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【11】
沙月は、Iコーポレーション本社ビル最上階にある社長室の前で、落ち着きなくウロウロとしていた。役員室のあるこのフロアには一般社員が立ち入ることはない。
保科からの内線でやりかけの仕事を放り出してきたのはいいが、いざ社長室を前にするとドアをノックすることも躊躇われた。厳粛な婚姻の儀式も無事に終わり、晴れて一条家の嫁として迎えられた沙月だったが、養子縁組の手続きが終わり、一条の姓を継いでもなお他人に徹しなければならない。しかし、一部の役員や、彼に近しい者たちの間では、一条と沙月の関係が秘密裏に囁かれているようだ。
何度もドアハンドルに手を掛けては引っ込めるという動作を繰り返していると、不意に木製の重厚なドアが開き保科が顔を覗かせた。彼は沙月の姿を見るや否や、呆れたように大きなため息をついた。
「沙月様……何をなさっているんですか?」
「何って……。その……入っていいのかな……って」
気まずそうに口籠っている沙月を、野性的な保科の瞳が真っ直ぐに見据えた。
「一般社員ならともかく、あなたは真琴様のご伴侶なんですよ? 社長室に入ることを遠慮するなんて……。どこまで奥ゆかしい方なんですか」
「社内では一応……他人だし。やっぱり緊張する……」
保科は心底呆れた顔で沙月の手を力任せに引っ張ると、有無を言わさず社長室に引きずり込んだ。背後でドアが閉まると同時に、自分が強力な結界の中にいることに気づいた沙月は、驚いたように瞬きを繰り返した。廊下の温度はまるで違う、ひんやりとした空気がピンと張りつめている。
「――結界? 一体、どうしたんですか?」
不思議に思いながら保科に問いかける沙月の声を遮るように、彼は事務的に言った。
「沙月様がいらっしゃいました」
彼が体を向けた方にゆっくりと視線を移すと、革張りのソファに見慣れた顔が座っていた。その顔ぶれに驚きながらも、それまでの緊張が嘘のように解れていくのがわかった。
「沙月くんっ。待ってたのよぉ!」
沙月の顔を見るなり、開口一番そう叫んだのはシックな花柄のワンピースと無地のジャケットという出で立ちの華代だった。普段は和装が多い彼女にしては珍しいなと思いながら、彼女の顔をまじまじと見つめる。洋装に合せて綺麗に巻いた髪もメイクも完璧だ。
「え……? お義母様?」
キョトンとしたままフリーズした沙月だったが、ハッと我に返り、どういうことかと問うように彼女の向かい側に座っていた一条に視線を向けると、彼は指先で額を押さえたまま動かなかった。母親の、嫁に対する興奮の度合いに呆れているのだろうか。
「あぁ……。もうっ、なんて可愛いの! 最近はうちの方にも来てくれないから、寂しくて……。こんなバカ息子なんて放っておいても死なないんだから、うちに遊びにいらっしゃい」
「あ、ありがとうございます。最近、忙しくて……」
「そんなにコキ使われてるの?――そういえば顔色もあまり良くないわね? ちょっと、真琴! 沙月くんに無理をさせてるんじゃないでしょうね? 食事はどうなの? ちゃんと新鮮な血液を飲ませてあげているんでしょうね?」
今にも掴みかからんばかりの勢いで一条をまくしたてる華代に、沙月は彼女のもとに足早に歩み寄ると、ゆっくりと首を左右に振って微笑んだ。そして、華代の手をそっと握りしめると、その甲に唇を寄せた。その手は五十代とは到底思えない程、手入れの行き届いた、柔らかく美しい手だった。
「大丈夫です……ご心配なく。ご挨拶が遅れました」
沙月の姿をうっとりとした目で見つめていた華代がゆっくりと目を閉じる。少しして長い睫毛を揺らして開かれた瞳は、真祖の血を引く高貴な紫色に変わっていた。その瞳が嬉しそうにすっと細められた。
「ホントにいい子! もう、私は沙月くんのためなら何でもするわよっ」
華代のその言葉に、一条がさらに大仰にため息をついてみせた。そして、抑揚のない低い声でボソリと呟いた。
