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第三章 北極星(ポラリス)・22

◆◇◆  釈七さんのマンションに到着し、部屋に入っても、俺は無言だった。買った衣類の入った袋を握りしめ、下を向く。 「鞍?早く上がれよ」  靴を脱ぐのも忘れて、三和土に佇む。自分が次に何をしていいのかさえ分からない。眉間の奥が痛む。堪えようとまた唇を噛んだ。 「鞍……」  釈七さんが俺に近づく。凍り付いたように握られた指をゆっくり広げて、まず荷物を引き取った。そのあと背中を抱き寄せると、足から靴を剥がして身体を室内に上げる。人形の如くなされるがまま、一連の動作に身を委ねていた俺は、いつしか縋り付いて彼の身頃を掴んでいた。 「釈七、さん。俺は……ここにいても、いいんですか?」 「あ?嫌だと思うなら、今頃無理矢理にでも光一郎にお前を引き渡してるよ」  釈七さんの口振りは、普段と変わらない。 「そう、じゃなくて。釈七さんの傍に、俺はいてもいいんですか?」  相手の身体が、ほんの少し強ばったのが分かる。 「……昨日も言ったはずだ。お前がそうしたいなら、俺は構わない。ずっとここに居ればいい。だけど、な?」  心持ち離れて、俺の顎を持ち上げた釈七さんは、軽く唇を重ねた。 「とにかく、一旦シャワー浴びてこい。そんな顔したお前に手出しなんか出来ねぇよ、俺」  苦笑を浮かべて、頬を撫でる。  頷いて、バスルームに向かった。惰性に任せて服を脱ぎ、浴室に入って蛇口を捻る。肌に当たる水の温度もうまく感じ取れない。  和が慈玄の元にいても、光にはキルトさんがいる。キルトさんは、光を頼っているのだ。だからああして何度も会いに来る。一緒にいても寂しかったと光は言った。けれどそれは、互いの気持ちを理解しきれなかっただけではないのか。キルトさんが和のことを認めているなら、和だってキルトさんならばと思うのではないか。  ……少なくとも、俺なんかより……。  ふるふると首を振る。髪から爪先に、雫が散る。  そんなあぶれ者の俺を、釈七さんに押しつけるのか?面倒見が良いから?優しくしてくれるから?  釈七さんは、羨ましいと言った。光と出会って、確かに俺の世界には色がついた。しかしそれはまやかしだった。モノクロ写真に、透明な板を重ねて彩色するような。その板が取り払われて尚、また昔のように、さっきみたいに、己の手足ひとつさえ動かせない俺でも、釈七さんは見てくれると?  頭の中がぐちゃぐちゃになる。胸だけがひたすら、ずきずきと痛かった。  どうしていいかわからない。どこに行けばいいか分からない。 「なぜお前がここにいる?」「ここはお前の居場所では無い」  常に心の奥底で責め立てていた声が、また聞こえる。 「鞍、勝手に悪いが、下着とスゥエット袋から出したぞ?ここに置いて……」  裡からの声をかき消すように重なったその言葉に、思わず顔を上げる。幻聴で終わってしまいそうなのがひどく怖くて、浴室から飛び出した。 「ばっ、馬鹿。お前、そんなずぶ濡れで……っ」  頭からすっぽりとバスタオルを被せると、釈七さんはごしごしと髪の水滴を拭ってくれた。 「釈七さん」 「ん?」 「釈七さんは、俺を、好きでいてくれるんですか?」  意味のない質問だ。答えようのない愚問。それが証拠、とでもいうように、髪を拭く手がぴたりと止まる。 「あぁ、いてやるよ。ずっと、な?」  慰めでしかないことは、分かってる。それでも今は、聞きたい言葉。期待を裏切らずに言ってくれたことが、本当に有難かった。 「ありがとうございます。もう、大丈夫、です」 「そうか。んじゃ、俺も入ってくるから」  手早くスゥエットを着て、洗面所を出る。  窓際に立って、外を眺めた。そこから見えるのは昨晩と同じ、真っ黒に口を開けた、桜公園の上部。  俺の存在など、ぽっかり空いた穴に呑み込まれてしまえば良いのに、と思う。そのくせ自分から飛び込むことも出来やしない。自分の臆病さに腹が立つ。冷たいガラス窓に額をつけて、じわりと滲む街の灯りを見続けた。  浴室から出た釈七さんに夕飯はどうする、と問われ、黙って首を横に振った。何も食べる気がしなかったので、ソファに腰掛け、淹れてもらった温かなコーヒーだけを口にする。どういうわけか彼も、俺に付き合ってくれた。もっとも、寝かせてあったという生地を焼いたクッキーは用意してくれたのだが、それに手を伸ばす意欲もなかった。  並んで座り、見るともなしにテレビの画面を眺める。番組の中身も話の内容も、全然頭に入っては来なかったが。意味の分からない色と光だけが明滅する、四角く切り取られた世界に目を遣りつつ、ふと思いついたことを訊ねてみる。 「……釈七さん」 「ん?」 「釈七さんは、俺の事、短所ばかりじゃないって言ってくれましたよね?」 「あぁ、言ったな」 「俺、どうしても自分が好きになれない、っつうか、自分の長所なんか全然分からないから」  クッキーを一口噛み砕くと、釈七さんは「そうだな、俺の見る限り」と前置きして話し始めた。 「お前は優しい奴だよ、鞍。自分より、相手の事情を先に考える。それに、相手の言う事やする事に、全力で受け答えしようとするだろ?多分、お前自身は自分のことなんて本当にどうでもいいんだろうな、それが短所。けど、それがひっくり返って長所になれば、その分相手を慮ってるってことになる」  優しいのと意気地が無いのは紙一重だ。彼はそう言った。 「でも、それって本当に優しい、っていうのとは違う気がします」 「そうかもな?とはいえ、受け取る側にしてみりゃ、自分のことを色々考えてくれてるの分かるって嬉しいもんだぜ?」  どこか腑に落ちない。相手の情況を真っ先に考えるなら、今日みたいな逃げ方などしないはずだ。 「俺のは、ただ単に意気地がないだけだと思います」  俯いて、己の膝を見る。 「他人とどうやって付き合って良いかわかんなかったから。相手が俺に対してどう思っているのか、何を考えてるのか全くわからなくて。俺がいることで、不快になったり嫌な想いしてるんじゃないかって」 「鞍」 「光は、見えないなら無いのと一緒だって。だけど、見えなくても嫌だったり淋しかったりするかもしれないじゃないですか!」  光だって和だって、それにキルトさんだって。  堪えていたものが、また溢れそうになる。 「だから、お前は自分一人が離れれば良いと思ったのか?全部抱えて、無かったことにすれば良いと」  言われてみれば、それが正しい選択に思えた。頭を下げて頷く。 「最初から、俺なんて関わらなければよかったんです。関わってしまっても深入りしないで、昔みたいに自分から断ち切るべきだったんだ。そうすれば、誰も傷つかなかったのに」

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