙月の様子を不審に思った一条から何度か問い詰められたが「今は仕事がしたい」と言い張った。  本当は――自ら身を引く覚悟を決めるためだった。そのストイックな行動は、花嫁選定の二日前まで続いた。  これまでも泉との逢瀬を繰り返していた一条だったが、彼のスケジュールが書かれたホワイトボードには花嫁選定の前日から三日間『休暇』の赤い文字が書かれている。沙月はその文字を視界に入れないように手早くデスクの上を片付けると、ホワイトボードに『外回り』と記入して会社を出た。  明後日になれば一条家の花嫁として泉の名が正式に発表されるだろう。もう悩むことにも疲れ果てていた沙月は、特に目的もないまま大通りを歩いていた。今日はアポイントを取っている企業はない。『外回り』と嘘を書いたのは、何も出来ないまま社内にいることが苦痛で仕方なかったからだ。  横断歩道で信号が変わるのを待っていると、車道脇に滑り込むように黒い高級外国車が停車した。沙月は見るともなしに、その車に視線を向けた。先日会った老女が乗っていた車に似ているが、はっきりと思い出せない。そのまま通り過ぎようとして、開いた後部座席の窓から自身の名を呼ばれ、驚いて弾かれるように振り返った。 「芝山沙月くんっ」  突然、見知らぬ女性に自分の名を呼ばれたことにも驚いたが、降りてきた運転手があの老女の運転手だったことにも息を呑んだ。後部座席のドアを恭しく開け、沙月に乗車を促している。  一瞬、泉の関係者なのでは? と体を強張らせたが、運転手の優しい微笑みにその警戒を緩めた。訝りながらも車に乗り込んだ沙月は、柔らかな甘いバラの香りに包まれた。一条の香りに似てはいるが、何となく違うことが分かる。  ドアが閉められると、後部座席に脚を組んで座っていた女性が赤い唇を綻ばせた。シックな黒のワンピースにジャケットというシンプルではあるが洗練された出で立ちの彼女は、五十代前半――いや、四十代後半だろうか。近くで見ると肌も綺麗で、緩く巻かれた背中まである栗色の髪も艶々としている。顔のつくりは派手だが、ケバケバした印象はなく上品で色気が漂っていた。  緊張と警戒を解くことなく隣に腰掛けた沙月は、気づかれないように何度も彼女を盗み見た。 「出してちょうだい」  車内に張りのある声が響く。運転手はミラー越しに目礼するとアクセルを踏み込み、車は静かに発進した。  見知らぬ人の車に安易に乗らないこと――幼い頃、誘拐を心配する親に一度は言われたことのある言葉だ。それなのに、二十二歳になってもその約束を守れずにいる自分がいる。不安や恐怖がないわけではない。でも、相手は女性と壮年の男性だ。いざとなったら隙を見て逃げられる自信はあった。  しかし、それを実行に移そうとしなかったのは、隣に座っている女性に既視感を覚えたからだ。それに、老女の運転手である彼がここにいることで、沙月の中の不安はわずかではあるが払拭されていた。 「初めまして――じゃないわね」 「あの……。失礼ですが、どこかでお会いしましたか? 運転手の方は先日、お見かけしているんですが」  会社の得意先の担当者からつい先ほどすれ違った人まで、思い出せる範囲で記憶を辿ってみるが、彼女には行きあたらない。戸惑いを隠せないまま問い返した沙月に、彼女はクスッと肩をすくめて笑ってみせた。 「分かるわけないわよね……。あんなお婆さんが私だって言っても、信じる人はいないわよ」 「――え? お婆さん? あの……っ。それってもしかして……」 「そうよ。最初は電車内で助けてもらった。そして、先日は荷物を持ってもらった……」  沙月はしばしポカンと口を開けたまま彼女を見つめていたが、焦ったように声を上げた。 「え、えぇっ! ちょ……ちょっと待って下さい。あなたが……ですか? だってあの方はかなりのご高齢で……」  クルクルと表情を変える沙月を面白そうに見つめる栗色の瞳に、沙月は口元に手を当てたまま動きを止めた。その印象的な瞳に、見覚えがあったからだ。