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夏_第2話

「な…夏休みの予定を組もうと思うんだ…」 片付いた部室の中…やっと活動を再開できた模型部は、今後の予定を話し合っていた。 「先輩、僕、お盆休みにおばあちゃんの家に行きます…」 「うん…。お盆休みは、部活も…お休みだね。」 1年生にそう言った僕は、陣内くんを見つめて言った。 「ぼ、僕の希望を言っても良い…?今年の秋の…文化祭で、模型部として…ひとつ、大きな事をしたいんだ…」 「何…?」 そう聞いて来た陣内くんにコクリと頷いた僕は、興味深げに僕を見つめるみんなをグルっと見渡して、笑顔で言った。 「おっきなジオラマを…作ろう!」 「はい!Nゲージ班!」 伊集院くんの言葉に、1年生の二人がそそくさと彼の元へと集合した。そして、ぺちゃくちゃとおしゃべりを始めたかと思ったら、大きく頷いた伊集院くんが僕を見て、こう言った。 「透明のレールを上空に敷いて…空を飛ばせたい!」 「もちろんさ!デゴイチを飛ばそう!」 伊集院くんに笑顔でそう答えると、陣内くんが身を乗り出して言った。 「春ちゃん!怪獣と戦うよりも、宇宙人と戦いたい!」 「良いね!大きな宇宙船をバックに置くのもカッコいい!」 構想を練り出した陣内くんは、大きな紙を取り出して、みんなの意見をまとめ始めた。 「ゴジラはいつも…海から来る…」 ひとり、口元に手を当てた後藤君は、考え込むような渋い顔をしてじっと宙を睨んでいる。そんな彼を見つめたまま、僕はポツリと言った。 「海を…作ろう!」 それはレジンと言う特殊素材を使った大掛かりな物だ。 でも… だからこそ… みんなで作るジオラマで、やる甲斐があるんだ…! 「まじか…」 僕の言葉に瞳を潤ませた後藤君は、部室に置かれた造形の雑誌を手に取って…レジンの海の作り方を熟読し始めた。 「部費は…?いぐらまで出せるのぉ…?」 そんな南條くんの言葉に、僕は口端を上げてこう言った。 「…3万円!」 すると、陣内くんは、紙の上に必要な材料と、ざっとした値段をすらすらと書きながらこう言った。 「正直、微妙だ…。レジンが1リットルで5、000円はする。その他…立地を構成する為に使う、模型用の発泡スチロールに、透明のNゲージのレール…後は…」 そう…ジオラマには、沢山の材料が必要になるんだ。 まず、地形を作るために発砲スチロールを切り出さなくてはいけない。それには、箱型の発泡スチロールとは違う…立方体の大きな塊が必要なんだ。そして、それはなかなかの値段を張る。他にも、地表に塗る石膏に、草の代わりを果たす…緑色の毛足の長い粉…ディティールを攻めるなら…鉄、アルミ、その他のテクスチャも必要になって来る。 そして、今回は…更に…海を作る。 それには…レジンという透明の固まる液体が必要なんだ。 うちのお母さんが、ジェルネイルなんて物を爪に付けていた時期があった…あの、UVライトで固まる液体を…僕たちは、海にしようとしている。 ただ僕たちは…これをUVライトじゃなくて、溶剤を使って固めるんだ。 そして、陣内くんのご指摘通り…レジンはめたくそ高い。 だから…お金を掛ける部分と、そうでない部分のメリハリを付ける必要があるんだ。 僕は、不安げに首を傾げる陣内くんを見つめて、ニッコリ笑って言った。 「…僕は、今回は、フィギュアを紙粘土で作ろうと思ってるんだ。」 「ふぁっ!?」 間抜けな声を出した陣内くんは、僕を見つめて深呼吸した。そして、ゆっくりと、確認する様に、上目遣いでこう聞いて来た。 「…春ちゃん、まず先に聞こう…。君は、どの程度のジオラマを作るつもりなんだい…?」 そんな彼の言葉にコクリと頷いた僕は、生唾を飲み込むみんなを見つめて、ニッコリ笑って言った。 「2畳…。丁度、2畳分のジオラマを、作ろうと思ってる!」 「まじかぁ~~!でかすぎる~~~!」 「まじだ!」 陣内くんの手元の紙を手繰り寄せた僕は、長方形を横に2つ並べて描いた。そして、その5分の1に線を引いて言った。 「…ここから、こっちが海だ!」 「はぁ~~?!」 呆れた様に両手を上げる陣内くんをケラケラ笑って見下ろした僕は、ニヤニヤと口元を緩ませて笑顔を見せる1年生を見つめて言った。 「レジンで固めた海の中に…アトランティスを作るんだ!そして、潜水艦と…水中探査機も欲しい!イルカと戯れる…島人の姿を作るのも…面白いね!」 「ははっ!良い!先輩!面白い!!」 そう…ジオラマは自由だ…! 見る人が、思わずクスリと笑ってしまう様な…そんな、遊び心を取り入れて、一度では気付け切れない情景を映す。 そんな、素敵なジオラマを、みんなと、作りたいんだ… 「春氏…これは、大掛かりな一大事業ですぞ!!」 