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【8】
秋の気配を感じるといっても、都心との温度差はかなりある。体温を奪う冷たい風に目を開けた沙月は、朽ちかけたガラリ戸の隙間から差し込む光に目を細めた。
今は人口の減少で廃校になってしまった小学校の近くにある稲荷神社は、沙月の記憶の中にあるものとは異なっていた。綺麗だった朱色の大鳥居はくすんだ茶色に変色し、境内に続く長い石段も苔むしている。両脇に並ぶ杉の大木だけが、長い時間の変遷を見届けているかのように暗く生い茂っていた。
小学生の頃は家に帰るのが嫌で、日が暮れるまでここにいた。境内にある社も、沙月にとっては秘密基地のような存在だったことを思い出した。建物をぐるりと回りこんだ場所にある木の扉から中に入れることを知っていたあの頃。まだ誰にも気づかれずに残っているのかと、枯れた杉の葉を踏みしめながら向かうと、扉は健在で鍵も取り付けられてはいなかった。そこから中に入り、クモの巣と埃だらけの床に寝ころんだまま朝を迎えた。
ジーンズのポケットから取り出したスマートフォンを見ると午前九時を回っている。本来なら出社している時間ではあったが、沙月は無断欠勤を決め込んだ。一条をはじめ、石本や保科からの着信をすべて無視した。
埃で白くなった床に寝ころんだままぼんやりと考える。もしも自分が死んだら、この婚約の証は無効になるのだろか……と。一条は十年前に言った。
『拒否するというのであれば呪縛の効力が消え、お前の命も消える……。一度でも魔物と関わりを持つということはそれだけの覚悟がいるということだ』――と。
それに、沙月の記憶を全て解放した時にも呪縛が本格的に始動したと言っていた。一度通じ合った想いを、一方的に拒絶することなど出来るのだろうか。どんなに自分はダメだと否定しても、心の片隅で燻されている彼への想いが完全に消えることはなかった。その想いを押し殺して泉に譲ればいいだけのことなのだが、それが何よりも難しい。
一条の呪縛によって死ぬくらいなら、いっそ自ら命を絶ってしまった方が気持ち的に楽なのではないか……と思う。明日になれば否が応でも『仕来たり』に則った花嫁選定により、一条家と芝山家の婚姻は確実なものとなる。望まない結果を聞くぐらいなら、この世界から消えてしまった方がいい。
ぐるぐると巡る想いを振り切るように外に出た沙月は、鬱蒼と茂る杉の間を縫う階段を下り、真ん中のあたりで足を止めた。苔むした石段に腰をおろして、今はもう見えなくなってしまった夕日を思い浮かべる。
「ここで宿題をやっていたっけ……」
いつも脇に置いていたランドセルの幻影が浮かび、ふっと自嘲気味に微笑んだ。
「――冷たい風が吹いて、振り返ると……そこにいたんだよなぁ」
あの日出逢った、美しい青年に再び会えることを期待しながら階段の上を振り返ってみるが、そこに沙月の求めている姿はなかった。杉の木が風に煽られて大きく揺れ、枯れた葉が地面に音を立てて落ちていく。
「いるはずないのに……。あ~あ、俺ってとことんついてないっ」
ひとりごちる声が静寂に吸い込まれていく。揃えた両膝を抱え込んで座ると、その上に額を押し付けて項垂れた。微かに聞こえる季節外れの蝉の声が物悲しく響く。交通量も少なく、地元民もほとんど通らない前面道路には木の影が伸びているだけだ。
沙月はここに来て、ほんの少しだけ後悔していた。一条に初めて逢った時のことをより鮮明に思い出してしまったからだ。甘い香り、宝石のような紫がかった金色の瞳。風に揺れる透き通った銀色の髪――。幼かった沙月には何もかもが初めてのことで、心臓がドキドキしていたことを覚えている。冷たい指先、綺麗な弧を描く唇、そこから紡がれる低く甘い声。思い出すだけで、ここのところ忘れていた彼の感触が蘇り、体の奥をジンと甘く痺れさせる。背中に食い込む爪の痛み、首筋に穿たれる硬い牙。そのすべてに快感を呼び起こされる。