ただただ動揺する沙月に、彼女は綺麗に手入れがなされた手をすっと差し出して握手を求めた。 「――紹介が遅れたわね。私は一条華代。真琴の母よ」 「真琴の……お母様?」  信じられない思いで彼女の手をそっと握ると、華代は満足気に微笑んだ。そういわれると、目元や口元はどことなく似ている。彼に端正でありながら華やかな印象があるのは、きっと華代のいいところを受け継いでいるせいだろう。 「驚くのも無理はないわ。どっちが本当の姿なのかって言われると、私も困るのよねぇ。どっちも私だし……。真琴のことを知ってるあなたなら話しても納得してくれるかもしれないわね」 「真琴のことって……。吸血鬼――ってこと、ですよね?」  華代の顔色を窺いながら、恐る恐るではあるがそのことを口にすると、彼女は「そうよ」と即答した。 「生きるために必要な糧を一定期間摂取しなければ、体は現状を保てなくなって自然と年老いていくの。だから、放っておけば死んじゃうかもしれないけど、まだ当分死ぬ予定はないから元に戻したの。私の実年齢を知ったら、あなた卒倒するわよ」  隣で明るく無邪気に話す彼女が、一条の母親だということに驚きを隠せないまま、沙月は頬を引き攣らせて笑うことしか出来なかった。クールな印象を持つ彼とはまるで違う、天真爛漫を地でいくような彼女に圧倒される。しかしなぜ、花嫁選定を間近に控えたこのタイミングで自分に接触してきたのかという疑問が浮かぶ。今まで一条から華代のことを聞いたことがなかった。かといって、親子関係がうまくいっていない……という感じでもない。まして、何事も手を抜くことなくきちんとこなす彼だけに、母親の承諾なく勝手に婚約を交わしていたとは考えにくい。  物事には順序というものがある。本来であれば、一条に華代と会う機会を設けてもらうのが普通だ。しかし、彼から何も聞かされず、いきなり華代が沙月の前に現れたことでどう対処していいのか分からずにいた。 「あの……。どうして、俺に?」 「息子が婚約者を紹介してくれないから、私が出向くことにしたの」 「え……。あ……と、すみません」 「あなたが謝ることなんて何もない。――十年前に、真琴から婚約の証を刻んだ相手がいるって聞いた時は驚いたわよ。夫亡きあと、一条グループを継いで間もなかったし、贄家の選定も終わった直後だったから。それに、名立たる魔族の中で、それを理由に一条家だけが花嫁探しを辞退するなんてこと、協会が認めるかどうかも分からなかった……って、悩み続けて今になっちゃったんだけど、やっぱり気になってはいたの。十年って簡単に言うけど、人の心は移ろいやすいものだし、時代の流れには逆らえない。その相手をこの街で見つけたって聞いたから、親バカじゃないんだけど気になっちゃって。断食までして、あなたに会いに行ったのよ」  彼女は脚を組み直し、レザーシートにゆったりと背中を預けると、大きく息をついた。 「一目であなただって分かったのは、真琴の刻印が見えたから。電車内で転びそうになったのは演技でもなんでもなかったんだけど、あなたが助けてくれて本当に良かった。真琴にしては随分と毛色の違ったタイプだなと思ったけど、今時では珍しい、純粋な血の持ち主だってすぐに分かったわ」  一条にも以前そう言われたことを思い出し、沙月は幾度となく牙を穿たれたその場所に触れ、ここのところ発熱することのない噛み痕に後ろめたさを感じていた。互いの想いが離れてしまったのではないかと思うほど、彼のそばにいても傷が疼くことがない。一条の気持ちが泉の方に向いてしまったせいか、はたまた自分が彼を遠ざけているせいなのか……。不安に揺れる心を落ち着かせようと、彼の噛み痕を辿るように首筋に触れてしまう。  それを見ていた華代の視線に気づいた沙月は、俯くことしか出来なかった。華代の力強い栗色の瞳がすっと細められる。それまで和やかだった車内の雰囲気が一変したことに気づいた沙月は、ハッとと顔を上げ、ゆっくりと華代の方を見た。