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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・25
◆◇◆
涙は止まっていたが、無表情の鞍吉は殊更等身大の人形同然だった。白昼堂々抱き上げられているのに抵抗も恥ずかしがりもせず、呆然と脱力した体で釈七に身を預けている。
「ったく、なんで一人で夢露のとこへなんか」
「俺等にも言えないようなことがあったんでしょ。相談できないような悩みを夢露になら打ち明けられそうだったとか。だけど、どうして何も否定しなかったんだ」
光一郎が苦痛げに鞍吉を見る。
彼にしてみれば、今回の件は本当に忸怩たる出来事なのだ。鞍吉を二度も夢露に近付け、ひどい目にあわせた。無論、予測できることではなく阻止など不可能だったのだが、だとしても光一郎は責を感じずにいられなかった。
「このままじゃ埒が明かないな。少し休むか」
精神的に大きな衝撃を受けた鞍吉は、言動をまるきり停止してしまう。その様子を以前も一度目にしていた釈七が気を効かす。光一郎も、言葉を失ったままでは辛いだろうと。
住宅地の狭間の小さな公園。重苦しい曇り空の下で、人の姿は疎らだ。申し訳程度に設えられたベンチに、傀儡のような身体を腰掛けさせた。
「鞍、分かるか?」
迷子の子どもに語りかけでもするように、釈七が正面にしゃがみ込んで鞍吉の膝を軽く叩きながら訊く。どうにか、濃色の癖毛頭が頷いた。
「…………どうして」
蚊の鳴くほどの声がぽそりと零れる。少しの物音でかき消されてしまいそうだったが、釈七たちが聞きそびれるはずがない。辛抱強く、続きを待った。
「どうして、俺なんかに構うんだ?」
感情の籠もらない鞍吉の言葉に、二人は一時目線を交わす。
「どうして、って。そりゃ、お前の事好きになったからだろ?」
静かに諭すふうに、釈七が先に答えた。
「好き?好きってなんだよ。目にも見えない、触れられもしない、匂いも、味もしない。だたそんな『気がする』ってだけの感情だろ?バカみたいだ、そんなもんに依存しきってたなんて」
「……何今更んなこと言ってんだよ」
淡々と吐き捨てる鞍吉に、さすがに釈七も苦痛を露わにした。
「そりゃ、感情や言葉なんて手にとれるものみたいにはっきり形があるわけじゃない。それでも光一郎も俺も、本気でお前を想ってる。好きだって、離したくないってな。その想いすら、お前は要らないっていうのか?解り合いたいとも思わないっていうのかよ」
憤りも滲むが、鞍吉を責めるのではなく、むしろ自分自身を咎めるような口調。
その後ろに突っ立った光一郎も、同じ歯痒さを懐く。近づいたと思えばまた遠ざかり、延々と追いつかない何かを永久に追い求めているのでは無いかという焦燥。
夢露にどういう意図があったのかは、光一郎には計り知れない。だが彼が、時折少々質の悪いからかいをすることは、学校での素行でも知っている。
彼の弟和宏も、しばしば対象となった。カフェでの件もその例だ。
とはいえ、夢露の動向に根本的な問題があるわけではない。
保険医は時に、カウンセラーとしての役割も担う。現在でこそ別途に雇っている学校もあるが、夢露は海外で医療関連の知識を学んだとも聞く。心理学の先進国で、当然カウンセリングのいろはも仕入れては来ただろう。
夢露はどうも生徒たちの「心理」を観察している節がある。性的な行為もそのための「手段」のひとつに過ぎない。心の奥底を暴かれることは、ある意味悪意にも捉えられる。
事実、身体を弄ばれたことが鞍吉の自失の要因ではあるまい。電話越しの彼の言葉も、あえて好きにさせているという印象だった。
つまり、鞍吉を壊したのはそれ以前。夢露の何らかの「指摘」によるものだ。
それが分かるからこそ、光一郎には心苦しい。多分、鞍吉自身も気付いていない。すべては自らが招いたことだと自責するのみ。決してそうではないのだと伝えたいのに、傷を負った精神には、容易くは届かない。
懊悩を押し殺して、光一郎は笑顔を浮かべる。手を伸ばし、項垂れた鞍吉の髪を撫でた。
「夢露に、何か言われた?」
びくりと跳ねた動作が、震えに変わる。みるみる溢れた涙が嗚咽となり、やがて小さな子どもが泣きじゃくるような声となった。
「人の言うこと、お前は疑って掛かるだろう、って。疑ってるのに、欲しいから求めるだけだって。そんなんじゃ、誰も護れないって……悔しくて、悔しいけど本当にその通りで、俺、何も言い返せなくて……」
止められなくなったのか、言葉と涙が怒濤の如く溢れ出す。釈七も光一郎も、濁流が去り尽くすのを口を挟まずじっと堪える。
「……俺は、光や晃の『好き』という言葉を疑ってる。疑ってるくせに、受け入れてるふりをしてる。そう考えたら、急に足下がぐら、って崩れたみたい、で……怖くて……」
やがては、人目を憚らぬ号泣へと変わる。刺激しないよう立ち上がった釈七が、怯えた猫みたいに萎縮した背をそっと抱き寄せた。
「馬鹿、だからこそ、俺等がお前の近くにいるんだろう?」
しゃくり上げて泣く鞍吉の耳には入っていないかもしれない。それでも釈七は頭を、背を幾度も撫でた。ここにいると、お前は一人ではないのだと必死に伝えるように。
少し躊躇して留まっていた光一郎の指も、そろそろと青味の滲む黒髪に触れる。
「頼って、依存していいんだよ。疑ったって構わない。急に信じようとしなくていいから。崩れても、躓いても、そんな足下も支えてあげるし、手を差し伸べるから。ね、大丈夫だよ」
だが光一郎の言葉に、力強さは無い。
惑いながら頭上にあった指先を、鞍吉が手探りで拾う。胸元まで引き寄せたその上に、いくつもの雫が降った。
「光、ごめん、俺のせいで、何度も……」
右手を握りしめた鞍吉の両手に、空いていた光一郎の左手が更に重なる。
「鞍のせいじゃないよ」
弱々しさは残るものの、口元に淡い笑みが浮かんだ。相手を安心させるようにも、自嘲しているようにも見える。
それを目端に捉えて、釈七は腕を解き、立ち上がった。
「……俺、ちょっと自販機で飲み物でも買ってくるわ」
目配せさえせずに釈七は歩き去ったが、意を汲んだ光一郎は鞍吉の手を握ったまま空いたベンチの隣へ腰掛ける。横にいる鞍吉は、釈七と光一郎の居所が入れ替わったのにも気付いているのか否か、ゆるゆると首を横に振り続けていた。
「俺の、せいだよ。俺がいなきゃ、考えもしないようなことで辛い思い、させてる」
口惜しげに、光一郎が下唇を噛む。今となっては彼も分かっていた、鞍吉が言わんとしている意味を。未だにそれがくすぶるからこそ、二人は同居生活を断念したのだ。
和宏なら。現在も光一郎が和宏とのみ共にいたなら、こんなことはなかったと鞍吉は言いたいのだと。
唐突に、彼は鞍吉を抱き寄せた。先ほどの釈七より、強い力を腕に込める。
「そんなこと言わないでよ。今頃思い直すなんて最低だけど、俺は、ちゃんと心まで守ってあげられてなかった。前にも同じようなことあったのに、ホント、学習能力ないな」
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