どれくらいの時間、そんなノスタルジックな想いに浸っていたのだろう。電源を切っていたはずのスマートフォンから突然鳴り響いた着信音に、沙月はビクリと肩を震わせた。恐る恐るポケットから取り出して、眩い光を放つ画面をじっと見つめた。
「真琴……」
これで何度目だろうか。毎回、電源を切っても受信してしまう彼からの電話。最新の機器をも操る魔物の業に息を呑む。沙月は大きなため息を一つ吐いてから、覚悟を決めたように指先で画面をタップすると、ゆっくりと耳に押し当てた。
「――はい」
少しの沈黙のあとで、実に不機嫌そうな低い声がスピーカーから洩れた。
『電話もメールも無視。挙句の果てに無断欠勤とはいい度胸だな?』
一条が怒っているのは分かっている。でも、その声になぜか安心感を覚え、思わず笑みが零れた。社員や部下の前では決して口にしない、独占欲を剥き出しにして感情を露わにする一条を知っているのは沙月だけだ。
「すみません……」
『帰ってこい! 大至急だっ!』
「イヤ……ですっ」
電話の向こう側で一条が息を呑んだのが分かった。しかし沙月は、想いのたけを全部吐き出そうと決心し、大きく息を吸い込んだ。これで最後だ。もう、彼に会うことはない――。
「一条さん、今……お時間大丈夫ですか?」
『言い訳なら帰って来てからゆっくり聞いてやる』
「言い訳なんてしません。――あなたが泉と一緒にいるところを見ました。なんだか理想的な恋人同士のようでした。泉は芝山家の当主であり、花嫁候補として名を挙げています。そんな泉を差し置いて、次男である俺があなたと一緒になれるはずがないんです!『仕来たり』は絶対です。たとえ俺が……俺が、あなたのことを愛してしまったとしても、許されないことなんです。兄はそのために大変な苦労をしてきました。厳格な父に毎日躾けられて来たんです。俺はそれを知ってるから……ずっと見てきているから。――魔族との婚約を破棄するということがどういうことか分かっています。呪縛を施され、それを拒絶した時は命をなくす……。それが魔族と関わってしまった人間の宿命。あなたを……好きになれた。それだけで十分……」
沙月は次々に溢れる涙を、電話の向こう側にいる一条に悟られないようにしながら必死に言葉を繋いだ。しかし、こみ上げる嗚咽と震える声は誤魔化しがきかない。
「だから兄を……一条家の花嫁として迎えてください」
そう言い終えると同時に通話を終了させ、再び電源を落とした。一方的で、実に身勝手な決断だと分かっている。でも、こうでもしなければ彼への想いを断ち切ることは出来ない。
「これでいいんだ……。これで……」
声をあげて泣いた。誰かのことを想って泣いたことなど今までにあっただろうか。その想いが大きければ大きいほど、涙はとめどなく溢れ、堪えきれないものが声となって漏れてしまう。初めての恋を断ち切るのに、何の遠慮がいるものか。この場所にいれば誰の目にも触れることはない。
一条との思い出はすべてここに置いていく。そう――出逢った、この場所で終わらせる。
「真琴……。愛して……た」
震える唇から零れた言葉。それは、一条への想いを断ち切る最後の呪文――のはずだった。
*****
「んん……ぁ」
沙月が首筋の急激な疼きに眉を顰めながら目を覚ますと、あたりは深い闇に包まれていた。時間を確認しようにも、電源を落としたスマートフォンは立ち上がるまでに時間がかかる。パーカーの襟元から指先を差し入れてそっと首筋に触れると、わずかに熱を持ち始めていた。一条が残した噛み痕に触れ、電流が流れるように這う甘い感覚に体を捩った。
いつの間にか苔むした石段に横になり、眠ってしまっていたようだ。頬には幾筋もの涙が渇いた跡が残っていた。ゆっくりと体を起こし、周囲を見回す。髪に絡んだ杉の枯れ葉を手で払い落していると、階段の両脇にある大きな杉の木が激しく揺れ、突風が沙月を襲った。
「ぅわっ!」
巻き上がった砂煙に目を覆うと、その風は瞬時にピタリとおさまった。顔を庇っていた手を退けた刹那、すぐそばに何かの気配を感じて後ろに仰け反った。
「ひぃ――っ」
