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第10話 ②

 部屋に戻り、ウーヴェが手に入れた靴へ早速ミンクオイルを擦り込んでいる間に、アリは仕方なく電話へと向き合った。着信4件、最後のものにはメッセージが残っている。「いい加減にして。臍曲げてないで連絡して頂戴」  折り返し3回の発信音で応答したクロードは、不機嫌さを隠さなかった。 「一体何してたの。朝からセブが押し掛けてきて、ずっと管巻いてるわよ。このままだと家中のお酒を飲み尽くしちゃう」 「仲間外れにされて拗ねてるんだよ。放っといてやればいいさ、そう言う傷は日にち薬が一番だからね」  これまた憚ることのない溜息が電話線越しに伝わってくる。 「あなたはそれで気分が良いんでしょうけど……」 「ああ、最高に幸せだ。ウーヴェほど素晴らしい人間はこの街にいないよ」 「あまり浮かれ過ぎないことね」 「でも、こんなの人生で初めてのことさ……祝福してくれたっていいだろう、姉さん」 「知らない。こんな土壇場で揉め事を起こさないで、あなたのお陰でみんな駄目になるかも知れないのよ」  彼女の声が思った以上にひりついている理由を知ったのは、日付が変わる直前に回されたマンダリン色のシトロエンを目にしたときのことだった。運転席に陣取るクロードの出で立ちは、さながら生意気なシャルロット・ゲンズブールと言ったところ。ジーンズと洗い晒しのシャツの上に男物のボマージャケットを羽織り、外を睨みつける姿は、年端も行かない少年にしか見えない。 「聞いてないよ、姉さんも加わるなんて」 「言ってないもの」  素っ気なく言ってのけると、後部座席を振り返る。 「1時間シャワーを浴びせて、ようやくしゃっきりしたのよ」 「大丈夫だって」  だらしなく座席に埋まったまま、セブが片手を掲げる。暗がりの中で黄色っぽく浮腫んだ顔をしているものの、彼女の耳たぶの辺りを見つめる目は、本人の宣言通りぎらぎらと生気を取り戻していた。 「さっさと片付けちまおうぜ」 「ミンダの奴、一体なに考えてるんだ。運転だけだろ、僕が行くよ。姉さんにこんな真似させられない」 「でも」 「大丈夫、あの辺りは土地勘がある」 「いいって、クロード」  てっきり一番反対するかと思っていた男が、運転席を軽く蹴飛ばすことで彼女を促す。 「こいつなら信頼できる。心配しなくても、喧嘩なんかしねえよ。君は待っててくれればいい」  アリが運転席の扉を開けてやっても、しばらくためらいは続く。結局似合わないエンジニアブーツ履きの足は、アスファルトの上へとことんと重たげに降り立った。 「気をつけてね」  隣へ乗り込んできたウーヴェに、セブはじろりと横目を這わす。 「すっきりした顔しやがって……そんなにこいつの具合は良かったかよ」  アクセルを踏み込みながら、何と返されるものかと耳をそばだてる。予想に反して、ウーヴェは怒りもしない代わりに、笑顔を浮かべることすらない。ただ平然と、尖らせた唇へ蔑視を向けるだけだった。 「それは俺だけが分かっていればいい話だ」  いとも簡単に流してしまうウーヴェへ舌打ちすると、今度は運転席への攻撃が加えられる。先ほどよりも余程強く蹴飛ばしながら噛みつくセブの声は、癇癪でお国訛りも露わだった。 「何が姉さんにはこんな真似させられない、だ。お前のその健気なところ、涙が出てくるぜ! おい、行き先は分かってるんだろうな」 「マレの『ラディエイト』だろう。さっき聞いたよ」  誰から、と釈明はしなかったし、わざわざ背後の顔色を窺う必要もない。アリに計画を打ち明けた時点で、ウーヴェは腹を括っていた。共に抱き合って、滝壺へ真っ逆様に落ちていくのも厭わないと――いや、本当に覚悟を決めたのは自らなのかもしれない。今やアリの心は、秋の海よりもぴたりと凪いでいた。  もうしばらくの間、セブはごそごそと貧乏揺すりを繰り返したり、ぶつぶつ口の中で言葉を転がしたり。結局、彼の手は己の右脇腹を軽く叩いた。恐らくはあの大きな回転式拳銃を差し込んである場所。逸らされた眇目が、窓越しに幾重の輪となって放射される、街の明かりへ向けられた。