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【9】

 全てが夢――だったのか。沙月は気怠い体を動かして寝返りを打った。体は鉛のように重いのに、意識だけはハッキリとしている。 (ここは……どこ、だ?)  小刻みに瞼を震わせてゆっくり目を開けると、滑らかなシーツの上で横たわっていることに気づく。視線だけを移動させ周囲の様子を窺うと、そこは見慣れた一条のマンションの一室だった。  広いベッドの端の方で体を丸めるようにしていた自分が全裸であることに不思議と違和感は感じなかった。体の向きを変えると、そこには『あの人』の痕跡が残っていた。幾筋もの皺が寄ったシーツには甘いバラの香りが染み込んでいる。 「真琴……?」  夢の中と同様に熱を帯びている首筋に手を触れる。ふと、肌に触れた冷たい感触に小さく息を呑み、その手をゆっくりと自分の目の前に掲げた。沙月の左手の薬指には金色の指輪が嵌められていた。ボリュームのあるものではないが、繊細な唐草模様と一条家の家紋が半分だけ彫られている。 (夢じゃなかったのかっ!)  驚きと共に、夢だと思っていたことが現実であったことを知る。そして、すべての荷が肩から下りたかのように身軽になっている自分がいる。遮光カーテンのわずかな隙間から差し込んだ光に手を翳し、あの時の一条の言葉を何度も反芻していた。 『俺の花嫁として共に生きてくれないか』  自分だけを見つめる真剣な眼差し。その奥には、彼の優しさと愛が溢れていた。もう不安も恐怖もそこにはなかった。一条が紡ぐ愛という鎖で縛られた体が心地よく、沙月は薄らと笑みを浮かべた。  不意に響いたドアをノックする音に我に返った沙月は、小さな声で「はい」と応え、細い体をゆっくりと起こした。 「――失礼いたします。お目覚めになられましたか?」  聞き覚えのある澄んだ声にホッと胸を撫でおろす。普段は隙のないストイックなスーツ姿である保科が、白いシャツにスラックスと同色のベストという実にシンプルなスタイルで現れ、沙月は大きく目を見開いて息を呑んだ。着衣だけでなく、何よりも驚いたのは沙月に向けられた異彩の瞳だった。 「保科さん……。その瞳は……っ」  普段はきちんとセットされている前髪が今日は無造作に下ろされ、形のいい額を隠している。その前髪の奥に見えたのは、右側だけが深海のように青い瞳だった。  彼は別段驚く様子もなく「あぁ……」と苦笑いをして見せる。そういえば、保科のことについて何も知らなかったことに気づく。一条以外で唯一、沙月のそばにいてくれる有能な執事――。それなのに、今までの沙月には彼を知ろうとする余裕すらなかった。 「――深雪で結構ですよ。ご気分はいかがですか? 今までこのマンションへの出入りをずっと監視されていたので、お二人の帰宅を悟られないために強力な結界を張っていましたから、沙月様の体にも負担をかけてしまっていたかもしれませんね? まったく……あなたのお兄様にも困ったものです」 「すみません……。あのっ。あなたも……吸血鬼なんですか?」  保科は手に持っていたシルバートレーをナイトテーブルに静かに置くと、ティーポットに手をかけ、慣れた手つきで温めたカップに紅茶を注ぎ始めた。ふんわりと柔らかな香りが部屋に広がっていく。 「いいえ。私は代々この一条家の御守として血を継ぐ狼一族の者です。まぁ、私の場合は諸々の事情がありましてこんな姿なのですが。本来、狼一族は両目ともこの青色なんですよ」  薄い唇を綻ばせて自嘲する彼をじっと見つめていた沙月は、栗色の瞳をより大きく見開き、キラキラと輝かせながら興奮ぎみに口を開いた。 「綺麗な瞳……っ。こんなに鮮やかな青は見たことがないですよ!」  沙月の言葉に弾かれるように顔を上げた保科だったが、すぐに元の落ち着いた表情に戻ると儚げに微笑んだ。 「一族には忌み嫌われるこの瞳を、綺麗だと褒めてくれたのは真琴様とあなただけです」  保科に差し出されたティーカップをソーサーごと受け取ると、沙月はそっと口をつけた。琥珀色の温かい液体が疲労を覚えた体中に染み渡るようだ。 