「そうだ。だから…夏休みを利用する。」 伊集院くんの言葉に深く頷いた僕は、そう言い切って、みんなを見まわした。そして、目に力を込めてこう言った。 「僕たちは…模型部だ。細かい作業を繰り返して…繊細な物を作る事が好きな集団だ。みんなそれぞれ、得意とする分野が違う。でも、その違いを…有効に発揮出来る場所がある。それが…ジオラマだ。この大きな舞台は、皆の技術の集大成をひとつの作品に込める事が出来る。僕はね…みんなと一緒に、そんな何かを全力で作ってみたいんだ…!」 「春氏!」 「は、春ちゃん…!!」 「先輩~~!」 そう、こんな規模のジオラマはそんじょそこらの気合では、完成させる事は不可能だ…。僕は、それを、時間に制限のない夏休みを、フルで使って…やってみよう。と…みんなに持ちかけている。 「犠牲は…ある。多分、すっごい疲れるし、色々な予定をキャンセルしなくちゃいけない場合も出てくる。でも…出来上がった物は、きっと素晴らしい物になる!ねえ、どうだい?もし…僕のこの案を支持してくれるなら、拍手をくれないか…」 「春ちゃん!おらも…おらも、やるだよっ!!」 急にやる気を見せた南條くんは、タッパーのべったら漬けを全て食べつくして、僕に拍手をくれた。 「先輩!俺も…俺も、やってみたい!」 パチパチ… パチパチパチパチ… 「我らNゲージ部隊は…春氏に付いて行くでござるよ!デゴイチを空に上げる…それは銀河鉄道じゃなくても出来るでござる!」 パチパチパチパチパチ… 「ゴジラは…一番安いのを買おう。そして、塗装し直そう…それで、良い…!」 パチパチパチパチ… 「…春ちゃん…」 「陣内くん…どう…?」 ひとりだけ浮かない顔をした陣内くんは、僕をじっと見つめて押し黙ってしまった。 僕は、シュンと背中を丸めた彼を覗き込んで首を傾げた。すると、彼は悲しそうに眉を下げてこう言った。 「…彼女が…夏休みは、デートや、お祭りに行きたいって…」 そうか… 僕は陣内くんの背中を叩いて、にっこりと笑って言った。 「じゃあ…陣内くんは出来る範囲でカバーしてくれっ!僕たちは、全力を尽くす!よし、みんな…やるぞ~~~!陰キャの底力を見せつけようじゃないか~~!」 「うぉおおおお~~~!!」 一気に盛り上がった模型部の部室の中は、クーラーを利かせているにもかかわらず、汗ばむほどに暑苦しくなった。 …そして、あっという間に、下校の時間を迎えた。 部活の帰り道…僕と陣内くんは、一緒に駅へと向かって歩きながら、構想を練った。 「ベニヤじゃたわむ…もっと強い土台が必要だ。完成後、移動させる事を考えたら、頭上を走らせるレールも立地も、組み立てを考慮して作らないと…」 「フンフン…なる程ね…」 さすがの陣内くんは、僕に色々と教えてくれる。そんな彼を見上げながら、僕は何度も頷いてメモを取った。すると、陣内くんは僕の手元のメモを眺めながらこう言った。 「…ねえ、春ちゃん?さっき、ざっと計算したら、あの範囲をレジンで埋め尽くすには、900リットル必要だったよ。」 「はぁ~?!そ、それは…ほぼ1トンじゃないか…あはは…あははは…」 少し、僕は、大風呂敷きを広げすぎたみたいだ… 他の方法を、考えなくてはいけないかもしれない。 「んじゃあ…他の材料を、ホームセンターに行って…買って来ようかなぁ…」 「それより、春ちゃん…まじでさ、千秋君に謝ってよ…」 急に表情を変えた陣内くんは、僕を横目に見てそう言った。 「分かってるって…」 彼に苦笑いをした僕は、思った以上にちいちゃんを気にする陣内くんを見つめて、眉を下げた。すると、陣内くんは一文字に結んだ口を動かして、言った。 「昨日の彼は、とっても…悲しそうだった…。あんな顔を見た事は無かった。春ちゃん…ふたりの過去なんて、僕は知らない。でも…昨日の君は、言い過ぎだ。」 そうだね…君の言う通りだ… 「…うん。その通りだ…」 陣内くんと別れた僕は、電車に乗って…自宅の最寄り駅まで向かった。そして、駅前のとらやで、手土産にちいちゃんの好きな羊羹を買った。 …これで、許してくれるかな… そもそも、怒ってるのかな… そんな気持ちを抱えたまま、自宅のマンションへと帰って来た。 下から見上げたちいちゃんの家の前には、彼が既に帰っている証拠に…バスケットボールがダランとぶら下がっていた。 自分の家の手前…僕は、ちいちゃんの家のインターホンを押して…応答を待った。 「…はい。」 「ちいちゃん…あの…昨日は、ごめん…ね、開けて…?」 彼の声を聴いた瞬間…僕の胸が鋭い刃物で抉られた様に、痛くなった。 …予想以上に彼の声が暗かったんだ。 でも、きっと…インターホン越しだから…たまたま、そう、聞こえただけだ。 