コニャック色の瞳からは一息で炎が吹き消され、熱されたガラスのような曇りを帯びている。 「とにかく……今夜で終わりだ。この街とおさらばさ。明日の昼飯は皆でブロードウェイへ行って食ってるだろう」  そうだ、彼も共に旅立つのだと、ようやくアリは思い出した。その頃には、今車内へ沈殿している蟠りも、綺麗に溶けて消えているだろうか――分からない。自ら達は三者三様に執念深いところを持っていると、この数ヶ月で誰もが嫌と言うほど実感している。  車はアルシーヴ通りに入り、「お仲間」の気配がちらほら嗅ぎ当てられるようになってくる。今日は確か木曜日だが、道行く連中の顔は明るく、熱気の予兆ですでに火照りさえしている。 「店、混んでるかな」  ひどくそぞろな口調でセブが呟く。アリは黙って、羽織っていたコートの襟を立てた。  『ラディエイト』はもう幾筋か向こうの細い通りで営業している。表通りの大きな店に比べると客足は穏やかだが、それでも紫の蛍光看板が照らす出入り口前には人だかりが見える。 「なんだ、バイクと革ジャンの店かと思ったら」 「確か半年前まで、プリンスが共同オーナーだったって」  熱心に見つめるセブの瞳にネオンが弾ける。彼に重なるようなウーヴェの顔は、羽虫の集る街灯に柔らかく縁取られ、張り巡らされた緊張を強調する。  一度通りの入り口を素知らぬ顔で過ぎ去り、車を停めたのは1筋向こうの路地裏だった。閉店した文房具屋の軒へ隠れるようにして抱き合っている恋人同士を覗けば、人気らしいものはない。 「すぐに戻る、エンジンあっためとけよ。金をミンダさんのところへ届けたら……クロードが飛行機のチケットを取ってくれてるはずだ」 「着替え取りに行かないと」 「しょうがねえな、何で準備してこないんだよ」  叱りつけるような目つきをウーヴェに向けた後、セブはもう一度後部座席へ上半身を突っ込んだ。アリの頬に触れた唇は、あくまで友人に与えられるものだ。文字通り酔狂に過ぎなかった――この季節にも関わらず、彼の毛穴から染み出す汗とアルコールは止めど無い。昨日から着替えていない服まで甘ったるく匂う程だった。 「お利口にな、雀ちゃん」  ウーヴェは彼のように、芝居掛かった真似を見せつけない。立ち去るとき一度振り返り、頷いてみせるのみだ。引き結ばれた唇は余りに真面目腐っているから、胸がざわめいて仕方がない。  例え万全の体制で挑んだとしても、不安が消えることはないだろう。セブの指示に反して、アリは2人の後ろ姿が消えるが早く、イグニッションキーを回した。こんな裏通りで騒がしくしていると逆に目立つ。それに先ほどから、ペッティングを続けているカップルがちらちらと視線を投げかけていた。  一夜限りの恋人達。お互いを見初め合ったとき、そこにあるのは純粋な肉欲のみだ。そう、肉欲の一体何がいけない? 金を言い訳や担保にせず、全ての責任を自らのみに負う彼らは、自立した立派な男達だった。  世界で最も古い職業がそう簡単に滅びるかどうかは別として、自らはもう、出て行く時だ。アメリカでの生活がどうなるかは予想もつかない。YMCAで寝泊まりしているかもしれないし、どこかのダイナーで朝から晩まで皿を運んでいるかも。何だって構わない、今の状況から逃れられるならば。  それに今回は一人ではない。頼りにならない姉を頼ってマルセイユからこの街へやってきたときとは違って、自棄とも悲壮な覚悟とも無縁だ。  胸躍る夢想に浸っていたから、いつの間にか軒下の男達がそそくさと立ち去っていた事に気付けなかった。ガラスを叩く乱暴な指に、アリは慌てて顔を上げた。  窓が開く前から、その警官はじろじろ車内と、アリの顔を眺め回していた。よりによって今この時に。引き攣る頬に無理矢理笑みを乗せ、出来る限り愛想良く返事をする。 「すぐに出しますよ。友人を迎えに来てるんです、酔い潰れたらしくて、別の友人が運んできてくれる手筈なんですが」 「そうしてくれると有り難いね」  こいつは自らの顔を覚えていないだろうか。それよりももし、ウーヴェが戻ってきたら。男娼一人なら記憶の中へ埋もれていても、そこへ反抗的なハンブルグの元工業大学生を付け加えたら、連鎖的に思い出すかも。 