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我儘レッスン〜1 5 恋は
「引っ越しっていうものは新居を探すところから楽しいんだな」
「…………はい?」
兄が何か言ってる。
この人は……本当に何を突然言い出すんだろう。
とてもニコニコにこにことしながら。
「…………引っ越し、するんですか?」
普通、ここまで幸せそうな顔になるのものなのだろうか。新居を選ぶのって。
「あぁ」
「……そうですか。今度は依頼なさるんですか? ご友人のインテリアデザイナーに」
「いや、しないよ」
口角、上がりっぱなしだ。
今、仕事の移動中だ。流れるように変わっていく外の景色を車窓から眺めては、まるで外に遊園地でもあるかのようにずっと嬉しそうに笑っている。
「実は……」
「えぇ」
「今回は」
「えぇ」
もったいぶらなくても誰と住むのかなんてわかりきっているのに。この場合、恋は華道家の現当主さえも愚か者にするんだな。
恋は盲目……って、本当なんだな。
「拓馬さんと暮らすんですか?」
「!」
いや、そこで、そんなに「なぜわかったんだ」みたいに驚かれても。
僕の兄って……もう少し賢い人だと思ってたんだけど。そんなことなかったのかな。学校での成績だって常に上位だったように記憶しているけれど。それにもう少し口元に締まりがあったような気が。
「……」
そこで胸ポケットにしまっていたスマホが鈍い振動音をわずかに響かせた。今は仕事中だから、いくら家族であっても、車内にいるのは僕が支えている家の当主。電話の相手が仕事上の方なら出たけれど……この人、だったから。
「電話だ。出てかまわない」
環さんから、だったから。通話は控えようと思ったんだ。あとで一人になった時にでもかけ直そうと。けれど、兄がそう言ってくれたので、会釈をし「すみません」と小さく挨拶をして電話に出た。ついこの間、風邪を引いて寝込んでいた人だから心配だったんだ。また、風邪がぶり返しでもしたのかもしれないと。
「……もしもし」
『悪い。今、大丈夫か?』
「えぇ」
『今夜、会えないか?』
「え?」
またしばらく忙しいと言っていた。大きな案件が終わったのだけれど、また別の案件がすぐに入ったからって。とても有能な弁護士でもある人だから、忙しくない時の方が少ないのだけれど。
だから、また一週間くらいは会えないだろうって。
『時間ができたから、雪の方の都合が合えば会いたい』
「あ……」
チラリと自分のタブレットを見た。
「大丈夫、です」
『わかった。迎えに行こう』
「あ、いえ、そんな面倒をおかけするわけには」
『いや、やっぱり迎えはなしだ』
「え?」
『合鍵、持ってるだろ?』
持っている。まだ一度、あの風邪を引いた時にしか使ったことはないけれど、でも、常に持っている。大事に、自宅の鍵と一緒にキーケースに並んでいる。
『それで勝手に入ってきていい』
「え、でも」
『部屋の中、好きに使って構わない。それじゃあ、また夜に」
「え? あの」
電話はそこで切れてしまった。
「……」
好きにって、言われても。そんな人の自宅を好き勝手になんてできないでしょう? 冷蔵庫の中身とかこの間は勢いで漁ってしまったけれど、どうしよう、冷蔵庫の中、きっと何もないと思う。じゃあ、仕事の後、スーパーに寄った方がいいのかもしれない。帰ってきた時に何か軽くでも食べられる方が、きっと……。
「楽しそうだな」
「え?」
ハッとして、慌てて顔を上げると兄が笑っていた。
「電話中、とても楽しそうにしていた」
「!」
頬杖をつきながら、ニコニコ、にこにこ。僕の方を見て楽しそうにしている。
「いえ……あの」
恋は盲目、だっけ。仕事中なのに。もう……僕は。
「これは……」
恋は本当に人を――。
「し、失礼しました」
仕方ないんだ。だって、あの人はとても忙しい人で、「手伝い」をしてくれている時もずっと有能な弁護士で。けれど、その「手伝い」の頃から変わらない頻度で僕をかまってくれる。週に一度、たまに二週間に一度、相手をしてくれていた。「手伝い」をしてもらっていた頃の僕は、二週間に一度の時はきっと他の人と親しくしているんだろうと思っていたんだ。とても綺麗な人を相手にしていて、僕のことは忘れてしまっているか、後回しなんだろうって。それでも構わないと思っていた。
けれど、その「手伝い」の頃とほとんど変わらない頻度で今もかまってくれる。会ってくれる。それは、つまり――。
「いいじゃないか、別に」
それはつまり、昔から変わらず、とても多忙なあの人の空いた時間を僕は独り占めしていたことになる。
「今日は仕事、早く終わらせよう」
「……」
「お互いのためにも、だ」
それが嬉しくて、こうして会ってくれることに胸が弾んでしまったんだ。
「そうだ。引っ越しが終わったら、成田と一緒に来てくれ」
「え?」
「引っ越し祝いに炬燵で鍋でも囲もう。きっと拓馬が」
最近の兄は、見たこともない顔をする。今までしたことのない笑顔を見せる。
「可愛いから」
才溢れる人だった。けれど、当主になってからその才の花開き方はものすごくて、仕事の量が一気に増えたんだ。前よりずっと忙しくなった。
当主になってから。
拓馬さんを見つけてから。
兄は、見たことのない花を見せてくれる。見事で、綺麗で、そして、とても生き生きとした花を。
恋が彼をこんなふうにしたのだと、恋は、なんて――。
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