「あの……。真琴は?」  彼の痕跡だけが残り、その温度さえも残っていないシーツに視線を落としながら問うた。深い眠りだったにも関わらず、触れていた彼の肌の感触をしっかりと覚えている。温度を感じない体が、沙月の熱で徐々に温かくなっていくのを、夢の中ではなくリアルに感じとっていた。 「――真琴様は、花嫁選定の会場にお出かけになりました。沙月様がお目覚めになられたら、会場にお連れするように申し付かっております」 「花嫁選定……。ちょっと、待って! 真琴は何をしに行ったんだ?」  カップを乱暴にテーブルに置くと、沙月は保科を見上げて声を荒らげた。華奢な肩にかろうじて引っ掛かっていたシーツが滑り落ち、白い背中が露わになる。寝室の寒々とした空気に直接触れたせいか、それとも別の感情が動いたのか。沙月は小刻みに震え始めた。 「真琴と戻ってきて……。ここで……俺たちは、体を……繋げたの……か?」  一語一語確かめるように言葉を紡ぐ沙月に、保科はゆっくりと首を左右に振ると小さく息を吐いた。そして、沙月の白い肌にそっと――壊れものにでも触れるかのように長い指先を滑らせた。首筋から鎖骨、胸から脇腹。螺旋を描くように動く保科の指を沙月の目が落ち着きなく追った。 「――いいえ。まだ婚姻の契約は交わされてはいません。あの方にどれだけ大切にされているか、まだ気づかれていないなんて」 「どういう……こと?」  保科の視線の先を辿って沙月が自身の体を見下ろすと、赤く鬱血した跡が点々と残されていた。一条とこういった関係になって、これがどういう物であるかということは、未だ処女である沙月にもすぐに分かった。沙月が眠っている間につけたであろう一条の情痕。それに触れ、彼の唇の感触を思い出した沙月は、体の奥が疼くのを止められなかった。 「意識のないあなたと体を繋げるなんて、そんな非情なことをする方だとお思いですか? 真琴様が十年前にあなたに抱いた気持ちは今も変わってはいません。いや――今はもっと増幅しているのかもしれませんね。この十年間、真琴様はあなたの気持ちが自分から離れていくことに恐怖を感じて過ごしていらっしゃいました。何事にも動じないあの方が、あなた一人を想ってですよ? もしも、再会を果たした時にあなたの気持ちが変わっていたら……。ご存じの通り、魔物と接し、その誓いを違えた者は死でその罪を償わなければいけません。十年経った今、あなたに真琴様を想う気持ちがなくなっていたら、きっと殺されていたかもしれませんね……この私に。贄である人間を娶る魔族は、昔から相当な覚悟を以って婚姻を成立させて来たのです。身勝手な行動が大切なものを失う結果になる……その可能性を踏まえて」  水面に広がった波紋をそっと弾くかのように、肌から離れた保科の指が優しく沙月の手を握った。一条よりも温かさを感じるのは、彼が体温の高い獣の血を継いでいるからだろう。握った手をそっと引き寄せて自身の口元に運んだ保科は、沙月の小さな爪に唇を寄せた。 「――それゆえに、真琴様はあなたのお気持ちを何より一番に考え、大切になさっているのです。沙月様自らが同じ者になりたいと心から望んだ時、その時こそが婚姻の時だとお考えになっているからです。それまでは本能を出来うる限りの理性で押し留めていらっしゃいます。昨夜もここに戻られるなり、さも愛おしそうにあなたを抱いたまま何度もキスを繰り返していらっしゃいました。真琴様が一番恐れていること――それはあなたに信じてもらえないこと。この私が口を挟むことなどおこがましいのですが、あなたを裏切るような真似は絶対になさってはいません。だから……」  普段は口数の少ない保科の饒舌ぶりに、沙月は黙ったまま耳を傾けた。一条が安易に自身の気持ちを口に出さなかった理由が分かったような気がして、左手のリングにそっと唇を押し当てた。 「好きだ」「愛している」――言葉にすることは容易だが、その本質を伝えることはなかなか難しい。たった一度では想いが足りないと誤解し、事あるごとに囁けば薄っぺらい安物に変わってしまう。どちらも受け取る側の気持ち次第ではあるが、言葉を差し向ける方としてはその繊細な想いに頭を悩ます。