「母上……沙月に会えて興奮するのは分かるが、いい加減にしてくれ。沙月も困ってるだろ?」
母親の言動に照れている息子――という感じではない。婚姻を結んでからもう二年も経つというのに、華代の沙月への愛情が止まらない。夫である京一を失い、一条グループを女だてらに仕切ってきた彼女の張りつめていたものが切れてしまったかのような変わりように、息子である一条も困惑を隠せなかった。
その一方で、こんな無邪気な母親の姿を見たのは初めてだっただけに、案外可愛いところもあったのだと再認識させられもした。
沙月はそんな一条を宥めるように、彼の頬に触れるだけのキスをして隣に腰掛けると、機嫌を窺いながら覗き込むようにして微笑んだ。
「――俺に、何か用ですか?」
「忙しいお前を、わざわざ呼び出すほどのことでもなかったんだが……」
言い淀んだ一条の言葉を遮るように、華代が声をあげた。
「私が話すわ。真琴が進めていたプロジェクト――K町に一条グループ傘下企業の研修施設をつくる件だけど、正式に許可が下りたの。土地はもう購入済みだし、これからは施工会社の選定になるわ。設計事務所との打ち合わせに、沙月くんも同席してもらいたい……って思ったけど、あなたは自分の仕事を優先して。面倒なことは、私が全部引き受けるからっ」
華代は胸元に手を当てて「任せてちょうだい」と自信満々の表情で笑った。沙月に、頼りになるというところを見せたいのだろう。
泉が淫魔一族である桜坂家に嫁ぎ、沙月もまた一条のもとで暮らすようになって、二人が生まれ育ったK町から離れてしまった今、芝山家がそこにあったことを残す物は何も残ってはいない。『仕来たり』に従い贄家としての役目を果たしても、その土地に何かが還元されることはごく稀で、まったく別の場所で各々の人生を歩むのが当たり前になっている。
しかし、それを罰することも、選定条件の中に組み込むこともしない協会に憤りを感じた華代が審査会に苦言を呈し、彼らは見て見ぬふりをしていた事実を認めた。所詮は、魔族と人間の政略結婚を斡旋するだけための『決まりごと』だったにすぎない。婚姻が成立すれば、その恩恵は寄付という形で協会の懐を潤す。
時の流れと共に信仰や郷土愛は薄れ、いつしか営利目的だけの儀式になっていた。一条も華代も以前から、そういった協会の体質に不信感を抱いていたようだ。
それを露呈させたのは、沙月の一言だった。
「生まれ育った町を――真琴と出会った町を守りたい」
荒みかけた幼い沙月の心を癒してくれた情景は今はない。ちょうど十年ほど前から始まった土地開発計画はあっという間に広がりを見せた。田畑は造成され、企業拠点となっている隣接する街のベッドタウンとして住宅地の分譲が進んでいる。
古くから鎮守として祀られていた稲荷神社も老朽化が進み、沙月が二年前に訪れた時も石段は苔むし、鳥居も痛みが酷かった。
せめて一条と出逢った場所だけでも守りたいと思い立った沙月は、最愛の伴侶とその母親に相談を持ち掛けたのだ。二人は沙月の故郷への想いに賛同し、すぐにアクションを起こしてくれた。
今では親戚となった、政財界に顔がきく桜坂幸徳にK町の実態を調べさせ、稲荷神社の再建を早急に手配させると同時に、一条グループ傘下企業の研修施設の建設の話も進めた。自然を守り、寂れた町を活性化させることを最優先に、資金の方も一条家と桜坂家が寄付という形で再開発事業を立ち上げた。
その間、Iコーポレーションも急成長を遂げ、沙月の仕事も多忙を極めていた。夫夫(ふうふ)でありながら顔を合わすことも出来ない日もあったが、一条は何よりも沙月を大切にしてきた。
それに応えるかのように沙月もまた、仕事にも、自分にも自信を持てるようになり、一条家当主の妻として凛とした美しさが板についてきたところだ。
「――幸徳さんも話が分かる男で良かったわ。資金の方はまったく心配はないし、繋がりは信用出来る人たちばかりだし……。今に思えば、真琴と幸徳さんの策略だったとはいえ、泉はいい所に嫁いだわね」