そして、僕が彼に対して…後ろめたさを感じているから、そう、聞こえただけだ… ガチャ… 目の前の玄関が開いた。 僕は顔を覗かせて、同じ様に顔を覗かせたちいちゃんと目を合わせて、固まった。 「何…」 ぶっきらぼうにそう言ったちいちゃんは、僕の知ってる…いつもの彼じゃなかった。 目を丸くして息を飲んだ僕は、手に持った紙袋を掲げて言った。 「あ…あ、あの…これ、とらやの芋羊羹…」 「…要らない。」 「え…」 ガチャン… 目の前で、無慈悲に閉じられた玄関を見つめて…僕は呆然と立ち尽くした。 どうやら…僕は、彼を酷く怒らせてしまった様だ。 一緒に成長して来た17年間…僕は、一度も、ここまで彼を怒らせた事は無かった。 だからかな… とっても、悲しかった… 「ち、ちいちゃぁん…怒んないでよ…!ごめんって…ねえ…!ごめんってばぁ!」 玄関をコンコンとノックしながら、必死に扉の向こうのちいちゃんにそう言った。 でも、彼はもう、玄関の前には居ないみたいで…ただ、馬鹿みたいに謝り続ける、僕の声だけ…虚しく響いて消えて行った。 「あんた、何してんの…?」 そう言ったのは、うちのお母さんだ… 「…ちいちゃんを怒らせてしまった…」 「あ~あ!馬鹿やったね!も、帰って来な!」 そんなお母さんの声に頷いた僕は、トボトボと背中を丸めたまま、自分の家の玄関に入った。 今日…僕の名前を呼んだちいちゃんは、あんなに冷たい目をしていなかった。 だから、きっと…怒ってなんか無いって、踏んでた。 …でも、僕の予想は外れたみたいだ。 手を洗って…夕飯を食べた僕は、風呂に入って…自分の部屋にこもった。 そして、ベランダに出て、隣のちいちゃんの部屋を覗き込んで言った。 「ちいちゃん…ちいちゃぁん!」 電気は点いている。 いつもなら、こんな風に僕が呼びかけたら…カーテンを開いて、顔を覗かせてくれる。 そう…いつもなら… いつまで経っても反応のない彼の部屋を見つめていた僕は、部屋に戻って、メジャーを手に戻って来た。そして、目いっぱい伸ばしたメジャーの先で、彼の部屋の窓をカリカリと音を立てながら撫でた。 シャーーーッ! 「あ!ちいちゃん!」 カーテンを開いたちいちゃんは、僕をジト目で睨みつけながら、窓を開いた。そして、僕の手に握られたメジャーを、乱暴に取り上げて、僕の部屋に向かって放り投げた。 「な、なぁんだぁ!なんで、なんでそんなに怒ってるんだぁ!」 無言で部屋の中に引き返そうとするちいちゃんの服を掴んだ僕は、そのまま彼の腕を手繰り寄せて、がっちりと掴んで言った。 「昨日の事…?ねえ、昨日の事を怒ってるの…?あれは、僕が悪かった…!本当に、ごめんなさい…!!」 「もう…構うなよ。俺に消えて欲しいんだろ…?俺の顔も見たくないんだろ…?望み通りにしてやるよ…。もう、話しかけてくんな…。俺も、お前の顔なんて…見たくない。」 え… そう言った、ちいちゃんの声も…目も…体全体から出ている雰囲気も…今まで見た事もないくらいに、冷たくて…痛くて、僕を突き放す様な物だった。 彼の腕を掴んだ手に力が入らなくなった僕は、ヨロヨロと体を振りながら、自分の部屋のベランダにへたり込んだ。 そして、意図せず込み上げてくる嗚咽を、堪え切れずに…背中を揺らしながら泣いた。 僕は…取り返しのつかない事を言ってしまったみたいだ… 陣内くんが言っていた…親しき中にも礼儀あり。 そんな大事な事を忘れて、ちいちゃんに…言ってはいけない酷い事を言ってしまった…!! ピシャン…シャーーーッ! ちいちゃんがベランダの窓を閉めて…乱暴にカーテンを閉めた。 僕を、ベランダに…残したまま… 「うっうう…うう…なぁんで…何でこんな…こんなぁ…」 自業自得なんだ… 彼は、僕に何もしていない。 それは、昔から…そうだ。 なのに、 なのに… 僕は、彼に理不尽な怒りを…ぶつけていた。 本来なら、僕に意地悪をする相手へ向けるべき怒りを…全て彼に向けていた。 ちいちゃんが居るせいで、僕が意地悪される… そんな卑屈で…情けない、八つ当たりを…彼に繰り返していた。 「こ、これじゃ…僕に、意地悪をして来た人たちと、同じだぁ…」 涙を拭いながらそう呟いた僕は、取り返しのつかない事をしてしまった自分に、ため息を吐いて、首を横に振った。 17年間…なんだかんだ…仲良く、一緒に育って来た彼が、僕の顔も見たくなくなってしまう程に、怒ってしまった。 それは、僕の甘えがもたらした…八つ当たりのせいで、だ… そう。 僕はいつも…ちいちゃんを拒絶しながら、彼に甘えていた。 何を言っても許してくれる…なんて、自分勝手な思いのまま…彼の気持ちも考えずに…奢っていた。 ベランダから部屋に戻った僕は、落ち込んだ気持ちを持ち直す事が出来なくて…そのままベッドに突っ伏して寝転がった… そして、何気なく壁を撫でて、次の瞬間、思いきり引っ叩いた。 