一条もまた、沙月の境遇を知っているだけに、どう距離を縮めていけばよいのか判断がつきかねたのだろう。完璧と言われる彼にも不器用な一面があったことを知り、沙月の肩の力が抜けた。 「――分かりました。俺はもう逃げたりしない。今まで、何かを欲しいなんて思ったことなかった。それは俺が生きていく上で絶対に許されないことだったから。でも今は……違う。一条真琴と一緒に生きたい……」  沙月を見つめていた保科が小さく息を呑んだ。そして、ゆっくりと頷いて見せた。 「一条家の執事として――いいえ、御守としてご一緒させていただきます」  まるで、高まる感情を落ち着けようとするように、何度か深呼吸を繰り返した保科は、穏やかな笑みを浮かべながら深々と頭を下げた。  ***** 「――一条真琴と一緒に生きたい」  強い意思を持ち、真っ直ぐな光を湛える沙月の栗色の瞳に、保科は息を呑んだ。今までにない強烈な色香を放ち、凛とした表情を見せる彼に、一条家のこれからを見たような気がしたからだ。 「そうと決まったら、のんびりとなんかしていられないね。深雪さんっ」  沙月は、戯れる波のように腰に纏わりついていたシーツを掴み、ふわりと風を纏って体に巻きつけると、勢いをつけてベッドを下り、しっかりとした足取りでバスルームへと向かった。  その後ろ姿はまるで、無邪気に白無垢を纏う乙女のように可憐で美しい。保科は眩しそうに目を細めたまま、この上なく愛らしい主の誕生に胸を躍らせていた。 *****  保科がクローゼットから出してきたスーツは、一条が贔屓にしているテーラーにオーダーしておいたものだった。沙月の白い肌に似合う青みがかったグレーは、幼さが残る彼の表情を大人びて見せた。シャツやネクタイ、革靴やタイピン、カフリンクスに至るまで一条自身が沙月のために選んだという。多忙な彼が仕事の合間を縫って、この日を想定して用意していたことがありありと分かる。  そんな彼の気持ちに応えるように、沙月は急いで身支度を整えると、保科と共に花嫁選定が行われる会場へと向かった。  一条のマンションを出発して一時間弱。そこは国内でも最高級クラスと称されるTホテルの別館にあたる純和風の建物だった。ホテルのメインゲートから少し離れた場所にある駐車場に車を止め、広大な日本庭園を眺めながら奥へ進むと、白い玉砂利を敷き詰めた通路が長く続く。その突き当りにある大きな木製の門をくぐった。  石橋の掛かる池を中央に配した日本庭園は静かで、わずかにそよぐ秋風と鳥の囀りしか聞こえない。起伏を作るための築山、散策路を囲むように配置された大小さまざまな形の庭石、そしてきちんと手入れがなされた松も、もう少し日が経てば雪囲いの景色へと変わっていくだろう。  物珍しさに周囲を見ながら歩いていた沙月だったが、緑の中に突如として現れた、木造平屋建て数寄屋造りの大きな屋敷の前でピタリと足を止めた。その迫力に驚き、何度も瞬きを繰り返した。  杉をメインに使った重厚な佇まいの入口に、黒い礼服に身を包んだ初老の男性が現れた。茫然と立ち尽くしたままの沙月を気遣い、半歩前に出た保科に向かい掠れた声で言った。 「本日、ここは関係者以外の方の立ち入りをお断りしております」  しかし、その牽制にまったく怯む様子もなく、優雅に一礼した保科は柔らかな口調で応えた。 「本日の花嫁選定に名を挙げております一条家の執事、保科と申します。主より所用を仰せつかっており、ここに遅れましたことをお詫び申し上げます」  するとその男性は「あぁ……」と感嘆の声を上げると、さっきとは打って変わった和やかな表情で二人を案内をした。一条という名がどれほどの威力を持っているか、まざまざと見せつけられた気がした。  外観は古めかしい、実に存在感のある数寄屋造りではあるが、その内部は靴を脱がずとも歩行可能な大理石と、毛足の長い絨毯が敷き詰められていた。ロビーにも似た歓談スペースを抜け、奥へと続く廊下の壁面は大きなガラス張りで、庭園が一望できる作りになっている。  沙月たちが、豪奢な金屏風と革張りのソファが置かれたホワイエに到着すると、怒号ともとれる男の叫び声が静寂を切り裂くように響き渡った。 