咄嗟の叫びは声にならず、喉の奥で変な音を発しただけだった。足元を見るだけで精一杯だという闇に覆われた視界の中で、その気配が沙月の近くで動いた。恐怖に慄き、ギュッと目を閉じたまま身を強張らせた。その瞬間、沙月を包み込むように甘い香りがふわりと揺れた。
「――いつまでお前のワガママに付き合わせるつもりだ?」
不意に頭上から降り注いだ低い声にビクッと肩を震わせて、目を開きながらゆっくりと視線を上げていく。そこには、三つ揃いの黒いスーツに身を包んだ長身の青年が立っていた。銀色の髪を風に乱し、背中に折りたたんだ漆黒の翼からいくつもの羽を散らしている。
「真琴……」
暗闇の中で光る金色の瞳は、一寸もブレることなく沙月を見つめていた。両腕を組んだま薄らと微笑む唇は妖艶で、見慣れているはずの沙月でさえ息をすることを忘れるほど綺麗だった。黒い羽根がふわりと舞い散り、あたりは黒い絨毯を敷き詰めたようになっている。
「俺を侮ってもらっては困るな。スマホの電源を切ったぐらいで、俺から逃げられると思っているのか? お前の血の香りを辿れば、世界中どこにいても簡単に探し出せる」
初めて出逢った時と同じ、甘い香りが闇に広がっていく。沙月の荒んだ気持ちを静めてくれる心地よい香り。それを肺一杯に吸い込んで、沙月はゆっくりと丸めていた体を起すと、微動だにすることなく自分を見つめる一条を見上げた。
「――お前は何を考えている? まさかとは思うが、俺の呪縛から逃げようと思っていたわけではあるまいな?」
「違うっ」
沙月は、子どものように大きく首を左右に振った。
「逃げたんじゃない……。俺には、資格がない……」
一条は眉間に深く皺を寄せた。しかし、すぐに大きなため息と共にその表情を崩した。
二人の間で何度も話し合ったこと。それをまたむし返す沙月に、一条が憤りを感じていることには気づいていた。「自信を持て」と何度も言われた。それが、沙月に対しての愛情であることは分かっていたのに、それに応えられない自分がもどかしかった。
「イライラしますよね? 泉にも言われました。存在自体がイラつくって……」
自嘲気味に唇を歪め、溢れそうになる涙をグッと堪える。そんな沙月を見ていた一条は、自身の気持ちを落ち着かせるかのようにつとめて静かな口調で言った。
「――俺がなぜ十年もの時を待ったと思っている? お前に、誰一人触れさせぬよう呪縛をかけたと思う? ただ闇雲にお前を婚約者に決めたわけではない。自分にかかる苦難をすべて受け入れ、それでも純粋に穢れることなく生きるお前に心底惚れたからだ。こいつを守れるのは自分しかいないと思った。触れたら壊れてしまいそうなガラス細工のようなお前が愛しくてたまらなかった。気の強い相手を無理やり開くのも一興だが、それはほんのひと時の楽しみでしかない。優しく見守り、そして大切にしていきたいと思わせる相手――それが永遠の時を共にする者へ抱く感情だ。この俺が選んだのは沙月、お前だ。それは十年前も今も変わらない」
沙月は、一条がその場凌ぎの嘘を吐いているとは思えなかった。だが、泉との逢瀬を楽しんでいた彼の姿が脳裏に浮かぶ。どちらを信じれば楽になれるのだろう。――答えは簡単だ。後者に決まっている。今の言葉が本心であるならば、泉へ向けられていたあの笑みは一体何だったのだろう。沙月は、心の奥底に潜む浅ましい感情を隠すように俯くと、乾いた唇を開いた。
「――あなたは、泉を選んだんじゃないんですか?」
一条は乱れた銀色の髪をかきあげる手を止め、胡乱な目で沙月を見ながら低い声で応えた。
「お前が何を見たのかは知らないが、俺が泉に気を許しているように見えたのか?」
「はい。まるで恋人みたいに……」
即答した沙月に、フンッと鼻で笑った彼は、背中の翼を大きく動かした。それは、怒りとも呆れともつかない感情を表していた。煽られて起こった風に黒い羽根が舞いあがり、沙月の髪を飾った。