そこには、一条と同じ紫かかった金色の鋭い瞳で自身を見据える彼女の姿があった。華代は、長く伸びた爪を気遣いながら沙月の頬にそっと手を添えた。彼女が放つ畏怖に慄きながらも、宝石のような輝きを放つ瞳から目を逸らすことが出来ない。  一条がなんと言おうと彼女に認められなければ、この婚約は無効になる。一条家に相応しい花嫁は他にいる。沙月自身が決断せずとも、この関係を終わらせることが出来るかもしれない――そう思った。  緊張で動けない沙月に、華代の赤い唇がゆっくりと開かれる。沙月は拳を握りしめたまま審判が下るのを待った。 「あなたのお兄さん――芝山 泉のことは知っているわ。花嫁候補に選ばれた四家の中で最も優れていると評判の男。でもね……。私は、あの子を一条家に迎えるつもりはないから」 「え……っ?」  沙月は自分の耳を疑った。同時に、華代が纏っていた強烈な気がわずかに緩んだことに気づき、息を詰めたまま彼女を見つめた。長く息を吐きながら肩の力を抜いた彼女は、自嘲気味に笑みを湛えてゆっくりと話し始めた。 「私と真琴は依存し合ってはいない。でも、正真正銘、血を分けた親子。だから、ハッキリ言うわ。泉が求め、欲しているのは真琴自身じゃない。あの子が欲しいのは一条の名と魔族の力だけ。魔族の中でも高位である吸血鬼の力があれば誰もがひれ伏す。気に入らない相手がいれば殺してしまうことも簡単に出来るわ。泉はそれが欲しいだけ……あなたとは違う。――実のお兄さんのことを悪く言ってしまったことは謝るわ。でも、あなたには真実を伝えておきたいのよ。十年前の『過ち』のこと。さっきは茶化した言い方をしたけれど、当時は私も真琴も婚姻のことなんてまったく考えていなかった。ただ古い『仕来たり』に準じていただけ。でも、あの日から真琴は変わった。女性も男性も糧と割り切り、絶対に体を繋げることはしなかった。それは、当時まだ十二歳のあなたに操を立てるため。我が子ながら感心するわ。欲しいものは必ず手に入れる――先代当主であった私の夫に唯一似たところ。それがあなただって知った時、内心ホッとしたの。芝山の血を引きながらも強欲な兄とは正反対。真琴のすべてを認め、受け入れてくれる純粋な心を持ったあなたなら一条家の花嫁として申し分ない。――こう言うと親バカだって思われそうだけど、可愛い息子には可愛いお嫁さんをもらって幸せになってもらいたいじゃない? 昔からの『ならわし』なんて、この時代にはもう関係ないと思うのよ。それに、あれは『過ち』なんかじゃない。運命が導いた『必然』だった。だから……誰が何と言おうと、私はあなたを一条家の花嫁として迎えるつもりよ」  言い淀むことなく、自身の言葉でハッキリと告げた華代の想い。すべてを聞き終えた沙月は胸が張り裂けそうになった。つい先ほどまで身を引く覚悟でいたはずなのに……。  でも、花嫁は、それ相応の者がなるべきだと思っている。『仕来たり』や『ならわし』は関係ないとは言うが、それを期待しているのは贄家を輩出したその土地に住む者たちなのだから。土地の平穏を願い、守ってもらうという確約のもとで魔族に『生贄』を捧げる。  はたして、泉は生まれ育ったあの土地に戻るつもりがあるのだろうか。当主である泉が家を出てすぐに、芝山家が持っていた広大な土地は開発業者に譲渡された。今は確か、分譲地として造成され、住宅街へと姿を変えている。両親が残した遺産と、土地を売って得た莫大な資金、そして名家という盾を振りかざして、芝山家の当主はその町を離れた。それでも親戚は皆、泉が花嫁になることを望んでいる。  見返りは何もない。そこまでして『仕来たり』を守る必要があるのか。田舎町に根付く独自信仰というのは、時に自らの首を絞めることもあるのだ。 「――ありがとうございます。でも、俺はあなたが思っているほど出来た人間じゃありません。下手をすれば兄よりも強欲なのかもしれない……」 「沙月くん?」  俯いた頬に熱いものが流れ落ちた。