「――絶対に認めない! そんなことが許されるはずがないだろうっ!」  豪華な彫刻が施された木製のドアが勢いよく開き、スーツ姿の長身の青年が現れた。その後を追うように細身の青年が飛び出してくる。その姿を見た沙月は、息を呑んだまま動けなくなった。 「兄さん……」  綺麗な顔を歪めて声を張り上げ、取り乱したように青年に縋りつく泉の姿を目の当たりにした沙月は、薄い唇をきつく引き結んだ。沙月の様子に気づいた保科が身を案ずるように、一歩前に足を踏み出した。 「――一体どういうことか説明してくれ! これじゃあ、納得がいかない!」  泉は前を歩く無表情の青年を何度も問い詰める。そんな泉に対し冷ややかに侮蔑の視線を投げかけた青年は、沙月たちの前で足を止めた。揺るくウェーブした漆黒の髪をセットし、寸分の隙もなく三つ揃いのスーツを着こなした男――一条真琴が、そこで初めて柔らかな笑顔を見せた。 「深雪、世話をかけたな。――沙月、目覚めのキスをさせてくれ」  一条の長い指先が小ぶりな沙月の顎を捉えると、冷たい唇が重なった。そのキスには、戸惑いも躊躇いも感じられなかった。ただ純粋に、沙月を求める一条の心が感じられた。長い口づけを終え、名残惜しそうに舌を残しながら離れていく一条を、沙月はうっとりと見上げたまま言った。 「――ここで。今、ここで……お返事をさせて下さいっ」 「沙月……」 「あなたを、愛しています。そして、これからもずっと……あなただけを愛します」  誰の言葉でもない。沙月が自らの意思で導き出した答えに満足げな笑みを浮かべた一条。その背後で、泉が人間とは思えない――例えるならば鬼の形相で睨んでいた。男女問わず魅了し、妖艶に色香を振りまいていた美しい顔は酷く歪んでいる。兄とは思えないその姿に、沙月はそっと視線を逸らした。 「沙月、貴様がなぜここにいる! 一条家の辞退の理由はやっぱりお前だったのかっ。こんなことが許されるはずがない。俺は十年前に花嫁候補として選ばれたんだぞっ! この十年間……一条家の花嫁になることだけを目標にしてきたっていうのに! 貴様は、どれだけ俺の邪魔をすれば気が済むんだっ! 芝山の名に泥を塗ったんだぞ! この恥さらしがっ!」  場所をわきまえることなく、沙月に対して辛辣な言葉を容赦なく浴びせる泉。その勢いのまま動けずにいる沙月に襲い掛かろうと手を伸ばした瞬間、保科が二人の間に体を割り込ませ、泉の手首をグッと掴み上げた。 「どけっ! 殺してやる……。やっぱりあの時、殺しておけば良かった!」 「それは魔族への冒涜ですか? いくら贄家に選ばれたあなたでも、真琴様の婚約者に手を出すことは許されません。それでも制止を振り切るというのなら、あなたを噛み殺すことも厭わない」 「婚約者……だと?――笑わせるなっ! 魔族の花嫁は、代々続く贄家の長男と決まっているじゃないかっ。こいつは俺の弟だぞ? こんな例外を許す選定協会もロクなもんじゃないなっ。沙月……『仕来たり』は、お前がどうあがいても覆すことなど出来るわけがないんだぞ!」 「兄さん……」 「なぁ、沙月。どうやって真琴様に取り入ったかは知らないが、彼がお前のようなクズを相手にするわけがないだろう。俺は、お前を芝山家の者だとは認めていない。もちろん弟だとも思っていない」  泉の容赦のない発言に、沙月は彼から目を逸らすことなく真正面から睨みつけると、それまできつく結んでいた唇をゆっくりと解いた。 「俺も……あなたを兄だとは思っていない」 「なにっ!」  怒りに震えた泉は、渾身の力で保科の体を突き飛ばし、沙月の胸ぐらを掴みあげた。乱暴に揺すりあげられた沙月の体が前後に揺れ、栗色の髪が乱れて頬に纏わりつく。じわじわと力を込めていく泉の手から逃れようともせず、沙月はただ欲に塗れた彼の淀んだ瞳だけを見つめていた。 「貴様っ! おい……今ならまだ許してやってもいいっ。彼との婚約を破棄しろ! 今すぐにだっ」 「い……やだ。絶対に……イヤだっ!」 「貴様という奴はぁ!」  泉の両手が沙月の細い首に掛かった時、あの駐車場でのことを思い出した体が動きを止めた。