「俺が選んだのは泉ではない、お前だ! 何度かアイツの誘いを受け、食事に行ったことは認める。だが……花嫁候補として性技を教え込まれた体、そして地位や権力を手に入れるために誰にでも簡単に脚を開くような花嫁には興味はない。咥え込んだ男の精の匂いを振りまきながら、この俺に自分を売り込んでくるなんて礼儀知らずにもほどがある。俺もずいぶんとナメられたものだな。ワインの香りも分からなくなるほどの複数の男の匂い……。吐き気さえ覚える時間から一刻も早く逃げ出したいと思っていた……」
「そんな……」
「――おそらく、お前が見たという『俺』は俺じゃない」
「え……?」
一条の冷たい手がすっと差し出される。沙月は手を出して一瞬躊躇い、そして思い切ったように彼の手を掴んだ。
「詳しいことは帰ってから話す……」
冷たい風が二人の間を吹き抜けていく。沙月が小さく肩を震わせると、一条は彼の隣に腰かけて大きな漆黒の翼で包み込んだ。柔らかい羽根が冷えた体を包み込むと、沙月はほうっと長い息を吐き出した。触れ合う腕――生地を通して沙月の体温が一条に移っていくのを感じることが出来る。久しぶりの感触に羞恥を覚え俯いた沙月の細い腰を、一条の大きな手が引寄せる。そして、沙月の顔を覗き込むように顔を傾けた。
「――母上と会ったそうだな?」
「え……。あ、はい……」
一条は何かを思い出したようにクスッと肩を揺らして笑うと、沙月の頬にそっと唇を寄せた。
「彼女は、お世辞も煽ても好まない。思ったことは何でも言う、怖いもの知らずだ。何事にも動じない母上が涙声で俺に電話をしてきた『沙月くんに一体何をしたのっ!』――ってな。その剣幕にも驚いたが、何十年ぶりかに説教をされた。その場は何とか宥めたが、母上はお前が心配で仕方がないようだ。あの人がこれほど誰かに想い入れるのは、死んだ親父以来だな。断食して、わざわざその姿を変えてまでお前に会いに行ったなんて……考えられない」
「俺は、お義母様にまで……迷惑を……?」
「そう思うのなら、きちんと謝ることだな。その前に……俺に謝れ」
一条は沙月の顎をくいっと持ち上げると、冷たい唇を重ねてきた。長く伸びた爪を気遣いながら、角度を変え、深く舌を絡ませる。
「は……んんっ」
どれくらいぶりのキスだろう。会いたくて。でも……会えなくて。一条は、沙月が欲しいものを何でも与えてくれる。優しさ、安心感、愛しさ……そして、自信と勇気。それまでどんなに求めても手に入らなかったものを、全部くれる。
沙月の手が一条の両肩に添えられ、誘われるままに舌を差し出す。飽きるまで……という言葉は今の二人にはなかった。いつまでも唇を重ねていたい欲望に突き動かされ、本能のままに貪った。
一条が満足げに微笑んだタイミングで、二人の唇がそっと離れた。銀糸を纏わせたまま唇を震わせた沙月が囁く。
「――こんな俺でいいんですか? 何の取り柄もない、芝山の姓を辱めてきた存在でしかない俺……」
未だ後ろ向きな感情を滲ます沙月に、一条は甘さを含んだ金色の瞳で睨んだ。
「まだ俺を信じられないというのか?」
「そうじゃない……けど」
「お前を選んだのはこの俺だ。お前は、一条家の花嫁として堂々と胸を張っていればいい」
一条は、沙月のパーカーの襟元に指を忍ばせて大きく広げると、その白い首筋をうっとりと見つめながら吐息した。ここ一ヶ月ほど口にすることも叶わなかった沙月の血が、先ほどのキスで欲情し、甘やかな香りを放ちながら誘うように一条の鼻孔をくすぐる。
「いい香りだ……」
首筋に唇を押し当ててキスを繰り返す。温度の感じられない唇が触れるたびに、沙月は小刻みに体を震わせた。「愛しい……」と何度も繰り返す一条の声に、沙月もまた、じわじわと体内を侵食されるように広がっていく甘い痺れに熱っぽく息を吐いた。
「――もう一ヶ月近くお前の血を飲んでいない。仮の姿を保つ力もなく、今はこの通りだ」
一条は長い爪で銀色の髪を一房摘まんで見せた。綺麗な弧を描く薄い唇の両端には象牙色の鋭い牙が見え隠れしていた。沙月の前では無防備にその妖艶な姿を晒す一条だったが、ここのところ会社に姿を見せることがなかった理由が今になって分かった気がした。
「あなたが本当に俺を必要としてくれるのならば、俺もあなたにすべてを委ねます」
「俺の力の糧となっているのは、お前の血だけだ……」