「そうですね……。兄も幸せそうみたいですし」
「でも――。まだ和解するまでには時間が必要ね。それまでは、兄弟であっても会わせるわけにはいかないわ。沙月くんにもしものことがあったら、うちと桜坂家だけの問題ではなくなるから」
花嫁選定によって運命を狂わされた者によっての反乱は、人間と魔族の共存を危うくさせる。そういったことを防ぐためにも、自身の運命を受け入れ、納得するまでには時間が必要だ。
泉は今、その真っ只中にいる。幸徳の寵愛を受け、これで良かったと受け入れるまで、沙月との接触は避けるようにしているのだ。
「いろいろご迷惑をおかけしてすみません。お義母様……」
深く頭を下げた沙月は、ゆっくりと顔を上げると隣に座る一条を見つめた。艶のある黒髪、そして野性味を帯びた金色の瞳。間近で見る伴侶の優しげな表情に、愛おしさが一気に溢れ出してしまう。華代の手前、抱きついてキスをすることは憚られる。沙月は、暴走しそうになる自身を抑え込むように唇を噛んだ。
「母上の言う通り、お前は少し休んだ方がいいな」
一条の声にふっと目を伏せた沙月は、細く息を吐いた。忙しさにかまけて、出来なかったことはたくさんある。その中で、沙月がずっと気になっていることが一つだけあった。
「少しだけ……。お休みを貰ってもいいですか? 社長」
か細い声でそう言った沙月を心配してか、彼の首筋の証を指先で触れながら一条が眉を寄せた。
「どうした? 休暇なら石本に頼んでいくらでも……」
「一日――いや、半日で構わないんです」
いつの時も謙虚な姿勢を崩さない沙月に対し、一条は耳元に唇を寄せて言った。
「遠慮することなど何もないぞ。たまにはゆっくりしたらどうだ?」
沙月の耳朶を甘噛みしながら低い声で囁く一条に下心を見つけ、やんわりと彼を手で押し退けた。一条と過ごす時間は、沙月にとって何よりも大切だ。出来ることなら一時も離れたくないとさえ思っている。でも、仕事は仕事、プライベートはプライベートとしてきっちり割り切りたい沙月は、自身が抱えているプロジェクトを自己都合でおざなりにはしたくなかった。セックスならいつでも出来る。でも、仕事は待ってはくれない。
「ゆっくりするのは、現在進行中のプロジェクトが片づいてからにします」
「――お前の好きにすればいい。仕事なんてどうにでもなる。俺は、お前の体の方が心配でならない」
少しバツが悪そうな顔をして見せたが、それも一瞬で、一条の嘘偽りない優しさに触れた沙月は、自然と零れてしまう笑みを隠すことはなかった。
どこまでも優しく頼りになる男。この優しさに守られて、沙月は強さをもらった。吸血鬼一族としての威厳と誇り、そして彼の妻としての自信とプライド。
「――ありがとう」
心配そうに見つめていた華代に気づいた沙月は、いつものように笑って見せた。その笑顔を一条は「好き」だと言ってくれる。作り物でない本当の心が見えるからだと――。
「沙月くん、絶対に無理はしないでね」
「はい。大丈夫ですっ」
両親の愛情を知らずに育った沙月が幸せだと思う瞬間。それは一人の人間として認められていること。誰にも関心を持たれることがなかっただけに、いろんなことや人と繋がれている今が嬉しくて仕方がなかった。その繋がりを再確認したい。気になっていることを確かめたい――。そう思い立ったのはつい最近のことだ。
一条と初めて出逢ったあの日、彼がK町を訪れていた理由が知りたかったのだ。運命だと言ってしまえばそれまでだが、当主という肩書を背負った彼が、あんな辺鄙な場所で、偶然その場に居た沙月に一目で恋に落ちることなどあるのだろうか。
一条に、今更こんな野暮なことを問う勇気はない。だから、あの場所でもう一度感じたいと思った。十二年前、二人が恋に落ちた手がかりを見つけるために……。
*****
沙月は、新たに参道に敷かれた白い砂利を踏みしめながら、まだヒノキの香りのする本殿を見上げた。黒く汚れていた壁は全面張り替えられ、鬱蒼とした木々の中に差し込む光が改修の終えた白木の社を照らしている。