バン! いつもなら…隣の部屋のちいちゃんが、お返しとばかりに叩き返して来る筈なんだ。 そう…いつもなら… でも、もう、無いみたいだ。 いくら待っても、彼からの返答は無かった。 「ちいちゃん…」 いつもみたいに…笑ってよ。 僕は…君の事が、大嫌いだ… 優しくて、思いやりがあって…いつも、僕を助けてくれる… 誰よりも、僕と一緒に遊ぶことを最優先させて、地味でつまらない遊びにも、目を輝かせて笑ってくれた。 そんな君が、他の子と遊ぶ事が…嫌だった… ずっと傍にいて欲しかった… 僕だけのちいちゃんだと思っていたのに、君はあっという間に人気者になって…どんどん僕から離れて行ってしまった。 それが、とても…悲しかった… 僕は、君に…置いて行かれた気がしたんだ… すぐに友達を作れる君は、みんなの羨望の眼差しを受けて…輝いて見えた。 卑屈になった僕は、君を遠ざける事で、自分を守った。 女の子にも人気な君は、あっという間に…一線を越えたね。 あれは僕が塾から帰る帰り道…偶然、見てしまったんだ。 君が、当時付き合っていた女の子にキスする所を… その時のショックといったら…ないよ。 僕は、1週間、熱を出して中学校を休んだんだ。 お母さんが心配して、僕を大きな病院に連れて行くくらいだ。 何とか持ちこたえた僕は、もっと卑屈になって…自分を守った。 ねえ、どうして、あんなにショックを受けたのかな… ちいちゃん、君は、きっと、既に済ませてるんだろ…? 同じ様に育った筈なのに…君はどんどん先に進んで行って、僕はずっと…ここに居る。 …女の子とキスする事も、エッチな事をする事もなく。 ずっと、変わらずに…馬鹿みたいな模型を作る事に熱心になってる。 君は成熟していくのに…僕は、子供のままだ… …情けない。 きっと…こんな自己嫌悪が、僕を卑屈にさせて…君に理不尽な怒りを向けてしまう原因になっているんだ。 ごめんね…ちいちゃん… 君の様に…なりたいって、心の底で…憧れて、ひがんでる…それが、僕だ… 次の日の放課後… 「春氏!春氏!」 「んっ?!」 伊集院くんの声に顔を上げた僕は、不思議そうに首を傾げる彼を見つめて言った。 「ど、どうしたの…?」 「スケールを把握したいから、体育館へ行って、マットを持って来ようと思ってるでござる。一緒に来て欲しいでござる!」 作業スペースを確保する為に部室の机を廊下に出した僕たちは、秋の文化祭に向けて、各々の構想を練っていた。そして、伊集院くんは“1畳”の感覚を掴むために、体育館のマットを持ってきたいと僕に言ったんだ… 「あ、あぁ…うん。良いよ…」 にっこりと笑った僕は、伊集院くんと一緒に体育館へと向かった。 「…疲れてるでござるか?」 「へ…?何で?」 「何だか…ぼんやりしているでござる…」 そんな伊集院くんの心配を受けながら、僕はバスケ部の靴の音がキュッキュッと鳴り響く体育館へとやって来た…。 自然と視線を下に向けた僕は…先を歩く伊集院くんの踵を見つめたまま、彼の後ろを付いて歩いた。 「春氏!これは一畳でござるか…?」 「…へ?…た、多分…」 歯切れの悪い僕の言葉に首を傾げた伊集院くんは、大きくて重たいマットを両手で持ち上げて、そのまま…後ろに転げて倒れた。 「あぁ…!」 ドテン…! 「ぷぷっ!」 「春氏!笑ってないで、助けて欲しいでござる!」 マットの下敷きになった伊集院くんがツボに入ったんだ… だって、ゴキブリみたいに両手両足を動かしてて、面白いんだ! 「ふふっ…!ははっ!あははは!!」 「春氏~~!」 …いつもなら、こんな風にしていたら、僕の傍に来てくれた筈なんだ。 春ちゃん…何してるの…?って… 「はぁ…」 そんな声を期待して待っている自分に気が付いて、嫌気がさして、思わずため息がこぼれた。 僕は伊集院くんの上に乗ったマットを両手で引き上げて、彼を助けてあげた。そして、片側の持ち手を掴んで、ヨロヨロになった伊集院くんに言った。 「ほ、ほらぁ…!僕が、こっちを持つから…伊集院くんはそっちを持ってよ。」 「お、思った以上に…重たいでござる…!!」 本当…このマットは思った以上に重たかった! まだ1メートルも進んでいないのに、既に手のひらがひりひりと痺れて痛くなって来た。そんな、弱っちい自分に気合を入れる様に、眉を上げて伊集院くんに言った。 「男だろっ!」 「はっ!とんだ、時代錯誤でござるよ…!」 伊集院くんは反対側の持ち手を掴んで、僕よりも低い位置で構えて、僕の後を付いて来る。 「ちょっとぉ!先に行ってよ…!そして、僕よりも下に持ったらダメだぁ!同じくらいの位置で持って!これじゃ、僕ばっかり負荷がかかるだろっ!」 「なぁんででござるかぁ!