「この辺りは近頃、どうにも風紀が乱れてるからな。こそこそしてる連中にろくな奴はおらん。鼻の下を伸ばしてたらナイフで脅されて財布を取られただの、殴られ過ぎて怪我しただの」 「物騒だな。でもそれは彼らの自業自得ですね」  くそったれ、税金泥棒、こんなところで油を売ってる暇があるなら、大学の過激派どもを取り締まってくればいい。ほとんど視界を覆い尽くさんばかりな、肉を巻いた分厚い肩越しに、ちらと視線を投げかける。  思わず息を飲んだのは、石壁に長々と伸びる影が、こちらへ近付いてきていると知ったからだ。ごみ缶の辺りでぶらぶらと揺すられるボストンバッグは実物も十分大きく、人目を惹きつける。幸いスニーカーが消す足音のおかげで、お巡りはまだ肌の黒さへばかり気を取られていた。 「僕だってこんなところ、とっとと退散したいのは山々ですよ……ここは危ない、おいそれと近寄るべきじゃない」  幸い間抜けな官憲の犬よりも、泥棒の方が遙かに機敏で利口だ。路地へ数歩踏み入れた足を、セブはぴたりと止めた。強張った顔から投げかけられる凝視は、アリの視線と固く絡み合う。その時彼は間違いなく躊躇した。追いつめられた獣のように怯えていた。そして、決意は次の一瞬で固められる。  逡巡の時間は短い。返された踵に安堵の表情を浮かべる代わり、アリは肩をすとんと落とした。 「身分証を見せた方がいいですか」  しばらく豚みたいに感情のない目を這わせた後、結局お巡りは手を振った。  固太りの体は、本来追うべき人間と逆方向へ去っていく。座席へ身を投げ出し、仰いだ天井へ向かって大きく息を吐き出す位は許されるだろう。  アリは逃げた。ならばウーヴェは? 2人は一緒に行動していたのではないのか? 疑問は瞬く間に胸一杯へ膨らみ、せっかく取り戻したはずの呼吸が苦しくなる。  引き毟る勢いで開かれた助手席の扉に、思わず飛び上がりかけた。 「急げ、早く」  滑り込んできたウーヴェは、短くそれだけ言った。たった今まで想像していた最悪の結果は免れたらしい。服に血は付いていない。彼はやられるのではなく、やる側であることは、右手に握りしめられたままのピストルが示す。 「何があったんだ」 「後で話す。今はここから逃げるのが先決だ」  セブが戻ってくるかも、とか、さっきのお巡りに怪しまれるかも、とか、より冷静な立場で助言すべき事は山とある。にも関わらず、アリはエンジンを点火し、クラッチを解除していた。車は一度がくんと揺れた後、そそくさと走り出す。 「それ、使ったのか」 「ああ」 「どうして。ほとんどやらせだって言ってたじゃないか」 「どこかで行き違いかあった」  それはおかしいとアリはすぐさま理解したし、恐らくウーヴェも自ら口にして違和感を覚えていたに違いない。  簡単な話だ。またマニュ・ミンダの策にはまった。奴はチンピラの命など、そこらの石ころよりも安く見積もっている。最初から分かっていたはずなのに、どうして己は手をこまねいていたのだろう。 「でも、姉さんが噛んでるのに、そんな危険なことをやらせるわけが」 「彼女は想定外だ。本当は運転主役でもう一人雇われていたのに、土壇場でトんだ」  それも違う、と第六感が告げる。けれどどう違うのかは分からない。もどかしさに歯噛みしながら、アリはアクセルを強く踏み込んだ。 「とにかく、彼女のところへ行こう」 「いや、こうなった時は別の場所で一旦身を隠すよう、手筈がついている」  革ジャケットのポケットから取り出された紙片が広げられるのへ、目を走らせる。超女性的で柔らかな筆致は、間違いなくクロードの手によるものだった。 「川向こうだね」 「ああ、適当な場所で降ろしてくれたら歩くから」 「馬鹿言うな! 見損なうのも大概にしろ」  かっと燃え上がった憤激は今にも車のルーフをはね飛ばす勢い。割り込むようにして進入し、急ハンドルを切った交差点で、クラクションの多重奏が鳴り響く。対抗する勢いでアリは益々声を荒げた。 「何があっても、僕は君と一緒だ! 死んでも離れるもんか……どうしてもって言うなら、今すぐその銃で僕を撃て。そうしないと、地獄の果てまで付いていってやるからな!」 