ぎりぎりと締め上げる彼の背後に立つ一条の姿を見て、沙月は無意識にふっと微笑んだ。 (もう、何にも怖くない……)  そう思った刹那、一条の大きな手が泉の肩を掴んだ。そして、力任せに払いのけると、肩を打ち付けながら絨毯の上に転がった泉を冷ややかな目で見下ろした。その瞳は青みの強い金色に変わり、彼の怒りを顕著に表していた。 「――貴様ごときが俺の花嫁に手をかけるなど、到底許されることではないぞ! それを承知での愚行か? 一度目は見逃してやったが、婚姻前の体に傷を付けられたとなれば話は別だ。それなりの覚悟は出来ているということだろうなぁ?」  激昂し、長く伸びた牙を剥き出して声を荒らげた一条に慄いたのか、泉は絨毯の床に転がったまま目を潤ませた。そして、同情を誘うようにか細い掠れ声で言った。彼が得意とする泣き脅しの策に転じたようだ。 「真琴……様。何度も抱いてくれたじゃないですか。あれは……遊びだったのか? 俺に囁いた愛の言葉も……全部……嘘なのかっ!」 「貴様など、一条家の花嫁として認めるわけがないだろう。魅力など何も感じない。どれだけ優れていても興味をそそられなければ意味がない。それに……その穢れた姿を見せるな。どうしても目通しを願うのなら、その体に染みついた他の男の匂いを消してくることだなっ」  一条は抑揚なく低い声で言い放つと、まだふらついている沙月の体を抱き寄せた。あの夜に植え付けられた泉からの恐怖は、そう簡単には消えてくれない。気丈に振る舞っていても、沙月の体は小刻みに震えていた。無意識にカチカチと鳴る奥歯。それに気づいた一条が、宥めるように優しく唇を啄んでくれる。怯えて焦点が合わずにいた目が、ゆっくりと一条の顔を認識した。  魔族の力に抗うことも出来ずに体を床に強く打ちつけ、痛みに顔を顰めながら立ち上がった泉は、悔しそうに歯ぎしりをしながら声を張り上げた。 「お前とは……違う! 俺は何度も……真琴様と体を繋げた。この意味が分かるか?――ふふっ。魔族と体を繋げてその精を受け入れれば、体は必然的にその魔力を我が物に変えていく。そうだ! 俺の体にはすでに吸血鬼の力が宿っているっ」  一条に抱きよせられ、その広い胸に体を預けた沙月は、まったく表情を変えない。先ほどの動揺が嘘のように、感情のない目で実の兄をただ見つめていた。 (もう……真琴を疑うことはしない)  もしも一条に、後ろめたいことがあるというのならば、これほど強く抱きしめたりはしないだろう。絶対に離さないと言わんばかりに、彼の腕には力と共に強い想いが込められていた。 「どうだ? 何も言い返せないようだな。素直に身を引けっ!」  強打した肩の痛みに顔を歪ませながらゆっくりとにじり寄る泉の肩越しに、豪奢な木製のドアが開くのが見えた。そこから姿を現したのは、上品な淡い紫色の着物に身を包んだ華代と、一条とそう身長の変わらない青年だった。  華代は、沙月の姿に気がつくとパッと顔を輝かせ、着物の裾を気にしながら小走りに駆け寄ってきた。 「沙月く~んっ」  抱き寄せていた一条を払い退けて沙月に抱きつくと、その顔を見せろと言わんばかりに、両手で頬を優しく挟みこんだ。 「ホントに心配したのよっ! うちのバカ息子のせいで……本当にごめんなさいね。今度からは、何かあったらすぐに私に連絡を頂戴っ。何があってもすぐに駆けつけるから!」  突然すぎる華代の行動に目を見開いたまま動けずにいた沙月だったが、状況を理解すると慌てたように声をあげた。 「お義母様っ! ご迷惑、ご心配をおかけして……申し訳ありませんでした」 「いいのよぉ~っ。あなたが無事だったのなら」  このまま放っておけば、際限なくテンションを上げていく華代を牽制するかのように、一条がわざとらしく大きい咳払いをした。 「母上……」 「なに?」  沙月との再会を邪魔されたことにイラついたのか、一条を睨みつけた華代は「あ……」と自らの愚行に気づき、恥ずかしそうに声を上げて沙月からいそいそと離れていった。そして、着物の襟元を直しながら一つ咳払いをして真剣な表情で口を開いた。 