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第10話 ①
随分長い間睦み合っていたように思うし、とても短い時間だった気もする。感覚は曖昧だ。最後はお互いくたくたになり、ソファへ折り重なるようにして眠った。カーテン越しに白み始めた空へ怯え、ぐずぐずとむずかっていたアリへ、ウーヴェは腕を差し出し、回らぬ舌で囁く。
「もう寝よう。起きてから考えればいい」
彼にも案外そう言う、能天気なところがあるのだと今になって知った。とにかく今日は初めて尽くしだ。こうやって一つになるほど隙間なく寄り添って目を閉じるなんてことも――実際には使い古された行為であったとしても、自らがそう感じればいい。確かライク・ア・ヴァージンなんて歌がアメリカにはあったではないか。
あれだけ愛を交わしたにも関わらず、昼前に目覚めたとき傍らへは熱すら残っていない。身を起こし、へたったソファで独り沈思黙考することで、アリは昨晩自らがしでかしたことの意味を理解しようと努めた。本当のことを言えば、難しいことなど何も考えたくはなかった。ただキスして欲しい。セックスは、出来ればもう少し体力が回復してから。固い床の上での行為は既に祟り、尻も背中も後頭部も痛いし、身体のあちこちに不可解な痣が浮いている。
まだ完全には醒めやらぬ眠気と興奮の間をたゆたっていたら、ウーヴェが部屋に入ってきた。外されたエプロンから、彼が引き連れているのと同じ、キャンベルのクラムチャウダーと思わしき匂いが漂う。
「身体の具合は?」
「大丈夫」
「飯は食えそうか」
「うん」
のろのろとした身のこなしへ手助けを申し出ることが、逆に侮辱だと思っているらしい。その癖まるでお利口な犬よろしく、アリが服を整えている間、ウーヴェの眼差しは昨晩貪った肉体に注がれていた――いや、彼はとんだ野犬だ。碧眼は渇望を隠しもしない。このまま2回戦に突入し、抱き潰されてしまいそうだと本気で危惧を覚える。
立ち上がり、隣に並びざまアリが仕掛けたキスは、結局愛情ではなく宥めのためのものとなった。頬へ触れた唇の感触で、あたかも夢から覚めたかのように目が見開かれたということは、ウーヴェ自身も己の表情へ気付いていなかったのかもしれない。つくづく困り者の、どうしようもなく可愛い男ではないか。
食卓につくのも2人。アリが尋ねる前に、「セブは出かけたらしい」と答えが寄越される。もっとも、彼がいたところで、さほど献立には喜ばなかっただろう。温められた缶詰のスープ、クロワッサン、申し訳程度のトマトと緑の野菜に、触れれば指の跡が残りそうな柔らかいオムレツ。冷蔵庫の中身はほぼ空になっているはずだ。ここ数日、買い物にすらろくに行っていない。
こればかりはたっぷりあるコーヒーを啜りながら、アリはウーヴェの食べっぷりを眺めていた。彼はもうオムレツに代わって、自分用に両面を焦がした目玉焼きを作ることに躊躇しなかった。食べ方の汚いセブと違い、彼は口一杯に物を頬張ることもなければ、飲み込む前に喋ったりもしない。だが皿の中身は、魔法のように消えていくのだ。鮮やかな手並みとすら言えた。
「昨日の晩分かったけど、僕は自分で思っている以上に君が好きだったらしいよ」
アリの言葉に、ウーヴェはフォークで半分に押し切っていた卵から目を上げ、まじまじと対面の顔を眺め渡した。疲弊の滲んだ面立ちに、そのときアリは相手もまた、昨晩死にもの狂いで自らにぶつかってきたのだと改めて認識した。
ウーヴェは「そうか」と呆けたような口調で返してから、充血した目を再び目玉焼きに戻す――その前に一度ちらりと、殆ど手つかずなままのアリの皿を確認してから。
「君は本当に欲がないんだな。けれど欲しい物は絶対に手に入れる。こういう言い方で合ってるのかは分からないが」
「そんな僕も好きだろ」
「ああ。俺達は似た者同士らしい」
居間で電話が鳴る。受話器を取りに行こうとして、結局アリはやめた。それから腰を浮かしかけたのへ先手を打ってウーヴェの手を握り、じっと目を覗き込む。
「午後はどうしようか。何でも出来るよ。まだ時間はたっぷりある」
「そうだな。君は何がしたい?」
「出かけよう、こんなところへ閉じこもってるのは真っ平だ」