「分かったからアリ、落ち着け」  こんなにも恐慌を来したウーヴェの声を聞くのは初めてのことだった。勢い余った信号無視に、交差点から踏み出しかけていた通行人達が罵声と中指を振りかざす。どいつもこいつも手を繋いで、どうしてみんなそんな幸せそうな顔を。  右岸と左岸の文化断絶を促進するかの如く、この街では川を渡る前の信号はやたらと長い。赤信号前でブレーキを踏みしめたときには、耐えきれずにハンドルを殴るだけには飽きたらず、額をぶつける勢いで突っ伏す。 「酷い、こんなの酷過ぎる……」  僕らが一体何をした、と声の限りに叫びたかった。このどん底みたいな生活から抜け出したかっただけなのに。幸せになりたかっただけなのに。四の五の抜かさず、小難しいことも考えず、ただ彼と生きていたかった。それすら贅沢な悩みだと言うのか。  一体どこでボタンを掛け違えたのだろう――分かりたくもないし、そもそも認めたくない。このまま家に帰りたい。あのこじんまりしたアパルトマンでベッドに入り、ぼろぼろのペーパーバックを広げながらいつの間にか眠ってしまいたい。  けれどその平穏へ浸ったとき、間違いなく隣にウーヴェはいない。 「アリ、顔を上げろ、胸を張れ」  隣から聞こえる固い声は、催眠術のようにアリの体を操る。言われるがままにハンドルを握りしめ身を起こした瞬間、ヘッドライドが一閃、車内を照らしつけた。  すれ違うパトロールカーは全ての対向車へ等しく示威すると、サイレンも鳴らさず通り過ぎる。顔を見合わせるウーヴェと同じく、アリも一瞬でシャツへ重い汗を滲ませていた。 「焦らなくていい、この車は見られていない……それに、店での目撃者もいないはずだ」 「全員消したって言うのか? ああ、くそっ」  ジェームズ・ボンドよりも冷徹なウーヴェ。かつては彼に、洗練された酷薄さを望んだこともあった、それがどれだけ馬鹿げていたか今になって分かる。ありのままを愛することは、十分可能だったのだ。  青ざめたウーヴェの顔をもう一度窺う。暗闇の中で幽鬼の如く浮かび上がったその容貌は、決して前から目を逸らさない。胸中で渦巻く罵詈雑言が急速に萎んでいくのを、アリは感じた。自らの取る態度全てに、とてつもなく子供っぽさを感じて、うんざりする。 「集合場所はここからすぐだ」  口に出すことで希望を見いだし、胸のざわめきを押さえ込もうと努力しているのだ。手放しで喝采して欲しい。そう求めることすら、駄々に過ぎないのだろう。  カルチェ・ラタンのど真ん中に位置する安ホテルへは、到着まで予想以上に時間を要してしまった。デモ隊を捌く警察官を見かけるたび、肝が縮まって仕方がない。かなり大規模な集会なのだろう。ホステルに毛が生えたような目的地でも、屯しているのは濃い肌の色をした学生が大半だった。  あらかじめ偽名で予約された部屋に先客はいないらしい。セブは消えた。金を持ったまま。 「ミンダ氏に引き渡して、先に空港へ向かったのかもしれない」 「とにかく姉さんに連絡してくるから、部屋へ行ってて」  交換を通じて連絡するのが怖かったので、ロビーの片隅に3台並んだ公衆電話へ走る。すれ違う人間が皆こちらを振り返るような妄想を捨てろ、ひそひそ声へ耳をそばだてる必要はない。  しかし幾ら灯台もと暗しという言葉があれど、こんな街のど真ん中に潜伏するなんて馬鹿げていはしないか。どうして郊外へ脱出するようウーヴェをせっつかなかったのかと、忌々しさは今になって腹を蝕む。  このままどうなってしまうのだろう。自らは、ウーヴェは、そして2人の間にあるものは。逆境にお互いの身体が燃え上がり、全てを焼き尽くすのか。甘い悲劇へ身を任せることが出来る馬鹿でいられたならば、きっと幸せだったのに。  彼と離れたくない。でも抱き合えば抱き合うほど、お互いを傷つけているような気がしてならなかった。  空いたばかりのブースへ飛び込んで受話器をもぎ取れば、同じ場所を狙っていた青年が舌打ちする。上から下までラルフ・ローレンなんて、全く結構なご身分だった。そんなに民族の誇りだとかを大事にするなら、カフタンでも着てコーランを暗唱しているべきなのだ。  