その滴がスラックスに染み込んでいくのを滲んだ視界で見つめながら、沙月は涙の理由を口に出すことなくぐっと飲み込んだ。 「すみません……。俺、あなたの期待に応えられない……かも、しれない……」 「え? どういうこと?」 「――すみません。車、止めてもらえますか?」  華代の問いかけに応えることなく、沙月は震える声でハンドルを握る菅野に声をかけた。菅野は一瞬躊躇したもの、スピードを緩めると車道の脇に車を寄せた。  ドアの開閉のために降りようとする彼を制して、沙月自らドアを開けて外に出ると、深々と頭を下げた。 「お気持ちだけ……頂き……ます。すみま……せ……ん」  それだけ言い残すと、沙月は走り出していた。自分がどこにいるかも分からなかったが、とにかく華代のもとから離れたかった。  今までに、これほど自身を求められたことがあっただろうか。必要とされたことがあっただろうか。 一条にも何度も言われた言葉が脳裏をかすめる。 『愛している。お前が欲しい……』  そして、華代に一条家の花嫁として認められたというのに、それを振り切ろうとする自分がいる。沙月の心は揺れていた。古くからの『仕来たり』は、一個人の想いだけでそう簡単に変えられるわけがない。何百年も続いてきた風習には逆らえない。たとえ華代が反対したとしても、泉が一条と一緒になることは理にかなっている。  最寄駅から電車に飛び乗り、闇雲に乗り換え、ウィークリーマンションに戻ったのは午後八時を過ぎていた。電源を落としてあったスマートフォンの電源を入れると、一条からの着信がいくつもあったが、沙月は折り返すことをしなかった。  汗だくになったスーツを脱ぎ捨てると、簡単にシャワーで体を洗い流した。髪を乾かし、パーカーとジーンズといった軽装に着替えると、財布とスマートフォンだけをポケットに入れ、再び部屋を飛び出した。  その行動は自身でも予想出来ないほど衝動的で、無謀なことだと分かっていた。行き先は考えていない。ただ――ここにはいたくない。  幾つも電車を乗り継ぎ、沙月は座り心地が良いとはいえない硬いシートにぼんやりと座ったまま、何度も着信を知らせるスマートフォンを握りしめていた。液晶画面に表示される『一条真琴』の文字が涙で霞んでいく。 『――間もなく終点。お降りの方は……』  ヒビ割れた車内アナウンスに顔を上げると、真っ暗な闇の中にホームだけが白く浮かびあがった。  人の気配は全く感じられない。寂れた田舎町の古い駅についた。終点であるということで仕方なく降りた沙月だったが、周りを見回しても自分以外に降りる者は誰もいなかった。  思った以上に遠くまで来てしまった。短いホームの端にある階段を上り無人の改札を抜けると、沙月は動けなくなった。  そこは、沙月が幼少時代に住んでいた町だったからだ。都心から電車で二時間以上はかかるであろう場所にある小さな町……。沙月は高校に入ると同時に、この町を――いや芝山家を出た。それ以来ここには来ていない。  駅前の道路には信号もなく、人通りもない。かなり離れた間隔で点在する外灯も、整備されていないのか点滅していたり、なかには消えているものさえある。  沙月は何かに呼ばれるように、闇の方へとゆっくりと歩き始めた。そう――芝山家のあった場所とは真逆の方向へ。誰ともすれ違うことはない。車が通る気配も感じられない。  この町で芝山家を知らない者はいない。だが、もうここには芝山家があった痕跡さえ残ってはいない。生まれ育った土地に住み、そこに根を張ってこそ地位や名声、権力を振りかざすことが出来るというものだ。それなのに、ここを離れ『当主』という肩書と金だけを持って離れた泉は、高位魔族と結婚し、己の幸せだけを願っている。  『仕来たり』に従い、そして『仕来たり』に滅ぼされる町……。  冷えた秋の夜。ひんやりと濡れた頬を撫でる風に、沙月は小さく肩を震わせた。この寂れた町を救うことが出来るのは魔族の力と、その花嫁の裁量。