厳かな冷たい空気の中、沙月は手水舎 に溢れる清水の音を聞いていた。人間が感じることの出来ない張り詰めた空気に視線を上げると、参道の石段に佇む白い影を見つけた。
白い狩衣に藤の文様が入った白袴。銀色の長い髪の頭頂部には三角の耳を携えた青年がこちらを見ている。
気配から同じ魔族だと認識した沙月は、恭しく頭を下げた。
「――お前は確か。芝山の……次男坊か?」
不意に低い声で問われ、身の上を知られていることに驚きながらも瞬きで応えた。
「沙月です。失礼ですが……あなたは?」
「ここの主だ。妖狐――名を狐蝶 という。今日は、一条と一緒ではないのか?」
「彼をご存じなのですか?」
狐蝶は優雅に微笑みながら沙月に近づくと、手水舎の水を手でそっと掬った。山の清流を引いた水はどこまでも透明で冷たい。
「――よく知っておるぞ。そこの大きな杉の木の枝に、人待ち顔で幾日も腰かけていた。私が問うても何も答えずにな……」
「杉の木に? どうしてそんなことを?」
「さあな……。だが、お前と契りを交わした時に腑に落ちた。一条は、お前を待っていたのだと……」
「俺を?」
「一条の当主という重圧、意に沿わない相手と生涯を共にするという古い仕来たりに縛られ、逃げ場を探していたのではないか? 古くから地域信仰があったからこそ、我ら魔族と人間の関係は切っても切れないモノとして残っている。だが、その風習を蔑ろにすれば魔族の存在はいつしか風化し、人間との関わりを失っていく。その選択に迫られ、すべてを捨てる覚悟を決めるためにここで考えていたのだろう」
沙月は狐蝶の指先から滴る水をじっと見つめたまま動けなくなった。いつの時も自信に溢れ、怖いものなど何もないという彼が、自ら命を絶つなんて考えられなかったからだ。
「――しかし、だ。贄家の次男として生まれたばかりに、周囲に虐げられながらも強く生きていたお前と出会い、彼の気持ちが変わったのだろう。自分よりも弱い存在である人間が、強く生きているのを目の当たりにした。一条の心を強くさせたのはお前の純真な想いだ。十年の時を経て実を結んだ恋……」
薄青の瞳を細め長い睫毛を震わせた狐蝶は、何かに気づいたように石段の上り口の方を振り返った。そこには、黒いランドセルを重そうに肩から下ろしながら腰かける小学生の姿があった。彼は、あの時の沙月と同じく、ランドセルの中からノートと教科書を取り出している。
ふと、手水舎の周囲に張り巡らされていた結界が緩んだことに気づいた沙月は、愛おし気にその少年を見つめている狐蝶の姿に一条の姿を重ねた。
十二年前のあの日も、こうやって自分を見つめていたであろう彼の想いに触れたような気がして、溢れる涙を止めることが出来なかった。
過去の自分が小学生と重なる。誰にも必要とされないと思っていた子どもと、仕来たりに縛られた魔物が出会った時、運命の輪が動き始めた。
「狐蝶さま……。あなたも……」
涙を拭いながら沙月が声を震わすと、狐蝶はふっと唇を綻ばせた。その瞳に溢れんばかりの慈愛を浮かべて……。
「――贄家の次男坊。いつも日が暮れるまでここにいる。あの時のお前と同じだ」
「俺……分かったんです。仕来たりや風習は土地を守るために大事なものかもしれない。でも、それよりも大事なものは誰かを思う気持ち。互いに求め合い、慈しむ心です」
「ずっと……考えていた。私もここに縛られ身動きが出来ない身だが、あの子とならば新しい道が拓けそうな気がする。――だが、拒まれることを恐れて、ただ見ているだけの時を過ごしている。相手は人間だ。皆が皆、お前と同じとは限らない」
そう言って狐蝶が寂しげに目を伏せたとき、一陣の風が杉の枝を大きく揺らした。その音に驚いたのか、ビクッと肩を震わせた男の子が恐る恐る振り返る。二人の姿は、彼の目には見えていない。それなのに、なぜか手水舎を凝視したまま動かない。
「――狐蝶さま」
沙月の声に促されるように視線を上げた狐蝶は、指先の水を一振りして大きく息を吐いた。