春氏が先陣を切る。春氏がそれがしを先導する…それが、長の務めでござるよ?」 こんな時だけ…!! 「んぁあ~~!!」 底力を見せた僕は、マットを思いきり上に持ち上げて、反対側で豪快に転んだ伊集院くんを引き摺りながら体育館の中を進んだ。 「おぉ…!春ちゃん、男前だぞ!」 そんな同級生の声なんて、聞こえないくらい…僕は神経を集中させて、視線を下げたまま…体育館の中をマットを引き摺って歩いた。 見てよ。 助けて貰わなくても…僕は、ひとりで…ちゃんと出来る。 でも、出来れば…こんな頑張りを見せた僕に、声をかけて欲しい。 春ちゃん…どれ、俺が持ってやるよって… そう、言って欲しいんだ… バタン! …運動部の汗っかきのせいだ。 踏ん張った上履きが汗で滑って、僕はものの見事に顔面から転んだ。 「うわぁん!いったぁい!!」 「は、春氏~!…あぁ!た、大変だぁ!」 「春ちゃん、だ、大丈夫…?」 そう言って駆けつけて来てくれたのは…僕の、まるちゃんだった。 「はぁ~ん!痛い、痛いよ…まるちゃぁん!」 両手を伸ばして彼に抱き付こうとする僕に、伊集院くんが手を伸ばして言った。 「春氏!鼻血が出ているでござる!」 な、何だってぇ…?! “血”なんて言葉に固まった僕は、機能停止したロボットの様に、まるちゃんに伸ばした両手を固めたまま、じっと自分の鼻の奥から垂れて来る生ぬるい液体の温度を感じていた。 「大丈夫…こうしていれば、血は止まる…」 まるちゃんは静かにそう言うと、誰かがくれたティッシュを僕の鼻に当ててくれた。 彼の顔が間近に見えて、汗をかいたビブスの奥に思いを馳せた僕は、異常に興奮して言った。 「うっそ~!止まんなぁいよぉ!」 「…止まる。」 はぁはぁ…た、た、た、楽しい…! まるちゃんは…優しい。そして…強いんだ。 しかし、まるちゃんが言った通り…僕の鼻血はあっという間に止まった。 本当は、もっと、向かい合って傍に居たかったけど…自分の血小板の働きには、文句は言えない。 「これを…模型部の部室まで運ぶの…?」 僕と伊集院くんが四苦八苦していたマットをクルクルと丸めたまるちゃんは、小脇に抱えながらそう言った。 あまりにあっけなく重たいマットを扱うもんだから、僕と伊集院くんは、顔を見合わせて、ケラケラ笑いながらまるちゃんに言った。 「うん…!」 「じゃあ…持って行こう…」 あぁ…まるちゃん…僕は、君が…大好きだ! 「ありがとう…まるちゃん…」 デレデレになった僕は、鼻の下を伸ばしながら…大好きなまるちゃんを見上げてそう言った。 「千秋~!カッコいい~~!」 ガコン! 頭の上から、ちいちゃんの彼女…柏木さんの黄色い声援が聞こえて、左側でもの凄い音が響いて聞こえた。 でも…僕は、まるちゃんの背中しか…見ない様にした。 「わぁ…。春ちゃん。千秋先輩は凄い高くまで飛べるね…ダンクが出来るなんて、カッコいいね…。ねえ、スカウトされてるんだって…知ってた…?」 スカウト…? 「なんの…?」 まるちゃんの背中を見つめてそう尋ねた僕は、目の端で頭上の柏木さんに投げキッスをするちいちゃんを見て…咄嗟に顔をそむけた。 「なんのって…プロバスケチームにだよ…」 「へぇ…どうでも良い…」 下唇を噛み締めた僕は、つっけんどんにそう言った。 そして、大きなまるちゃんの背中に手を当てて、彼の顔を覗き込みながらケラケラ笑って言った。 「まるちゃん、早く行こう?僕が押してあげる!ほらぁ~!ふふっ!」 「わぁ…!はは…!」 楽しそうなまるちゃんの声に頬を上げた僕は、伊集院くんと一緒に、まるちゃんの背中を押して、この目に毒な…体育館を逃げる様に後にした。 いつもそうだ… 君は、僕の目の前で…誰かにアイコンタクトを取って、誰かにキスを贈って、誰かを探して、誰かに声を掛ける。 そんな…君が、僕は大嫌いだ… 顔も見たくないよ、さようなら…僕の、幼馴染だった人。 「春ちゃん、マット…何に使うの…?」 そう尋ねて来たまるちゃんは、僕を見下ろして首を傾げた。 「あのね、実は…模型部は、秋の文化祭に向けて…一大プロジェクトをスタートさせたんだ!ふふっ!きっと…まるちゃんは楽しいと思うよ?」 そう…ちいちゃんと違って。 ムフムフ笑う僕を見下ろしたまるちゃんは、目じりを下げてクスクス笑って言った。 「それは…楽しみだね。」 「むふぅ~~!まるちゃぁん!」 「あぁっ!春氏!よすでござる…!!」 可愛いまるちゃんの笑顔に…僕の理性は吹っ飛んだ。 迷わずまるちゃんの背中に乗った僕は、彼の汗だくの髪に顔を埋めて、バーサーカーの様に匂いを嗅ぎまくった。 すぐに、馬鹿力を見せた伊集院くんによって…引きずり降ろされたけど…常軌を逸した僕の醜態に、まるちゃんは身を強張らせていた。 