「――つい先ほど、花嫁選定の儀、一条家の辞退が正式に認められたわ」 「本当……ですか?」  沙月の声が震えている。それは、選定メンバーから一条が離脱したと同時に、沙月との婚姻が確実になったことを意味していた。 「本当よ」  沙月が何かを求めるように一条を見上げると、彼は華代と共に部屋から出てきた長身の青年を見つめた。その視線を追って沙月が彼の方を見た瞬間、瞠目したまま言葉を失った。  沙月たちの視線に応えるように、薄い唇を優雅に綻ばせて立つ青年――そこには『一条真琴』がいた。  彼は泉の方をチラリと見てからこちらに向き直ると、恭しく胸に手を当てて深く一礼した。 「――この度は、いろいろとご協力いただきありがとうございました」  低く通る声も、初対面の相手に対して好感を抱かせる柔らかな話し方も一条そのものだ。その姿を見て困惑した沙月は、すぐ隣に立つ一条とその青年を交互に見つめた。 「真琴が二人……? どういう、こと?」  泉も沙月と同様に、突如現れたもう一人の一条を前に大きく目を見開いたまま動けずにいた。 「正式に一条家の辞退が受理された。あとはお前に任せる……」  沙月の隣にいた一条は、もう一人の一条に向かって目を細めながらそう言うと、立ちつくしている泉に向き直った。 「お前が連日体を繋げていたのは、そっちの『一条真琴』だ。残念ながら俺じゃない……」 「え……?」  泉は信じられないという顔で、もう一人の一条を見つめた。彼は、ふっと口端を上げて微笑むと、素早い動きで泉の背後に回り、その細い腰を抱き寄せた。 「誰……だ。あなたは……っ。離せ!」  パニックになりながら裏返った声をあげた泉に、本物の一条が含み笑いを浮かべながら言った。 「皆が混乱しているようだ。そろそろ正体を明かしたらどうだ?」  その言葉に、青年は泉を抱いたまま身体をぶるりと大きく震わせた。すると、瞬時にまったくの別人へと変わった。漆黒の髪色は明るい茶色に変わり、少し幼さを残すヤンチャな顔つきは愛嬌だけでなくどこか気品も感じられる。自信ありげに見開かれた瞳は、血の色を連想させるほど赤い。黙って立っていればホストと見紛う青年の綺麗な唇からは短い牙が覗き、泉の腰には黒く染められた長い爪が食い込んでいる。そして、一条のモノとはまるで違うむせ返るような甘い香りを漂わせていた。 「ひぃぃっ!」  見たこともない男に後ろから抱きしめられていたことを知った泉は、その姿を目にするなりガタガタと体を震わせ、喉を引き攣らせるような叫び声をあげた。 「――一条の花嫁様にはいろいろとご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。私は、淫魔一族桜坂家当主、桜坂幸徳。以前から気になっていた芝山 泉をどうしても花嫁に迎えたく、真琴さんに協力を願った次第です」  幸徳の言葉に、沙月はハッと息を呑んだ。あの夜、沙月が目にしたタクシーから降りる二人の姿……。愛おしげに泉を抱き寄せてキスを繰り返していた一条は、隣にいる彼ではなく幸徳が変化したニセモノの一条だったのだと気づく。沙月が慌てた様子で隣に立つ一条を仰ぐと、彼は鷹揚に頷いて微笑んだ。 「俺と幸徳の利害関係が一致しただけだ。何も問題はない」 「じゃあ、俺が見たのは……」 「おそらく、幸徳の『真琴』だ。彼が泉と会っている間、俺は身を隠していたからな。いろんな理由をつけてお前を避けていたことは謝る。欺くのはまず味方から……というだろう? お前は泉にマークされていたから、この企てが漏れる可能性があった。せっかくのチャンスをフイにしては元も子もない」 「謝る」といっておきながら、悪びれる様子もなくタネ明かしをする一条を、沙月は思い切り睨みつけた。一条や泉のことで不安に圧し潰されそうになっていた沙月をさらに追い込み、自ら命を絶とうと決意させたきっかけ。どれだけ悩み、どれだけ胸を痛め、どれだけ――一条を愛していることを思い知らされたことか。 「俺を、騙していたのか?」 「そう怒るな。すまなかったと思っている」  一条は、あからさまに不機嫌な様相を見せた沙月を抱き寄せると、かたく結ばれたままの唇の端にキスを落とした。