硬い牙をやんわりと肌に押し付けられ、何度も経験しているはずの行為なのに背筋がゾクリと震える。微かな痛みは、沙月の中に秘められた一条の呪縛を呼び覚ます。
「泉の血を飲んでいたんじゃ……」
「バカを言うなっ!」
ムスッとした表情で首筋から勢いよく顔を上げた一条は、欲情の為にかなり伸びた牙を剥き出して沙月を睨んだ。
「すぐそばに婚約者がいるというのに、なぜあんな男の血をわざわざ食す必要がある? 十年前と変わらないお前の血は、他の何物にも代えられない」
吸血鬼の力は強大で、その力を抑え込んでおくだけでも相当な力を要すると聞いていた。その力がコントロール出来なくなるほどに血に飢えていたにも拘らず、他者の血を飲むこともせずにここまで過ごしてきた一条が意地らしくもあり愛しくもあった。自分の血が彼を生かす――そう思うだけで、嬉しさで胸が苦しくなる。
「すみません……」
素直に謝った沙月に脱力し、柔らかな笑みを浮かべたまま再び首筋に顔をうずめた一条は、沙月の耳朶を甘噛みして低い声で囁いた。
「――俺を、母上のような姿にする気か?」
喉の奥でククッと笑ったと同時に、首筋に鋭い痛みがはしった。
「んっ! あぁ……っ」
沙月の顎が上向き、濡れた声が漏れた。彼の鋭い牙が皮膚を突き破り、深々と侵入してくる。その熱さに、頭の芯が蕩けそうなほどの快感を覚え、沙月は背中を仰け反らせた。背中に食い込む一条の爪でさえ、いまの沙月には快楽のためのスパイスにすり替えられる。下肢に集まってくる熱をなんとか逃がそうと大きく息を吐くが、それは艶めかしい喘ぎ声となって闇に響くばかりだ。一条が血液を啜り上げる音と嚥下する音がやけに大きく聞こえ、沙月は『贄』であることを実感した。
「んはぁ……ぁぁあ……っ」
力を持ち始めた股間をジーンズの生地が締め付け、自身の昂ぶりをまざまざと感じさせられる。そっと手を伸ばそうとするが、あっさりと一条に手首を掴まれ動きを封じられた。
「あぁ……っ。も……いや……あぁっ」
いくら久しぶりとはいえ、吸血行為だけでこんなに体が昂ぶったのは初めてだった。それほどまでに彼を求めていた自身の浅ましさに恐れをなす。冷たい彼の唇が肌を吸い上げる。その度に、こめかみがドクドクと脈打ち始め、ギュッと閉じた瞼の裏でいくつもの光が瞬いた。
「お願い……。イカせて……はぁ……あぁぁぁっ」
一条にしがみついて腰を突き出して揺らすと、沙月はそのまま絶頂を迎えた。
「あぁ……はぁ、はぁ……っ」
彼の腕の中でくったりと体を弛緩させる。腰が気怠く、胸を仰がせている息はまだ落ち着くことはなかった。下肢に温かいものがじんわりと広がり、下着はおろかジーンズにも吐精のシミが色濃くなっていく。息を弾ませながらも、外気に冷やされていく下肢に猛烈な羞恥を感じ、沙月は、彼の腕から逃れるように体を捩じった。しかし一条は、沙月の体を離すことなく、深く食い込ませていた牙をゆっくりと引き抜くと、傷口を舌先で丁寧に舐め始めた。その滑らかな舌先の動きにさえも絶頂を迎えたばかりの敏感な体は顕著に反応してしまう。
「あ……や、はぁ……っ」
あまりの興奮と羞恥で焦点の合わない沙月の目を見下ろしながら優しく微笑んだ一条は、長身の体を屈めジーンズに滲みこんだ精液に唇を寄せた。
「いい顔だ……。その艶のある表情、俺以外に見せることは許さないぞ」
「いやっ! 真琴……それ、嫌だ! は、はずか……しいっ」
見せつけるかのようにジーンズの上から沙月の昂ぶりを舐める一条の目は一段と輝き、普段よりも青みが増している。顔を真っ赤に染め、一条の銀色の髪に指を食い込ませて拒む沙月。それを見た彼は息を荒らげて苦しそうに言った。
「ハァ、ハァ……。沙月、このまま……お前を……」
一条の瞳がギラリと輝いた。だが、それは一瞬でハッと我に返ったようにグッと拳を握った彼は、肩を上下させて呼吸を整えると、掠れた声で名を呼んだ。
「――沙月」