「はぁはぁ…まるちゃんの笑顔は、100万ボルトだ…!僕の理性をヒューズの様に吹っ飛ばしていく!」 肩で息をした僕は、まるちゃんから視線を逸らして、深く深呼吸をした。 中庭の緑は、乱雑に伸びきってる…誰も、庭の手入れなんてしないからだ… 真夏のカンカン照りの中…小鳥も来やしない学校の中庭を凝視しながら、僕は魅力的なまるちゃんに本能を揺さぶられない様に、必死に気を逸らして歩いた。 恋に踊らされた僕は、気が付いたんだ。 このウェーブはすぐに収まるって…気付いた。 本能に体を支配される瞬間があるんだ。その波を乗り切れば…何とか、激しい激情をやり過ごせる。 つまり、これらをコントロールする術を手に入れれば…僕は、理性を失わずに…我を忘れずに、もっと、まるちゃんと、普通に…一緒に居られる。 「はい。1枚で良いの…?もうひとつ、持って来ようか…?」 「も、もう1枚…欲しいな…」 ウェーブを乗り切った僕は、もじもじしながらまるちゃんにそう言った。そして、再び…目に毒な体育館へと、彼と一緒に戻った。 「良いの…?練習中でしょ…?」 まるちゃんを横目にそう言うと、彼は僕を見下ろして首を傾げて言った。 「…良いんだ。だって、俺は次の試合だから…」 俺…だって…! ぐふ、ぐふふふ!! 「ねえ、春ちゃん…夏休みは、忙しいの…?」 「…へ?もちのロンさ!お盆休みと土日以外は、大忙しになる事、間違いなしだ!ねえ、まるちゃん?楽しみにしててね…?僕は、これに…全力を費やすから…!」 まるちゃんを見上げて僕はそう言った。そして、目じりを下げて微笑む彼を見つめて、同じ様に目じりを下げてにっこりと微笑んだ。 「…まるちゃん、もうすぐ試合だから、あんまり遊んでんなよ…」 ちいちゃんは、体育館へ戻ったまるちゃんにすぐにそう言った。 他の人がそうした様に…まるで、僕の事なんて見えないみたいに…まるちゃんにだけ、そう、話しかけた。 「…まるちゃん、僕、ひとりで持って行けるよ。ありがとう…助かった!」 「もうひとつ手伝ったら…すぐにダッシュで戻って来るんで…すみません。」 僕の言葉を制する様に、まるちゃんはちいちゃんにそう言った。そして、目を丸くする僕を見下ろして、優しく微笑んで言ったんだ。 「春ちゃん、今度の土曜日…遊園地に行こうか…?」 は…?! 「え?え、え…え…い、いい…行くぅ…!ぜ、ぜぜ…絶対、行くぅっ!」 カクカクと首を揺らした僕は、目の前のまるちゃんの周りに…綺麗な花が沢山見えて、微笑みかけて来る彼の笑顔の周りに…キラキラと光るアンノウンな白い発光体を目撃して、目を大きく見開いた。 彼は…神様の、奇跡だ…!! 「はぁはぁ…はぁはぁ…!!」 胸の奥が高鳴って、激しく動揺した僕は、呼吸をする事もままならない… まるちゃんはそんな僕に笑顔を向けて、走ってマットを取りに行った。 僕は、ただただ目を点にしたまま、目の前のちいちゃんを見つめて口をパクパクして言った。 「で…で、でで…デートだぁ…!」 「フン…」 彼は僕の感動を一蹴して踵を返してどこかへ行った… 正直、ちいちゃんがどこへ向かおうとも、どうでも良かった。 ただ…まるちゃんにデートに誘われた事実だけが、僕の頭の中をクラクラと揺らして、その後の自分の行動の履歴を、全てあいまいな物にした… 「…土曜日…遊園地…土曜日遊園地…遊園地、土曜日…9時…駅前で、待ち合わせ…はぁはぁ…く、く…9時…!駅前で…!!」 「…もう、春ちゃんは、どうしたんだ!」 まるちゃんと一緒にマットをもう1枚持って模型部に戻った。 でも、僕にはその前後の記憶が良く分からない。どうやってここまで戻って来たのか…その間、まるちゃんと何を話したのかさえ、覚えていないんだ。 ただ…別れ際に彼が言った言葉だけ、忘れてしまわない様に…何度も復唱した。 今度の土曜日…9時に、駅前で待ち合わせをして…一緒に、遊園地へ行く。 「きゃ~~~~~~っ!!」 「なぁんなんだぁ!も、集中できないだろっ!」 後藤君にお尻を引っ叩かれた僕は、そのままマットの上につんのめってゴロゴロと体を転がした。 「あぁ~…もう、春ちゃんは…」 陣内くんの呆れ声を耳に聴きながら、僕の顔を覗き込んで来た南條くんをぼんやりと眺めていた。すると、彼は首を傾げて、2枚並べられたマットの上を指さして言った。 「春ちゃん!なぁ…ここは、海なんだっぺ?」 「そだよ…海だよ…ぐふふ。」 心ここにあらずな僕の返事を聞いた南條くんは、おもむろに自分の鞄から何かを取り出して、僕の目の前に掲げて見せた。 は…?! 「こ…こ、これはっ?!」 それは、1/700スケールの戦艦大和…エッジングパーツがふんだんに船上に付けられた風貌は、まさに…プロの仕上がり…! 「…おらが作った。」 