そのすぐそばで、泉の上擦った声が響いた。 「い……淫魔っ。う、嘘だろ……っ」 「あら、お似合いじゃない。泉さんのご希望が叶って良かったわね。彼は政界にも顔が利く資産家の一族だから……」  華代が意地悪げに赤い唇を歪めて微笑む。沙月に見せていた華やかな顔の裏に隠された闇を見たような気がして、やはり彼女も魔族であることを再認識させられた。彼女だけは、絶対に敵に回してはいけない――そう思った。 「――俺には、十年前に婚約を交わした沙月がいる。お前は、自らが望んだものを手に入れればい。魔物の花嫁になるという『仕来たり』には反していないはずだ」 「そんな……こと、許されるわけ……な……いっ」 「花嫁選定の本来の意味。それは、人間と魔物の関係を平穏に保つための『生贄』だ。今でさえ呼び方を変えているが、誰も自ら好んで『生贄』になることを望む者などいなかったはずだ。魔物がその『生贄』を受け入れ、人間との共存を望む。理想的な構図だ。俺は芝山家次男、芝山沙月を我が吸血鬼一族の『生贄』として受け取ったまでのこと。そしてお前は、淫魔一族に選ばれた『生贄』だ。拒否権は認められない。自らの身を捧げることでこの世が平和になると考えれば、おのずと心が安らぐだろう?」 「いや……だっ。俺は……認めないっ!」  幸徳の手を振り払おうと必死に体を捩る泉だったが、魔族である彼の腕はそう安易に解けることはなかった。幸徳の筋肉質で引き締まった体は、淫魔特有の色香を放ちつつも精力を漲らせている。 「泉……。皆の前で行儀が悪いぞ? 協会にはもう桜坂家の花嫁として正式に受理されている。もう逃げも隠れも出来ない。規定を破り、選定前に魔族と体を重ねたお前の罪を、俺が代わって協会に謝罪したことは感謝して欲しいな。誘って来たのはお前の方だったし……。それに、すでにお前が懐妊しているとなれば、誰も反対する者はいないだろうし」 「え……? な、何を言ってる……?」 「会うたびに体を繋げて、淫魔である俺の精を受け入れたのだから、妊娠しない方がおかしいだろ。デキ婚――いい響きだっ。それでもまだ足りないというのなら、毎日毎晩いくらでも抱いてやる。それに、お前の体はもう変わり始めている。桜坂家の花嫁として、欲望のままに淫らに啼いてみせろ……」  幸徳は、泉の細い顎を力任せに捉えると、唇を重ねて貪るように舌を絡ませた。その瞬間、泉の体が大きく跳ねた。打ち揚げられた魚のようにビクンと腰を揺らしながら、幸徳のキスを拒むことなく受け入れている泉の姿がそこにあった。 「淫魔のキスは相手を魅了し、虜にする力があると聞く。蜜のように甘く、一度味わうと二度と離れられない……」  耳元で囁いた一条の甘さを含んだ声に、沙月は体が熱くなるのを感じた。蜜を欲して幸徳の首に両手を絡ませる泉に感化されたわけではないが、自身のことを思えばごく自然な反応といえよう。そういう沙月自身も、一条のキスだけで絶頂してしまうのだから……。 「んん……っ。うふ……っ」  まるで発情した獣のように、泉の手が幸徳の下肢に伸ばされる。スラックスの上からでも昂ぶっていることが分かる幸徳のモノを愛おしそうに何度も撫でては、艶めかしい吐息を漏らす。ずっと片想いをしていた相手が自身の花嫁となった今、幸徳の表情もそれまで以上に上気していた。すっかり欲情し、深紅に染まった瞳を細めながら唇を離した彼は、熱い息を繰り返す泉を見下ろして言った。 「俺のモノが欲しくて堪らないだろう? さぁ、ゆっくりと可愛がってやる……」  蕩けそうな目で幸徳を見つめる泉には、先ほどまでの傲岸な態度は微塵も感じられない。彼の目には一条はもちろん、沙月の姿も映ってはいなかった。唾液で濡れた唇。その端から零れた銀糸を誘うように舌先で舐めとりながら幸徳にしなだれかかった。 「幸徳ぃ……」  強請るような目で、絶え間なく揺れてしまう腰を彼の下肢に擦りつける。正式な契りは交わしていなくても、そこにいる泉はもう人間としての理性を完全に失っていた。妖艶で、強烈な色香を放ちながら相手を篭絡させる淫魔の花嫁。