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第三章 北極星(ポラリス)・19
◆◇◆
目を開ける。ベッドの軋む音が聞こえた。布団の中で手を伸ばすが、誰もいない。
宮城家へ下宿してからというもの、俺が就寝するときは布団を敷いていた。最初は一階の和室に、しばらく時を経てからは和が「掃除を済ませたから」と二階の空き部屋に。まれにせがまれて、和の部屋のベッドに隣り合わせて寝たこともあった。
とにかく、場所はまちまちだったが居候の俺に自分のベッド、というものはなかった。施設で子供用ベッドは使用していたが、一人暮らしを始めて以降はずっと煎餅布団だったのだから、なんの支障も不満もなかったが。
しかしそのせいで、ちょっと特殊な感覚が身についてしまった。ベッドで寝ている、という局面は光と夜を共にしたあと、つまり「事後のまま」その場で眠ってしまった場合だ、という感覚が。なので一人で寝ている、という認識に乏しい。こういう場合、朝になっても光が先に床から出ているということはまずなかったので、手を伸ばせばあいつに触れられた。
だが、今はそれがない。首を捻る。誰かのベッドを占拠してしまったのだろうか?誰か……の……
そこまで思い至って、がば、と身を起こす。コーヒーの芳しい香りが鼻を突いた。
「おはよう。目ぇ覚めたか?」
ベッドの手前に置かれたソファに座り、コーヒーを啜りながら新聞を読んでいた釈七さんが振り向く。背もたれ越しに目が合った。ぎくり、と肩が上がる。
「あ。え、えぇ……っと……おはよう、ござい……ます」
「眠れたようでよかったな。コーヒーで良いか?」
新聞を置いて立ち上がり、キッチンに向かおうとする釈七さんをあわあわと呼び止める。
「あ、あの、これ……!」
「うん?お前、ケーキ焼いてる時間待ちきれなかったみたいでな、ソファーに座って待ってる間寝ちまったから」
「じゃなくて!な、なんで俺、ベッドに寝てるんすか?!」
「なんで、って。そのまま寝てたら風邪ひいちまうだろ?お前、見た目より案外軽いのな」
くすくすと釈七さんは忍び笑いを洩らす。
顔から火を噴きそうだった。遊びながら寝てしまう子どもみたいに、焼き上がりを待たずして意識をなくしてしまったのも恥ずかしければ、抱き上げられてベッドに運ばれたのも恥ずかしい。それに……
「なっ、なんで放っておかなかったんすか!しゃ、釈七さんの寝る場所、が」
「あぁ、俺がソファで寝たから気にすんな」
「いっ、いや、だからっ!」
「いいんだよ、お前は客なんだからちゃんとしたとこで寝かせねぇとだろ?それとも、一緒のベッドにこっそり潜り込んだ方がよかったか?」
釈七さんは笑いを堪え切れていない。俺の顔は更に熱くなった。冷や汗さえ滲んできそうだ。
「すっ、すみません……」
「また。謝るなよ、俺が自分で勝手にやってることなんだから」
「でも」
「昨日からずっと言ってるだろ?あ、り、が、と、う、……な?」
「あ、ありがとう……ございま、す」
「はい、よくできました」
笑みを絶やさずに、釈七さんはくしゃくしゃと俺の頭を撫でた。そしてキッチンに行くと、マグカップと濃褐色の三角形が乗った皿を手に戻った。
「ほら、お前と作ったガトーショコラ。上手く焼けてたぜ?甘さは控えてあるから、起き抜けでも大丈夫だろ」
場所を空けられたソファへ腰を下ろした俺の前に、それらが置かれる。皿を持ち上げ、フォークを入れた。切り分けた一片を刺し、口へ運ぶ。
「あ、おいし……」
どっしりと密度の濃いチョコレートケーキだが、言われた通りビターに仕上げていたため甘さよりキレの方が際立った。ブラックのコーヒーと一緒に流し込むと、チョコレートの芳醇なコクが広がる。
「そうか?俺もまだ食ってなかったから」
後から自分の分を持ってきた釈七さんは、俺の隣に座り、同様にケーキを口に入れた。
「ん、上出来だな」
黙々と咀嚼し、出来映えを確かめていたように見えた釈七さんだったが、おもむろにフォークを咥え、左手で俺の肩を抱き、引き寄せる。
「?!」
とっさの行動で何事かと思いはしたが、このひとに触れられても抵抗を感じないのはいつものことだ。昨晩とは状況が違うから、驚いたし気恥ずかしくもあったけれど。微かに、あのときのキスと言葉もまた頭を掠めた。
「前々から思ってたけど、お前、他人に身体を触れられるとやたら狼狽えるだろ?」
鋭い指摘に、身が強ばる。嘘でも否定したかったが、それもできない。
「見てりゃわかるよ。美李……オーナーや恭に、軽く肩や背を叩かれただけでもリアクションでかいからな。けど俺にこうされても、お前嫌がらねぇのな」
軽く笑って、釈七さんはぎゅっと腕の力を強めた。比例して心音が速まる。
確かに自分でも、それはずっと不思議だった。釈七さんに隙が感じられないせいもあるだろうし、彼が相手の言動をよく観察した上で触れている……つまりタイミングの感知がずば抜けて優れているせいもあるのだと思う。
何度も身体を重ねた光ですら、いきなり抱きつかれたりすると何より先に手が出てしまう。肌に熱が馴染むまで、一定以上の時間がかかった。
釈七さんに対しては、そういう感覚がまるで無い。さすがにキスや、こうして抱き締められているのはどきどきと脈拍が速まるし、緊張もする。けれど、光に感じていたあの、背筋がおぞけ立つ感触から徐々に溶解していく「過程」のようなものは一切覚えなかった。
心地良さと、安心を呼び起こす体温、とでもいうのか。熱が伝わる、というよりもこちらの熱がすぅっと吸収されていくような。
しかし、釈七さんに説明しようとしても、上手い言い回しが頭に浮かんでこない。考えつくままに口にしたところで、相手に正確に伝わるとは到底思えなかった。
「え、ぇっと、それは、その……釈七さんのことは俺……尊敬、してます、から」
言われた事に黙っているのも悪い気がして、ようやく口から出した返答は、そんな意味不明のものだった。
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