自分が生まれ育った故郷を、穏やかで恵まれたものに変えるが贄花嫁が担う本来の使命。  贄花嫁に選ばれなくてもいい。沙月に出来ることは一つだけ。一条への想いを断ち切り、魔族に背いた罪として呪縛に従うまでだ。そして、この地を捨てた兄に変わって、鎮守の神々に詫びること。彼らが望むのならば、ここで命を終えてもいい――そう思った。  沙月は、懐かしい空気を肺いっぱいに吸い込んで空を仰いだ。二十四時間、眩い光に溢れた都心では見ることの出来ない満天の星。その中でも一番明るく瞬く星を見つめ、沙月はゆっくりと目を閉じた。 「もう……すべてを終わりにしたい」  思い返すとロクな人生ではなかった。ただ一つだけ――一条に出逢えたことは心から嬉しかった。でも、全部忘れよう……。そして彼の呪縛から逃げた罪を背負い、自ら命を……。  沙月はコクリと唾を呑み込むと、再び歩き始めた。虫の音が響く道を、闇に呑み込まれていくように……。 ***** 「深雪、これは一体どういうことだ?」  苛立たしげにスマートフォンを握りしめたまま声を荒立てる一条に、保科はただ俯くばかりだった。  外回りに出ると会社を出たままの沙月と連絡が取れなくなった保科は、それ以上彼を探すことは出来なかった。主従の契約が成されていない今、沙月を探す手がかりが何もなかったからだ。密かに彼に付けていた使い魔も途中で何者かの結界に阻まれ、そのまま沙月を見失ってしまった。保科の焦りが伝わったのか、彼のもとに電話をかけて来た一条に事情を話すと、血相を変えてマンションに戻ってきた。 「本当に申し訳ありませんっ」 「お前が謝ったところで沙月が帰ってくるわけではない。一体どうなっている……」  無意識に伸びた牙をギリリと鳴らし、一条は何かを思い立ったようにスマートフォンの画面をタップした。数回のコールの後、低い声がスピーカーから聞こえてくる。 『もしもし……』 「幸徳か? お前、今どこにいる?」 『まだ仕事中ですが……。何かあったんですか? 一条さん』 「――お前、沙月と会っただろ? 泉と一緒にいる時に……」 『え? それはないですよ! 絶対にバレないようにって、どんだけ気を遣ってたと思ってるんですか? それにあなただって……』 「本当だな? 絶対に会っていないんだな?」  迫力のある低音で凄まれ、幸徳もさすがにただごとではないと気づく。冷静沈着で滅多に感情を露わにすることのない一条がここまで激昂するのは珍しい。それほどのことが起こっている――と察した。 『花嫁に何かあったんですか?』 「お前には関係ない。聞きたかったのはそれだけだ。――仕事中、邪魔をしたな」  何か言いかけた幸徳を無視して通話を終了させたと同時に、一条のスマートフォンの着信音がけたたましく鳴り響いた。沙月か――と慌てて画面を見ると、そこには一条の母である華代の名が表示されていた。  どうせまた小言だろうと思いながら、渋々画面をタップして耳に押し当てようとした瞬間、一条は顔を露骨に歪めてスマートフォンを遠ざけた。 『真琴っ! あなたって子は、一体何をやっているのっ!』  スピーカーから大音量で聞こえた華代の声に、それまで重々しい雰囲気に黙り込んでいた保科が目を見開いた。今までに、彼女がこれほど取り乱して電話をしてくることがあっただろうか。それ故に二人に緊張が走る。 「母上……?」 『あの子に何をしたのっ! 泣かせるようなことをしたというのなら、私は許しませんからね!』 「ちょ、ちょっと落ち着いて。あの子って、沙月のことか?」 『他に誰がいるっていうのよ! あの子……自暴自棄になって自ら命を断つわよ』 「何を……っ」 『あなたの愛情が足りないせいでしょう! 彼が何度も泣いてること、あなた知らないでしょ? 私は知ってる……。さっきも泣きながら……』 「さっき? 母上、沙月に会ったんですか?」 『あなたが煮え切らないからでしょ! 私だっていい歳した息子の結婚相手の心配なんてしたくないわよ。