幼い頃から贄花嫁になることだけを目標に、厳しく躾けられた兄の成れの果て……。沙月は、その浅ましさに息を呑んだまま動けなくなった。人間は魔族と触れ合った時、うちに秘めた本性が暴かれるという。欲に塗れ、地位と名声に固執した泉が晒したのは、男の精を糧にし、その力を我が物にして生きる淫魔そのものだった。だから幸徳は惹かれた……。  ここが厳粛な場所であることすら忘れ、幸徳に発情しきっている泉。このままでは自らスーツを脱ぎかねない。そんな泉の様子を見かねた幸徳は、彼を軽々と抱き上げると、その場に居合わせた面々に恭しく一礼した。 「後日、ゆっくりとご挨拶に伺います。今日は、我が花嫁がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。一条家の益々のご繁栄をお祈り申し上げます」  ゆっくりと顔を上げた幸徳は、冷静さを取り戻したのか、人間の姿に戻っていた。魔族と人間の共存――。それを潤滑に行うために、自らの正体を安易に晒すことはしない。時には人々を欺くことも必要になるが、そうやっていつ果てるとも分からない永劫の時を生きていくのだ。この会場を出れば、そこは人間世界。幸徳は少々無茶なことをする男ではあるが、何よりも利口であることには違いない。 「幸徳……。今度はゆっくりと、義兄弟として美味しい酒が飲みたいものだな……」  一条が微笑んで見せると、幸徳の野性味を帯びた目元がふっと緩み、無邪気な部分が顔をのぞかせる。嬉しそうに破顔した彼は声を弾ませた。 「楽しみにしていますっ」  そう言いながら金屏風の向こうに足早に去っていく彼を見送った沙月は、大きく息を吐き出しながら一条に凭れかかった。 「――疲れたぁ」  ぐったりと肩を落とす沙月を覗きこんだ華代は、心配そうな表情を浮かべながら言った。 「沙月くん、大丈夫?――ちょっと、真琴っ。何をぼんやりしているの? 早く家に帰って休ませてあげなさい!」  沙月に関しては実の息子よりも人一倍心配性になってしまった華代に対し、一条は苦笑いを浮かべることしかできなかった。彼女の勢いに圧されるように保科が足を踏み出すのを制して、一条は沙月の体を軽々と抱き上げた。 「えっ? ちょっと……大丈夫だって! 歩けるからっ」 「――昨日の今日だ。帰るぞ」  優しげな異彩の瞳に見つめられ、沙月は素直に頷くことしか出来なかった。彼の魔力にかかったわけではない。ただ、最愛の人がそばにいる安心感に、それまで張りつめていた緊張の糸がプツリと音を立てて切れた瞬間だった。ゆっくりと廊下の方へ歩き出した一条の背中に、華代の声が響く。 「昨日の今日って……何よ? 真琴っ! 沙月くんに何をしたの。事と次第によっては、母は許しませんよ! 彼は、我が一条家の大切な花嫁なんですからねっ」  見上げた先にあった目と目が合った。華代の言葉にクスッと肩を揺らして笑った沙月に、一条は少し照れたように苦笑した。沙月は、今までわだかまっていた心の中の澱が綺麗に浄化され、晴れやかに澄み渡っていくのを感じた。 (全部、終わった……)  古い『仕来たり』も花嫁選定も……。そして、兄である泉との確執も。  新たな気持ちで一条真琴と向き合うことが出来る。ようやくスタートラインに立った気分だ。沙月は、真顔になって左手の薬指に嵌められたリングにそっと唇を寄せた。 「――きます」 「ん?」  緊張と決意の表れで、わずかに声が掠れた沙月に、一条が興味深く顔を寄せた。純真無垢な花嫁の言霊を一つも逃さないように耳を澄まし、嘘偽りのない瞳を見つめながら……。 「――生きます。あなたと共に」  沙月からの想いと決意を耳にした一条は、まるで大輪の花が開くようにその表情をパッと輝かせ、綺麗な唇を満足げに綻ばせた。  心地よい香り、二人分の体重が玉砂利を踏みしめる音、優しく頬を撫でる風……。沙月はそっと目を閉じると、一条の腕にすべてを委ねた。離れていた十年の時を埋めるように。そして、これから二人で歩む果てのない未来を見据えるように。

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