甲高いベルの音はやがて留守番電話に繋がる。思わず浮かべたアリのしたり顔など軽々凌駕する、晴れやかな微笑みをウーヴェは口元に溢れさせた。
共に歩く存在がいると景色まで変わって見える、これは悪い意味で。元々小汚いところある街だと思っていたが、今は一層くすんで映るし、周囲の人間がやたらと冷酷で、攻撃的に見える。例え恐れを覚えようとも、その中を堂々と2人進んでいくのは、とても誇らしいことだとアリは思えた。
片や肩を触れ合わせて闊歩するウーヴェは堂々たる佇まい。どこか眩しげに世界を見遣る瞳すら輝いている。まさしくこの世の王だ。アリの大事な君主。
柔らかい秋の日差しを浴びながら運河を越え、ぶらぶらと散策していたら、のんびりした歩みが調子を変える。
「少し寄っていいか」
彼が顎で示す靴屋はこじんまりした店構え、視界を遮るように積まれたスニーカーの箱の奥で、店番らしい彼らと変わらない年頃の青年が欠伸をしている。
欲しいものを見つけた子供よりもきびきびした大股で店に入ると、ウーヴェは天井まで届く高さの陳列棚へざっと目を走らせた。プーマ、アディダス、そしてナイキ。
今買うのかいと言いたいのは山々だったが、お利口に唇を噤んでおく。外套のポケットに手を突っ込んだまま、アリは見守っていた。品定めをするウーヴェの横顔が余りにも真剣で綺麗だったから。軽く持ち上げられた顎はくっきりとしていて、彫刻のような鼻筋まで続く。瞬きを忘れ見入っているから、長い睫はほんの時折、ぱちっと大きく上下するだけ。
彼を今の気持ちに留めておくという理由だけで、この灰色掛かって薄暗く汗臭い店の中へ、永遠に閉じ込められていたいと思う。
アリ個人的の趣味としてはアディダスのスタンスミスが好みだったが、取り上げられたのは青いパンチングスウェードのスニーカーだった。しかし本人もしっくり感じていないようで、眉間に薄く皺を寄せて考え込む。
「飾られてるのを見たときは、いいと思ったんだ」
「ちょっと個性的すぎるんじゃないかな。君、普段からそんな凝って派手な格好しないだろ」
棚に視線を走らせてから、アリは同じブルインでも、至って正統派な一足を取り上げた。輝くばかりの白い革に、赤いロゴが浮かび上がっている。その場で膝をついて彼の足下に置き、傾げた小首から見せる上目遣いに、ウーヴェはしばらく逡巡していた。だから踏ん切りが付くように、くたびれたアディダスを脱がしてやりすらする。体格の割に、彼は案外足が小さかった。履かせてやった靴の厳つさがいっそ際立つ。
「ほらね。何事もシンプル・イズ・ベストさ」
しばらくの間、足首をくるくる回したり、爪先を床へ押しつけたりして履き心地を確かめてから、ウーヴェは厳かに宣告した。
「ロゴは黒の方がいいな」
仰せのままの商品を手に入れる時、彼は勿論自らお足を払う。傷だらけの革財布の中には、そこそこの紙幣が納められているようだった。
「履いて帰れば。少し慣らしておいた方がいいよ」
今夜使うんだろう、とまで言わずとも、ウーヴェは理解したようだった。紙袋を受け取りながら「大丈夫さ」と首を振る。
「そんなに心配しなくても」
「するよ。だって僕は君が」
その続きを、アリは店の外へ出てから、そっと相手の耳へ吹き込んだ。
「君が、とても大事なんだ」
「これまで俺は、君の期待に応えられないかもしれないと思っていたし、それは恥ずべきことだと考えていた」
ぎゅっと肩を一度掴んだ彼の手の頑丈さに、胸が熱くなる。
「でも、もう恐れるものか。何があっても、俺はやり遂げる。君がいてくれたら、出来る気がするんだ」
薄雲が流れる、沁みるような色の秋晴れで目がおかしくなったんだと言い訳しても通じるだろうか。泣きそうになるのを、アリは辛うじて堪えた。
もっと強く彼を感じたいという強烈な欲求がこみ上げてくる。自分で外に出ようと言い出しておきながら、早く家に帰りたくて仕方がなかった。
彼の肘にそっと触れると、ウーヴェは振り向きざま微笑みを返した。軽く背中を叩いて来すらする。行き交う人々の間で、いとも容易くそんな真似をする屈託のなさが、今は憎らしい。お返し代わりに腕を抓ってやったが、革のジャケット越しでは碌に効かなかったに違いなかった。
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