深夜1時過ぎ。宵っ張りの彼女のことだし、まだ帰宅したばかりで髪も解いていないに違いない。投入された硬貨の固い音が耳の奥から消えても、発信音は続く。手の中でちゃりちゃりと小銭を揺すりながら、噛みしめていた唇を解放し、それを何度繰り返したことだろう。  焦燥はやがて絶望へと接続される。『お電話ありがとう。少し手が離せないけれど、メッセージを残してくださったら必ず掛け直します。だって貴方は私達にとって、とても大切な存在なの』  朗らかな録音音声はアリを絶望のどん底にまで叩き落とし、喉すら塞ぐ有様だった。ようやく声を絞り出せた頃には、吹き込み開始のブザーが鳴ってゆうに5秒は経過していた。 「姉さん? ……いるんだろ。今、ホテルだ。ウーヴェも一緒にいる。セブはそっちに着いたの?」  つっかえつっかえ言葉を吐き出しているうちに、録音終了のブザーが無慈悲に鳴り響いた。フックスイッチを叩いて再び番号を押し、次こそはと祈る。そしてまたもや期待は裏切られた。いつも、いつも、いつもそうだ。  電話機が愛しい想い人あるように枝垂れ掛かりながら、アリはどんな金持ちにも見せたことのない哀願を以て、送話機の向こうへ訴えかけた。 「姉さんお願い、どうか助けて。僕達追われてるんだ、このままだと捕まっちゃうよ……もう迷惑はかけない、なあ、これっきりだから。二度と姉さんのしてることにケチをつけないし、ちゃんと真面目にするよ。姉さん、姉さん……お願いだ、置いていかないで……」  受話器が取られることはついぞなかった。そしてアリが、三度試みようとすることも。  受話器を置いてからも、外に控えるウーヴェの顔を見ることは出来なかった。 「寝てるみたいだ。多分、すぐに折り返してくる」  狭いブースは照明もなく、目尻へ滲んだ滴を隠してくれる。掌で乱暴に拭いながら、アリは出せる限りの明るい口調でそう答えた。 「何ぼさっとしてるんだよ、早く部屋に行かなきゃ……」  涙は辛うじて乾かすことが出来たものの、何度啜っても鼻声のまま、みっともないにも程がある。  ウーヴェは何も言わなかった。ただ窄められたアリの肩を抱き、歩き出す。アリももう、周囲を慮ることは止めた。逞しい肩に頭を凭せ掛け、身体に腕を回す。後ろ姿だとあんなに広く、昨夜縋りついた時はこれ以上なく頑丈に感じた背中は、今ひたすら耐えるように丸められていた。  シングルベッドとナイトテーブルが一台きりの部屋は、あらかじめ彼らの到着を予期して準備されていたかのようだった。扉を閉めても、身を寄せ合う2人は離れようとしなかった。所々布地が薄くなったカーテンの向こうで、蝋燭を持った若者達が続々と群を作っているのを見下ろす。それが酷く恐ろしい光景であるかの如く、アリは益々青年の胸へ身を擦り寄せた。 「すまない。君を巻き込むなんて、俺は馬鹿だ」 「今更だよ。毒を食らわば皿まで」  乾いた喉奥では小さく笑い声を立てたものの、その感情を表情筋まで伝播させるのは難しい。 「僕は満足さ、君といられたら、それで。君はどう?」  ウーヴェは抱きしめる腕の力を強めた。夜の冷気に当てられた頬を、同じく冷たいアリの頬に押し当て、何とか呼吸をしようとする。 「君と共に生きたい。例え世界中に反対されても」  部屋の寒さはしんしんと、足下から這い上がる。少しでも暖を得ようと、アリは血の気の失せた指で恋人の美しい顔を何度も撫でた。いっそのこと、このまま2人の身体が凍り付き、分厚く透明な氷の中へ閉じこめられてしまえばいい。今この瞬間を永遠に取っておきたくてならなかった――アンリ・ド・レニエの言葉の真の意味を、ようやく理解できたような気がする。  怖くて不安で、決して閉じることの出来ない目で見守る世界は、ひたすら無慈悲だった。遠くから聞こえるサイレンの音を、脳は最初拒絶する。だが四角く切り取られた窓に滑り入る数台のパトロールカーは、学生達の飛ばす野次にも平然とした態度を崩さない。  吐き出されるおまわり達を目にした途端、ウーヴェはひたと寄せ合っていたアリの身体を引き剥がす。その時彼は確かに、耐えがたい痛みを覚えたかの如く、顔を歪めた。 「出るんだ。