キョトンと首を傾げてそう言った南條くんを見つめた僕は、渾身の咆哮を上げて言った。 「すんげぇぇぇっ!!なぁんだこれぇ!」 僕は勢いよくマットの上から飛び起きて、南條くんの見せてくれた戦艦大和をまじまじと見つめて、ため息を吐いた。 「春ちゃん…エッジングパーツが、えぐい…」 僕と頬を突き合わせてそう言った後藤君は、すっかり武骨ながらに美しい形を見せる南條くんの戦艦モデルに夢中になった。 「あぁ…見て、ここ…とってもリアルだ…」 「ふふ、凄い…ほんと、かっこいい…」 まるで船上に誰かが出て来そうな程に、南條くんの仕上げた大和は…完璧だった。 すっかりメロメロになった僕と後藤君は、べったら漬けを口の中に放り込む南條くんを潤んだ瞳で見つめて、ため息をついて言った。 「…凄い…!」 「おら、船しかつぐんね…。戦艦、船舶、漁船、タイタニック…。どれも、細かい部品と、エッジングパーツが多すぎて、おらの作業は…ここだと出来ねんだ。」 エッジングパーツ…それは金属で出来たパーツの事。 普通のプラモデルはプラスチックで出来ている。 しかし、表面に付ける凹凸、細かな部品…などを、エッジングパーツと呼ばれる金属のパーツで再現させる事がある。 それは、網目だったり、糸ほどに細いパーツだったり、多岐に渡る… 切断する事も、接着する事も、技術の要る代物なんだ。 南條くんの作った大和の様な本格的な戦艦のプラモデルは、戦車のプラモデルとは桁違いに…そのエッジングパーツが多い事で有名。 つまり、南條くんは大穴の黒い馬!ダークホース!一番のプラモデル上級者だったという事だ! 「あ~はっはっは!これは凄い!春ちゃん!海上は南條くんにお任せだな!」 大笑いした後藤君は、南條くんの大和を手に持って机に座った。そして、まじまじと角度を変えながら、じっくり、ゆっくりと、鑑賞し始めてしまった。 「あぁ…僕も、僕も、見たぁい!」 「ん、も…!春ちゃん!マットの上を走らないで欲しいでござる!それがしたちは、レールをどう設置するか…思慮に思慮を重ねているんでござるからね!」 伊集院くんに、怒られた。 でも、こんな素晴らしいプラモデル、見ない訳には行かないよ。 「ね…もしかして、この…先端の、これは…?」 「このプラモデルの中で、いっちゃんこまけえエッジングパーツだぁ…」 クラクラする… 1ミリにも満たない細さのこんなパーツ… ルーペでも目に嵌めないと、僕には無理だ。 「…南條くん、1/1000…もしくは、1/1200の戦艦を海上に作ってよ…ゴジラを陸海で挟み撃ちしよう…?海にはレジンを使うから…潜水艦を作ってくれたら、一番良い所に置いて、固めてあげる。ね…?作ってよ…」 「…そだなぁ。原子力戦艦でゴジラをおびき寄せても良いっぺな…」 「連合艦隊だな…豪華だ…」 うっとりと瞳を細めた後藤君は、嬉しそうに口元を緩ませた。彼は、同じ様なリアル路線を地で行く…良い仲間を見つけたみたいだ。 「南條くんの大和は圧巻だった!あんなに素晴らしいプラモデル、入賞してもおかしくない!他にも、あのZ旗の三笠を作ってるって言うんだから…脱帽さ。戦艦選びのセンスも気に入った。僕もさぁ…横須賀の三笠に乗った事があるんだけどさぁ~…」 「春ちゃん…千秋君と、どうなった…?」 陣内くんと駅まで帰る途中…彼は、再び僕にちいちゃんの事を聞いて来た。 夕方6時を過ぎたというのに、まだまだ明るい空は赤く色を染める程度で、蒸し暑さも、蝉の鳴き声も…まるで、昼間の様だ。 そんな空を見上げた僕は、隣の陣内くんを横目に見ながら苦笑いをしてこう言った。 「…謝った。でも…駄目だった…」 「…時間を置いて、もう一度謝ってごらん…?」 「ん…もう、良いんだ…」 …元々、気が合う訳じゃない。 住んでる世界も違う。 タイプも違うし、周りに集まる人も、好きな物も、違う。 ただ…幼馴染だっただけだ。 僕は、俯いて、陣内くんにそう言ったっきり、もう…話したくなくなった。 そんな僕を横目に見た彼は、肩を落としてこう言った。 「…高校生になって、彼女が出来て…他人と一緒に居る事の難しさを思い知った…。自分が思っている事は、言葉にしない限り…相手には通じない。」 陣内くんは、ため息を吐きながらそう言った。 その様子は、僕に話している様にも見えるし…自分に言い聞かせている様にも見えた。 「…うん。」 自分が思っている事は、言葉にしない限り…相手には通じない…か。 女の子と付き合うと、達観した物の考え方が出来る様になるんだろうか… まるで大人の様な教訓を残した陣内くんと別れた僕は、いつもの電車に揺られながら自宅の最寄り駅まで帰った。 僕は…自分の気持ちを、言葉にして…ちいちゃんに伝えて来たさ。 君といると…自分が傷つくと。 