沙月は、本能のままに自身を欲する彼を目の当たりにし、愉悦に震えた。あのまま彼が暴走していたら、もしかしたらこの場所で婚姻の契りを交わしてしまったかもしれない。でも、それは一条の中では許されないことだったのだろう。どれほどの力で理性を保ったのか、わずかに血が滲んだ掌を見た沙月は、彼の愛情をこれでもかと見せつけられたような気がした。
欲情したままの瞳で見上げた一条を泣きそうな顔で見下ろす沙月。魔族の中でも高位貴族とされる吸血鬼。プライドが高く上下関係も厳しい。古から日本に栄えた一族だが、現存する純血統の数は減少の一途をたどっている。その稀少な血を継ぐ一条家の当主が、家族から蔑まれ、兄に命を狙われる不幸な生い立ちの男の前に膝をつき、娼婦のように精を啜っている。しかも、満足げに笑みを浮かべて……。
本来であれば優越感に浸るところではあるが、沙月は違った。こんなところを誰かに見られたら一条の名に傷がつく。あり得ないことではあるが、泉に見つかったらと思うと気が気ではなかった。
「真琴……も、やめてっ」
沙月は勇気を出して声を絞り出すと、目を潤ませて何度も首を振った。その切羽詰まった声に気づいた一条は体を起こすと、彼の涙を指先でそっと拭った。
「こういうのは嫌か?」
「真琴が――吸血鬼であるあなたがすることじゃないっ」
「じゃあ、誰がするんだ? 最愛の者の精を口にすることは悪いことではないだろう?」
「そ……じゃなくて。俺みたいな……人間に膝をつくとか……あり得ない」
一条は沙月の言わんとしていることに気づいたが、フンッと鼻を鳴らして口角を上げた。
「じゃあ、お前も俺と同じになればいい。そうすれば問題はあるまい?」
「え?」
「贄花嫁は一族の血を繋ぐ大切な役目を担う。どれだけ位が高く、力がある魔族であっても花嫁には敬意を払う。お前はもう、ただの人間ではない。俺の……大切な花嫁だ」
一条は一度立ち上がり、上着のポケットから小さな箱を取り出すとその場に再び片膝をついた。石段の幅はそう広くはない。それでも彼は背筋を伸ばし、背中の翼を風に揺らしながら沙月を見つめた。小さな箱を沙月の目の前に差し出し、そっと蓋を開ける。
「この場で――お前と出逢ったこの場所で再度申込む。俺の花嫁として共に生きてくれないか」
ビロードの台座に収められていた金色の細い指輪を指先で摘まんだ一条は、沙月の左手の薬指にゆっくりと嵌め込んだ。その瞬間、ざわりと鎮守の森が揺れた。眠っていたであろう鳥たちが見えない力に驚き、一斉に夜の空に飛び立った。
優しく掴んだ沙月の指に一条がキスを落とす。極度の疲労と緊張感から解放されたせいか、沙月を急激な睡魔が襲った。
薬指に今までに経験したことのない重みを感じ、沙月はゆっくりと息を吐いた。だんだんと霞んでいく視界、閉じていく瞼。傾いた体を抱きとめる力強い一条の腕。
遠のいていく意識の中で彼の声が聞こえたような気がした。その言葉に応えるように、沙月は穏やかな笑みを浮かべたまま深い眠りについた。
*****
ぐったりとした沙月の体を軽々と抱き上げた一条は、うっすらと開かれたままの唇を何度も啄んだ。
「いい返事を待っているよ……沙月」
微笑んでいるようにも見えるその寝顔に、次々と溢れてしまう想いを止めることが出来ない。愛おしくて堪らない。このままいつまでも見つめていたい……。自嘲した一条は、沙月を抱き上げると漆黒の翼を大きく羽ばたかせた。満点の星が瞬く夜の空へと舞い上がり、いつかこの空を共に見たいと切に願った。
沙月は生贄ではない。自分の意志で未来を決める。その彼を命を掛けて守り、愛するのが花嫁をもらう魔族の務めだ。
沙月が選ぶ道に口を出す者はもういない。そう――一条にもその権利はない。だから……いつまでも待つ覚悟は出来ている。
愛らしい唇でもう一度、自身の名を呼んでくれることを。そして、いつ果てるとも分からない長い時を共に生きてくれることを――星に願う。
一条は、十年前と同じように腕の中で安らかな寝息を立てて眠る花嫁を愛でるように、いつまでも目を逸らすことなく見つめていた。
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