でもね……沙月君は別! あの子は優しいから……劣等感に憑りつかれて、自分に自信が持てずにいる。あなたのことも泉に譲ろうと思ってるのよ! 沙月君の人生を狂わせたのはあなた。それなら最後まで責任を負いなさい! もう……なにをグズグズしているの? あの子を探せるのは真琴しかいないのよ。――お願い、あの子を助けてあげてっ』  気丈で、多少のことでは動揺することのない華代が涙ながらに声を震わせている。一条が知ることのなかった華代の一面を見たような気がして、強く唇を噛んだ。 「母上……」 『早く行って! お願い……だから……っ』  華代の様子に、沙月がかなり思い詰めていたことを知る。そういえばここのところ、彼とゆっくり話す時間がなかったことに気づく。それに、キスどころか彼の肌に触れることも叶わず、その血も口に出来ていない。  幸徳の策で、泉から身を隠さねばならない理由があったことなど知る由もない沙月。さらに、誤解を招くような一条の言動が、沙月の想いを揺るがしてしまったようだ。  仕事に集中したい――というのは、彼の精一杯の強がり。本当は何らかの事情で、一条から距離をおいていたに違いない。 「沙月……」  通話が終了し、静まり返った部屋に一条がスマートフォンの液晶画面を落ち着きなく爪でカチカチと叩く音が響いていた。  この一ヶ月余り、婚約者である沙月の血を飲めていない。そのせいで体力も魔力も格段に落ち、仮の姿を保てる時間が極端に少なくなっていた。それは一条が会社に姿を見せなくなっていた一番の理由だが、それを泉との逢瀬のためだと思わせてしまった自身の不甲斐なさに苛立ちが増す。  一条はその怒りをグッと抑え込み、深呼吸を繰り返した。いくら婚約の証があるとはいえ、魔力が低下している状態で沙月の居場所を特定することが出来るかといえば不安しかない。しかし、今は迷っている時間はない。  一条は、自身を落ち着かせるかのようにすっかり銀色に変わった髪を何度もかき上げながら、寝室に置かれたチェストの抽斗から小さな箱を取り出すと、スーツのポケットに乱暴に突っ込んだ。そして、振り向きざまに立ちつくしている保科に言った。 「――沙月がすぐに眠れるよう、ベッドをメイキングしておいてくれ。俺の寝室でいい」 「真琴様……まさか、契りを?」  驚いて問い返す保科の言葉に応えることなく、一条は続けた。 「花嫁選定は明後日だったな?。――深雪。もう一つ、頼みたいことがある」 「何でしょうか?」  緊張した面持ちで応えた保科に、一条は真っ直ぐに向き直った。そして、強い意思を持った声音で言った。 「母上と、明後日の選定会の打ち合わせをしておいてくれ」  激昂した一条の姿はもうそこにはなかった。落ち着いた口調で指示を出す彼はいつもと変わらない。そんな彼が纏う吸血鬼独特の冷たくも妖艶な空気に保科は息を呑んだ。 「――出席なされるおつもりですか?」 「顔を出さないわけにはいかないだろう。選ばれた魔族の当主として……」 「真琴様……っ」  何か言いたそうな保科を制するように、長く伸びた爪を彼の胸元に突き付けると、一条は長い睫毛を震わせながらわずかに目を伏せた。 「――花嫁を迎えに行ってくる。あとは……頼んだぞ」  彼のいう花嫁――それは紛れもなく沙月のことだと確信した保科は、ホッと息をつくと胸に手を当てて深く頭を下げた。 「お気をつけて……」  一条は嘘をつかない。そして……一度手に入れたものを違えることはしない。だから不安になることは何もない。保科はそんな主の想いを知っている。十年間、一心に抱き続けた沙月への愛を……。  マンションのベランダから漆黒の翼を羽ばたかせて飛び立った一条を見送って、保科は花嫁を迎えるべくベッドメイキングに取り掛かる。疲れた体と心を癒せる場所を用意すること。そして、十年間の身を焦がすような片想いに終止符が打たれることを祈るばかりだった。

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