何度も、伝えて、彼を傷付けて来た… だから、僕たちの友情は…悲鳴を上げて壊れてしまった。 陣内くん… 自分の思っている事は、言葉にして伝えてはいけない時もあるみたいだ…。特に、感情的になっている時はね… 電車を降りた僕は、いつもの帰り道を背中を丸めながら歩いて進んだ。 ふと、行く先にちいちゃんを見つけた。笑顔で笑う彼の隣には、柏木さんの姿があった。 ほんの一瞬見ただけなのに、僕の胸は苦しくなって…喉の奥が痛くなった。 いつもそうだ… 君は、僕と居るよりも…他の誰かと居る時の方が、楽しそうだ。 こんなの…慣れてる。 小さい頃から、そうして来た様に…僕は、気が付かない振りをしながらちいちゃんの前を通り過ぎた。 さようなら…僕の幼馴染。 君とは、分かり合えない。 「ただいま…」 「おっかえり!春ちゃん!聞いて?お父さんが…お父さんが…!夏休みに帰って来るのよっ!!ヒャッホ~~イ!」 お母さんは結婚20周年を迎えるというのに、未だにお父さんの事が大好きなんだ。 ご機嫌な気分を料理でも表現している。 まるでクリスマスの様な食卓には、三角の帽子が人数分置かれて、シャンメリーが氷水で冷やされている。 「そうだ…僕、土曜日…まるちゃんと遊園地に行くんだ。」 めでたい雰囲気につられた僕は、お母さんにそう言った。 「まじか…デートじゃん!」 そう…。デートだ… 「でも…嬉しそうじゃないね?」 そう…その理由は自分でも分かってる。 お母さんの言葉に、俯いて首を傾げた僕は、涙をポロリと落として苦笑いをした。 ちいちゃんの…せいだ… 「腋毛を剃って…足の毛を剃れ、そして、腕の毛もつるつるにして行くんだ。顔の毛も剃って、いつキスしても良い様にリップクリームも持って行け!」 お母さんは僕を食卓に座らせてそう言った。そして、後から現れるであろう妹を今か今かと待ちわびる様に、ソワソワし始めた。 バタン! 「なぁんだぁ!今日はクリスマスかよっ!」 男になりたがってる妹は、扉を勢いよく閉めて僕の隣にドガっと座った。すると、前のめりになったお母さんは、ケラケラと笑いながら彼女に言った。 「なっちゃぁん!春ちゃんが!春ちゃんが!土曜日にデートに行くのよっ!まるちゃんと!」 「なぁんだよっ!俺はこの前振られたばっかだぞ!ふっざけんなよっ!」 そんな悪態を吐く妹を窘めたお母さんは、首を傾げたままの僕の顔を覗き込んで、にっこりと笑って言った。 「そうだ!お母さん、明日…今どきの服を買って来てあげる!春ちゃんが一番かわいく見えるファッソンを提案してあげるっ!あ~ふふ!今日は、良い事の連続ね!お父さんも帰って来るって決まったし、春ちゃんのデートと、初キッスも決まった!」 お母さんの言葉に、僕は、愛想笑いしか出来なかった。 まるちゃん… 胸が、苦しいよ…助けてよ。 君の傍にいると…この苦しみを忘れる事が出来る。 優しい君の笑顔が、僕を、癒してくれるんだ… 「ふふ…あんまり…変なのを買って来ないでね…?」 僕がそう言うと、お母さんは僕の髪を撫でて、男前に胸を張って言った。 「おうよっ!」 クリスマスの様な夜ご飯は、それなりに美味しかった。 きっと、離れて暮らすお父さんへの、お母さんの愛がこもってたからだ… 「土曜日…9時…駅前…9時…遊園地…遊園地。」 風呂を済ませて自室にこもった僕は、ベッドに寝転がりながら天井を見つめていた。 そして…何度も、何度も、忘れない様に復唱していた。 土曜日…遊園地… まるちゃんは、僕がジェットコースターに乗れないと知ったら、つまらないと思うかな… 違う人と来た方が良かったと…思うかな… 「…あの子は、そんな事言わない…」 そう、そんな事…誰も、言わない。 ただ、期待外れな自分を負い目に感じた僕が、勝手に卑屈になっていただけだ。 ちいちゃん…柏木さんには、あんな笑顔を向けるんだ。 優しそうで、楽しそうだった… そら、そうだ…だって、好きな人と居るんだもの。 小学校では、雪ちゃん…あけみちゃん…遥ちゃん… 中学校では、美咲ちゃん…仁美ちゃん…桃子ちゃん…幸恵ちゃん… そして高校では、柏木さん…真理ちゃん… きっと、他にも…ちいちゃんを好きな女の子がいる。 「ねえ…ちいちゃん。」 ふと、体を横にした僕は、彼の部屋に向かって壁を見つめたまま話した。 「…キスって…どうやって、するの…?」 きっと、君は全てを済ませてる。 僕の知らない…あんな事や、こんな事を…誰かと既に済ませてる… 答える筈もない壁に向かってそう呟いた僕は、手のひらで壁を優しく撫でて、最後に思いきり引っ叩いた。 バシン! …お前なんて…大嫌いだ… 僕の気分を、いつも…台無しにする…

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