参道の入口から、ざわざわと音を立てながら巻き上がる風に男の子は目を覆った。その瞬間、すぐ近くに最愛の男の気配を感じて、沙月は肩の力を抜くと薄い唇に笑みを浮かべた。
「――久しいな狐蝶。しかし……我が妻を口説くとはいい度胸だな?」
漆黒の羽を撒き散らしながら風と共に現れたのは一条だった。金色の瞳に警戒心を浮かべながらも、沙月の細い腰を抱き寄せて栗色の髪にそっとキスを落とす。
「フンッ! 誰がお前の嫁になど手を出すかっ」
狩衣の袖を払いながら、顔を背けた狐蝶に一条は言った。
「――見ているだけでは、恋は始まらないぞ。あの子もまんざらではない様子だ」
「なっ! 何のことだっ」
「沙月に何を話したかは知らないが。お前の、その惚けた間抜けヅラを見れば誰でも分かる。――早く手を差しのべてやれ。仕来たりに縛られているだけの時代は、もう……終わった」
「一条……?」
「災いは魔族の仕業。それを鎮めるための贄。だが、魔族だって相手を選ぶ権利はある。永い歳月を共に生き、過ごせる相手は自分にしか見つけられない。そういうことに関して、魔族の勘が鈍ることはない。――このままでは、いつか後悔し、己の生を恨む時が来る。そうなる前に……幸せになれ」
自身の経験からか、より重みのある一条の言葉に狐蝶は噛みしめていた唇をゆっくりと解いた。長い銀色の髪が風に揺れ、凛々しく尖った耳が何かの気配を感じ取った。どこからともなく響いた軽やかな鈴の音に、沙月は嬉しそうに目を細めて一条の大きな手をそっと握った。
「真琴……帰ろう」
それに応えるように、顔を寄せて沙月の頬にキスをした一条は、上目遣いで狐蝶を見やった。彼の視線は石段の下に佇む男の子に注がれている。薄青の瞳を輝かせ、纏う気は先ほどよりも優しく艶のあるものだった。
一条は沙月の背に手を回して抱き寄せると、漆黒の大きな翼をばさりと広げた。陽が傾き始めた逢魔時 ――魔族の力は一段と強くなる。だが、心の内に秘めた弱さを埋められるのは、愛する者しかいない。
「――良い知らせを待っているぞ、狐蝶」
喉の奥で笑いながら呟いた一条に、狐蝶は妖しく微笑み返した。
誰かを愛することで与えられる勇気、愛されることで強くなる心。
沙月は一条の胸に頬を寄せて、挨拶代わりに一度だけ瞬きをしてみせた。
「ところで沙月。お前は、ここで何をしていたんだ?」
「宿題を……してた」
「え……? 宿題って……」
白い砂利を靴先で蹴り、上空に舞い上がった一条が不思議そうな顔で覗き込んだ。沙月は、ほんの少しだけ頬を染めて俯いた。
「あなたと出逢った時から解けなかった問題を……解いていた」
「その答えは出たか?」
「――はい。これからも精進しますっ。――あなたに、もっと愛されるための復習。そして……」
「ん?」
「あなたを……もっと愛するための予習」
一条はまんざらでもないといった笑みを浮かべて、沙月の耳元で囁いた。
「じゃあ、俺も……。お前に愛されるために、より一層努力をしなければならないな……ベッドの上で」
「ん……悪くない。俺の採点は厳しいよ?」
「望むところだ……。愛してるよ、沙月……何度言っても足りない」
ずっと空白だった場所に最後のピースが嵌まり、沙月の心はいっぱいの愛で満たされていた。一条の孤独と葛藤を知り、それでも自分を選んでくれたことに喜びを感じていた。
今日、この場所に来なかったら……。狐蝶に会わなければ知ることのなかった一条の弱さと想い。
完全な生き物などこの世には存在しない。人間も魔族も同じだ。互いの弱さを補い、自身が持ちうる力を相手に与えることで、もっともっと強くなれる。後ろ向きだった過去に別れを告げ、これからは前だけを見て歩いていく。
この大きな手とぬくもりに包まれながら、最愛の人と共に無窮の時を生きる。
『仕来たり』を作った人々に平穏と安らぎを。そして、真実の愛を教えてくれた人に誓おう。
ずっと、ずっと見守り続ける――と。
Fin
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