可能ならこのホテルの外へ」 「ウーヴェ」 「君は顔を見られていない」  彼の目は建物へ吸い込まれていく制服へひたと据えられていた。青いぎらつきが今にもそのまま溶解し、ぐずぐずと見る影なく崩れてしまいそうだ――お願いだから止してくれと訴えることが、アリには出来なかった。足だけが勝手に扉へ向かおうとうずうずしている。次にすべきは、目の前の男の腕を掴んで、一緒に走り出すことだった。  だがウーヴェはジーンズに差し込んでいたオートマチックを引き抜く。 「俺といれば君まで怪しまれる。後で落ち合おう、クロードのところで」 「そんなもの、どうする気だよ……」 「刑務所へは戻らない」  この期に及んで、彼は笑ってみせるのだ。あまつさえ、悲壮に凍り付くアリの表情をひたと見つめることで、その熱を伝播させようと試みすらする。 「君が何にも縛られず、自由でいられる為なら、何だってしてみせる。俺は、君を愛してるんだ」  たった一度の「愛してる」が全てを決定付け、まるで生まれ持った性質まで変えてしまったかの如く感じる。弾かれたように、アリは一歩、二歩と後ずさった。そこから身を翻すまでは容易い。最後に視界へ映したウーヴェの姿が、自暴自棄と英雄的高揚の間で銃を構える姿だなんて。ジェームズ・ボンドが見たら、鼻で笑うに違いなかった。  廊下はあらかじめ人払いを済ませてあるのかと思うほど何の気配もない。非常階段もまた無人。アリはひたすら急いていた。愛する人間から遠く離れていく為に。煤けた蛍光灯が瞬く中をぐるぐると駆け下りるのは、全くの悪夢だった。深層意識が剥き出しになり、どんな恥知らずで残酷な真似も平気でしでかしてしまう、極めつけの悪夢。  ロビーで押し問答する警官は制服、私服、中には防弾チョッキを着込み、拳銃以上の武器を持つ者もいた。自分でも信じられない何食わなさで彼らの後ろを通り過ぎ、エントランスから出る。  お喋りしている学生達は幾つもの輪を作り、所々重なり合っているところも。どうやらもうすぐ大学の方からデモの本隊が来るらしく、彼らが通り掛かったところで合流する算段らしい。  付かず離れずの場所で、アリは息をこらしていた。一秒が一時間のようにも、その逆のようにも感じる。今や時間は彼の身体からすっぽりと抜け落ちていた。  不思議なことに、銃声は間違いなく響き渡ったにも関わらず、周囲で反応を寄越した人間は皆無だった。確かに大きい音ではなかった。辺りはざわめきに包まれていた。皆自分のお喋りに没頭していた。  どれくらいの間、自らがその場で立ち尽くしていたのか分からない。やがて人の波が動き出し、街路へと押し出される。  掲げられたライターや蝋燭で浮かび上がる群衆の顔は、警官の横暴に対する憤りと、流れ弾で殺された郊外の青年に向けられた哀悼に染まっている。恐らく会ったこともない犠牲者と、彼らは真剣に向き合っていたのだ。せめて近しい仮面を被るべきだと分かっていたが、アリはどうしてもそうすることが出来なかった。  異質なざわめきが形を帯びたのは、シュプレヒコールの波を散々と被って、同じ肌色を持った若者達の一人として個性を失ってからのことだった。  ぐったりとした身体は両脇から抱えられ、ほとんど引きずられんばかりの勢いだが、ウーヴェは生きていた。弾けるカメラのフラッシュに照らし出され、俯いた顔一面を汚す涙が強調される。腕から流れる血が真新しいスニーカーに滴り落ち、今やロゴの色は黒なのか赤なのかさっぱり分からない有様だった。  君を自由にする、とウーヴェは言った。その言葉だけが、白く染まった脳内にくっきり浮かび上がっている。  では、そうならなければ。先行きが分からないことの、何を恐れる必要があるだろう。自由とはそういうものだ。そして自らは、これを望んでいたはずではないか。なにものにも縛られない生活と言うものを。そう何度も何度も己に言い聞かせている間に、確固たる歩みの誰かに追い越され、肩がぶつかる。  よろめきながら、それでもアリは希望に頬を火照らせる人々の間で、ひたすら足を動かし続けた。 終

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