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第16話 アムネジアの混濁

 気がつくと、僕は見知らぬ場所にいた。薄暗く狭い部屋……なんとなく見覚えがあるような気もしたが、確信が持てない。思考に靄がかかり、ぼんやりとしている。  身を横たえたまま周囲を伺うと、誰かが傍に置かれた椅子に座り、別の誰かと話しているような声がした。  体が自分のものではないみたいで、やたらとだるい。起き上がるのも億劫で、はっきりしない意識のまま惰性で会話を聞いていた。  聞いていた……というよりも、単に右から左へ流れ出ていく。 「僕は人を好きなんだよ」 「──だったら何故今こんなことになってる。この世の中はお前らが原因で」 「それは君の思い違いだ」 「どのへんが」 「僕はね……媒体。これから死に絶える人に与えられた、苗床のようなもの」  誰がが静かに、もう一人を諭すように囁く。とても魅力的な声は耳に浸透し、僕を眠りへと導いた。うつろな夢の中にふわふわと落ちて、心地良い睡魔に浸される。  僕の目は何故か、閉じることが出来ないようだ。目を開けたまま見る夢は果たして現実だろうか。僕には判断が出来なかった。 「……チル……ミチル……」  呼ぶ声に僕は再び意識を取り戻した。  視線を合わせた先には、男がどこか不安そうに僕を見つめていた。 「やっと、目覚めた。良かった」  僕が身を起こすと、男はほっとしたように安堵のため息をついた。  先ほど会話している声を聞いた記憶がぼんやりとあるが、周囲を見ても一人しかいなかった。もしかしたら思ったより時間が経過しているのだろうか?  状況がよく、飲み込めない。 「あの……ミチルというのは」  出した自分の声に違和感を覚える。こんな声だったろうか。そもそも僕は誰だったのだろう。ミチル、なのだろうか。 「お前の、名前だよ」 「もう一度呼んでもらっても?」  名前を呼ばれたら、何か思い出しそうだった。そうだ、僕はミチルと呼ばれていた気がする。けれど自分が何者であったのか、そこが抜けている。 「──ミチル」 「ああ、なんとなく」  再びミチルと呼ばれたその響きは、じんわりと僕に浸透した。  もっと呼んで欲しかったが、男は別の言葉を繋げた。それは謝罪のようだった。 「何から話したらいいのか、わかんねえけど……こんな姿にしてしまって、すまない」  こんな姿とはなんだろう。  男は本当にすまなそうに言って、僕に手を伸ばした。  これは誰だったろうか。よく思い出せない。不思議そうな視線に気づいたのか、男は自己紹介してくれた。 「俺はアサト。……忘れちまったかな?」 「えと……ごめん。……状況を説明してくれると嬉しいんだけど……」  アサトは癖のある髪をかきあげる仕草をして、小さく舌打ちした。何かに苛立っているように見えた。  僕が、悪いのか? 「あの……迷惑かけたなら、ごめん」 「いや、ミチルは悪くない。忘れたなら、……俺が教える」  アサトは僕の記憶が混濁していることについて苛立っているわけではないようだった。  僕がDに襲われて、アサトに僕の命を繋いでもらった、らしい。  ざっくりした話でところどころ理解出来なかったが、それから僕はこの地下コンテナで、アサトと一緒に暮らし始めた。アサトと会話していた誰かは、その後一度も姿を現さなかった。あれは、夢だったのだろうか。  何か頭に浮かんだことを書き出してみろと言われたので、古いワードプロセッサでとりとめのない文章を打ち出して見せると、アサトはそれを読んで複雑そうに笑った。  僕は何か大切なことをごっそりと忘れてしまっている。  恐らくDに襲われた後遺症なのだろう。思い出す時は思い出すだろうと、深く考えることはしていない。アサトもそれを望んではいないようだった。

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